第3話 死の淵
どれだけ落ち続けたのか、分からない。風を切る音も、恐怖も、途中でぷつりと途切れた。
次に目を開けた時、俺は冷たい岩の上に転がっていた。
「……っ」
喉から、掠れた音が漏れる。全身が軋み、指を一本動かすだけで、稲妻のような痛みが走った。
崖の底らしい。頭上のどこかから月明かりが細く差し込み、濡れた岩肌を青白く照らしている。落下の衝撃で、あちこちを打ったのだろう。息を吸うたび、肋の奥が鈍く痛んだ。
王都を追われ、護送の途中で囮にされ、崖から突き落とされた。助けなど来ない。ここで骨になっても、誰一人、気にも留めないだろう。
――悔しい。
怒りよりも、悲しみよりも先に、その感情が喉の奥までせり上がってきた。
努力が足りなかったのかもしれない。才能がなかったのかもしれない。それでも、命を投げ捨てられていい理由には、ならないはずだ。
身を起こそうとした、その時。
洞窟の奥で、低い唸りが響いた。
背筋が、氷を当てられたように強張る。暗がりの向こうに、赤い光がふたつ。こちらを見据えている。ただの一体ではない。気配が重く、空気そのものが張り詰めていた。
逃げ場はない。武器もない。戦う力も、最初からなかった。
それでも、不思議と心は凪いでいた。
(せめて最期くらい、自分で選びたかったな)
その瞬間だった。
身体の芯で、何かが“ひび割れる”感覚がした。
痛みではない。熱でもない。もっと深い、存在の底が揺さぶられるような感触。
息が、ふっと楽になる。全身を締め上げていた痛みが、潮の引くように失せていく。代わりに、みぞおちのあたりから、じんわりと温もりが広がっていった。
視界が淡く光る。見下ろすと、俺の身体から微かな光の粒が立ち上っていた。
次の瞬間、頭の奥に声が響く。
『――条件、達成』
無機質な、感情のない声だった。
『生存率、零に近似』
『封印解除、実行』
「……封印?」
問い返した途端、光が強まった。洞窟全体が震え、奥の魔物が怯えたように後ずさる。
身体の底から、これまで一度も触れたことのない“何か”が溢れ出す。息を吸うだけで、世界の輪郭が鮮明になった。音も、匂いも、空気を流れる魔力の筋までもが、手に取るように分かる。
俺は、無意識に手を伸ばしていた。詠唱はない。言葉もない。
それでも――空間が、歪んだ。
眩い光が洞窟を満たし、赤い眼を飲み込む。轟音。そして、静寂。
光が引いた時、そこに立っていたのは、震える足で前を見据える俺だけだった。奥にいたはずの気配は、跡形もない。
「……生きてる」
誰にともなく、そう零す。みぞおちの奥では、まだ温もりが脈を打っていた。
何かが、確実に変わった。戻れないところまで来てしまったのだと、理屈より先に身体が知っている。
だが、怖くはなかった。むしろ、長いあいだ閉じ込められていた何かが、ようやく目を覚ましたような――そんな心地さえした。
洞窟の奥で、崩れた岩が乾いた音を立てる。俺は、月明かりの差す方へ一歩を踏み出した。外は、まだ夜だ。
嗤われ続けた理由は、才能が無いことではありませんでした。次話、それをアレン自身の手が確かめます。
“無能”の二文字を突き返す日まで見届けたい方は、ブックマークをいただけると励みになります。




