第45話 見なかった選択
その噂は、朝のギルドで耳にした。
「西の旧街道でな、道が、変だって話が出てる」
ロイドが、何気ない調子で言う。
「変?」
「まっすぐ歩いてるはずなのに、同じ石標を二度見た、ってさ」
境界の話だ。だが――
「被害は?」
「今のところ、なし。迷った奴も、自力で戻ってきてる」
俺は少しだけ考えた。決めた基準を、一つずつ当てはめていく。
人が取り残されているか。――いいえ。境界が閉じていないか。――不明だが、拡大はしていない。責任を取る者がいるか。――街道管理者が、監視中。
「……今回は、行かない」
リーファが、俺を見る。
「見送るんですね」
「ああ」
ロイドが、意外そうに眉を上げた。
「様子見か?」
「様子見じゃない。見ない」
その言葉に、空気が一瞬止まる。カウンター周りの数人が、ちらりとこちらを窺った。
「全部に反応してたら、判断が、意味を持たなくなる」
ロイドはしばらく黙ってから頷いた。
「……分かった。街道側には、注意喚起だけ出す」
「それでいい」
その日は、何も起きなかった。翌日も、その次の日も。街道は一時的に閉鎖され、管理者が石標を立て直した。
数日後。
「……収まったぞ」
ロイドが、報告に来る。
「原因は、地盤沈下だった。道が、物理的にズレてただけだ」
俺は静かに息を吐いた。肩から、細く力が抜ける。
「境界じゃなかったんですね」
リーファが言う。
「ああ」
境界の兆候に、似ていただけだ。
「……もし」
リーファが、少し迷ってから言う。
「アレンさんが、行っていたら……」
「境界だと、決めつけていただろうな」
そう答える。
「修正しようとして、余計な歪みを、作ったかもしれない」
冗談じゃない。“違うもの”を“正しいもの”として触るのは、一番危険だ。何もない地面に、俺の手が最初の歪みを刻んでいたかもしれない。
夕方、街の外れで、ユイとすれ違った。
「お兄ちゃん。西の道、もう大丈夫だよ」
「……分かるのか」
「うん。最初から、ちょっと違った」
俺は、少しだけ笑った。
「教えてくれればよかったのに」
「聞かれなかったから」
その返事に、妙に納得する。見える者でも、全部を言う必要はない。それも、一つの選択だ。
丘の上で風に当たっていると――
「行かなかったな」
旅装の男が、いつの間にか立っていた。
「正解だ」
「……そうでもない」
「ほとんどの者は」
男は言う。
「“力があるなら、使うべきだ”と思う。だが、お前は、使わなかった」
俺は空を見上げる。
「使わない判断も、力だ」
男はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
「……境界は、“触られすぎる”ことで、壊れる。それを分かっている者は、少ない」
「……だが、境界に手を伸ばしたがる者ほど、そのことを分かっていない」
その声には、めずらしく苦いものが滲んでいた。まるで、近いうちに誰かがその手を伸ばすと、知っているみたいに。
丘を下りかけて、掌を開いてみた。何も呼んでいないのに、六つぶんの重さが、そこに揃っている。使わずに持っている手のほうが、使う手よりも重い。
動かないことを選ぶのは、動くことよりも難しい。誰にも褒められず、手柄にもならない。それでも今日、俺が街道へ行かなかったことで、何も壊れずに済んだ。その静かな事実だけを懐にしまって、俺は丘を下りた。
歪みは、自然に湧くだけではありません。誰かが踏み越えた痕を、次で辿ります。




