第47話 ユイの選択
ユイがギルドに来たのは、昼過ぎだった。雑貨屋の手伝いを終えた帰りらしく、小さな袋を大事そうに抱えている。
「あ」
俺を見つけて、軽く手を振った。「お兄ちゃん」
「どうした」
「……聞きたいことがある」
その言い方で、何の話か分かった。ギルドの裏手、人の少ないベンチに並んで腰を下ろす。ユイは足をぶらぶらさせながら、少し考えてから口を開いた。
「ね。“見える”のって、使うもの?」
まっすぐな質問だった。子供らしい、けれど、ごまかしの通じない問いだ。
「……どうして、そう思った」
「森の奥でね」ユイは言う。「変な人がいた。踏んでた。線を」
喉の奥が、ひやりと締まる。
「……何を、してた」
「分かんない。でも、“近道”だって言ってた」
やはり、か。ユイは俺を見上げる。
「ぼくも、できるって、言われた」
隣で、リーファが息を詰めるのが分かった。
「……それで?」
「断った」
即答だった。俺は、少し驚いた。
「理由は?」
ユイは唇を尖らせて考え、それから肩をすくめた。
「だって。踏んだあと、戻れない顔してた」
その感覚は、正しい。境界は、越えられる。だが、越えた者は元の場所には戻れない。それを、この子は理屈ではなく、相手の顔から読み取ったのだ。
「……怖くなかったか」
「ちょっと」
正直な答えだった。
「でも」ユイは続ける。「お兄ちゃん、言ってたでしょ。“使えるから使う”は、危ないって」
俺は、黙って頷いた。
「それに」ユイは、小さく笑う。「ぼく、まだ子供だし。今は、見えるだけで、いい」
その言葉が、じんわりと胸に落ちてくる。教えたわけじゃない。命令もしていない。ただ、線の在り処を見せただけだ。それでも、この子は自分の足で立ち止まる道を選んだ。
「……それで、いい」俺は、そう答えた。「見えることは、役目じゃない。選択肢だ」
ユイは、満足そうに頷く。
「じゃあ、ぼく、踏まない」
「困ってる人がいたら?」
「呼ぶ」迷いのない声だった。「お兄ちゃんを」
それでいい。全部を、この小さな肩に背負わせる必要はない。
帰り際、袋を抱え直したユイが、ふと振り返る。
「ね。いつか、見えなくなる?」
「分からない」正直に答える。「でも、見えなくなっても、生きていける。それが、大事だ」
ユイは少し考え、それから元気よく手を振って、雑貨屋の方へ駆けていった。
その背中を見送りながら、リーファが小さく言う。
「……任せたんですね」
「ああ」
「怖くなかったですか?」
「怖かった」
だからこそ、任せた。抱え込むより、そのほうがずっと難しい。
その夜。丘の上で風に吹かれていると、草を踏む音もなく、旅装の男がいつの間にか隣に立っていた。
「良い線引きだ。子供に、道具を渡さなかった」
「道具じゃない」俺は答える。「生き方の話だ」
男は、静かに頷いた。
「見える者は、増えていく。だが、踏まない者がひとりでもいれば、世界は壊れない」
「……全部、任せる気はない」
「分かっている」男は、遠くの灯を見る。「だから、お前が境界に立っている」
「増えていく、と言ったな」俺は問うた。「次に見える者が現れたとき――そいつは、踏むのか。踏まないのか」
男は答えなかった。答えの代わりに残されたのは、遠ざかっていくその背中だけだった。
丘の下で、リーファが待っていた。声はかけず、俺が下りきるまでその場から動かない。先に歩き出すことも、迎えに上がってくることも、しなかった。
守るというのは、選ばせないことじゃない。選べるようにしておくことだ――ユイの尖った唇を思い出しながら、俺は丘を下りた。あの子が「呼ぶ」と言った日に、ちゃんと駆けつけられる自分でいればいい。それだけは、譲るつもりがなかった。
一つずつ選び続けた結果は、派手な勝利の顔をしていません。それでも、確かに染みます。




