第36話 境界
依頼書は、一枚だけ残した。他はすべて、ロイドに預けてある。
「……これにした理由は?」
ギルドの裏口を出ながら、リーファが尋ねた。
「内容が、一番あいまいだからだ」
依頼の文面は、拍子抜けするほど簡素だった。件名は「魔力異常の有無の確認」。場所は「旧境界線付近」。危険度は「不明」。備考には、戦闘行為は想定されていない、とだけ添えられている。
「討伐じゃない。調査でもない。確認、だけだ」
それが、かえって引っかかった。
「……境界線、って」リーファが、地図を広げる。「国境とは、違いますよね」
「ああ」
国と国を分ける線ではない。“管理が曖昧になった場所”の線だ。かつて王都が、ここから先は重要ではない、と切り捨てた地域の縁。
馬車を降り、そこからは徒歩で進む。歩くほどに、空気が少しずつ変わっていった。
「……静かですね」
「音が、薄いな」
危険を孕んだ沈黙ではない。だが、“均されすぎた”静けさだった。俺は足を止め、地面に触れる。魔力は、正常だ。ただ、その流れが“決められていない”。強制も、制御も、放置もされていない。ただ――宙ぶらりんのまま、置かれている。
「……誰かが」リーファが言う。「意図的に、何もしていない感じがします」
「正しい」
それが、一番近い表現だった。
その時。
「――ここまで、か」
前方から、声がした。敵意はない。だが、気配だけははっきりと立っている。
現れたのは、旅装の男だった。年齢不詳。装備は簡素だが、一つ一つに無駄がない。
「……誰だ」
「名乗るほどの者じゃない」男は、軽く肩をすくめた。「ただ、“境界の安全”を確認する役目を、持っている」
その言葉に、喉の奥が、かすかに強張った。
「王都の人間か?」
「違う」即答だった。「ギルドでもない。国でもない」
リーファが、息を詰める。「……じゃあ、何者ですか」
男は、少しだけ笑った。「立場で言えば、お前と近い。どこにも属さず、それでも放っておけない側の人間だ」
俺は、しばらく黙ってから言った。「……それで、俺を見に来たのか」
「半分は、な」
男は視線を逸らし、遠くを見た。「王都の声明が出た。全属性適性の冒険者が、辺境にいる、とな」
やはり、そこか。
「だが」男は続ける。「確認したかったのは、力じゃない」
視線が、俺に戻った。「お前が、線を越えるかどうかだ」
「線?」
「冒険者であることをやめる線。誰かの“側”になる線」
俺は、即答しなかった。その代わり、静かに言った。「……越えるつもりはない」
男は目を細め――やがて、満足そうに頷いた。「なら、いい。今日の確認は、終わりだ」
「待て」俺は声をかけた。「お前は、何者だ」
男は、背を向けたまま答えた。「そのうち、必要になれば名乗る」
振り返って問い返そうとしたときには、もう男の姿はなかった。“必要になれば名乗る”という言葉だけが、やけに耳の奥に残った。
リーファが、詰めていた息を吐く。「……敵、ではなかったですね」
「ああ」
だが、味方とも言えない。境界とは、場所の話ではなかった。生き方の話だ。俺が今どこに立っているのか――男は、それをわざわざ確かめに来たのだ。
街へ引き返しながら、俺は男の言葉を反芻していた。線を越えるかどうか。その問いは、答えたそばから、また新しい重さを持って残る。この一件、ロイドの耳には入れておくべきだろう。妙な依頼の出所も、まだ何ひとつ、はっきりしてはいないのだから。
越えるか、越えないか。男が残した問いに、アレンは言葉で答えません。




