第42話 対応基準
境界の違和感は、確実に増えていた。だが、混乱はまだ起きていない。それが、かえって厄介だった。
「……依頼数、また増えてます」
リーファが、掲示板を見ながら言う。
「内容は?」
「相変わらずです。“何かおかしい気がする”“音が遠い”“道がずれる”」
ロイドが腕を組んだ。
「被害は、まだゼロ。だが、全員が不安になり始めてる」
俺は椅子に腰を下ろす。ここだ、と思った。今、判断を間違えると、俺は“便利な何でも屋”になる。誰の不安も引き受ける、都合のいい道具に。
「ロイド。一つ、はっきりさせたい」
「なんだ?」
「俺は、全部は見ない」
ギルド内が、静まった。近くで軽口を叩いていた冒険者たちも、口をつぐむ。
「境界が広がっている。だからって、全部俺が修正するのは違う」
リーファが、少し驚いた顔をする。
「……でも、放っておくと、被害が……」
「放置はしない」
俺は首を振った。
「基準を作る」
ロイドが目を細める。
「聞かせろ」
俺は指を一本立てた。
「一つ。“人が取り残されている”案件」
子供。行方不明者。逃げられない状況。
「それは、最優先で行く」
二本目を立てる。
「二つ。境界が“閉じていない”場所。歪みが戻るなら、俺が手を出す意味はある」
三本目。
「三つ。誰かが“責任を取る気がある”案件」
リーファが、はっとした。
「……助言だけ、じゃダメなんですね」
「ダメだ」
俺は、はっきり言った。
「判断を俺に預けるなら、結果も、背負う覚悟が必要だ」
沈黙。だが、誰も反論しない。
「それ以外は?」
ロイドが聞く。
「見送る」
短く答えた。
「世界は広い。俺一人で、均せるほど単純じゃない」
ロイドはしばらく考え、やがて頷いた。
「……分かった。ギルドとしても、その基準で動く」
「助かる」
その夜、丘の上で風に当たっていると、背後からあの声がした。
「……やっぱり、そう決めたか」
旅装の男だ。
「聞いてたのか」
「見てた」
男は、隣に立つ。
「お前は、境界を“管理”しない。だが、無視もしない。一番、厄介な立場だ」
「慣れてる」
俺は空を見る。
「昔から、中途半端だったからな」
男は小さく笑った。
「その中途半端が、今は必要なんだ。……世界が、そう言ってる」
「世界は、喋らない」
俺は返す。
「だが、選択で、意思を示す」
言い残して、男は夜の側へ歩き去っていく。──そういえば、この男が何者で、なぜ俺の前にばかり姿を見せるのか、俺はいまだに何ひとつ知らない。
男の背が消えたあと、稜線の風が、俺の周りだけひとりでに凪いだ。呼んでもいないのに、応える。そういう体になってから、ずいぶん経つ。
境界は広がっている。だが、俺はそれを制御しない。線を引き、選び、その結果に責任を持つ。全部に手を出さないと決めることは、手を出すよりずっと勇気がいる。その勇気を懐に落とし込むように、俺はしばらく、暗い辺境の稜線を見つめていた。
基準は、たいてい取りこぼしから決まります。次話、掲示板のいちばん下に貼られた古い一枚から。




