1-33:父と娘
扉が閉まる。
ガロウの気配が完全に遠ざかったことを確認してから。
「ふぅ……」
ミゾレが盛大に息を吐いた。
普段は微動だにしない彼女の肩が、わずかに下がる。
それはまるで、巨大な嵐がようやく通り過ぎた後のようだった。
「やっとお帰りになりましたか……」
どこか心底安心したような声だった。
「はは……」
リアは思わず苦笑する。
その様子を見ていると、どうにも気になってしまった。
「ねぇ、ミゾレ」
「はい」
「ミゾレって……ガロウさんのこと嫌いなの?」
するとミゾレは少しだけ目を丸くした。
だがすぐに首を横へ振る。
「嫌いではありません」
「そうなの?」
「はい」
ミゾレは真面目な顔で頷いた。
「むしろ実力は認めております」
「へぇ……」
リアは少し驚いた。
てっきり苦手なのかと思っていたからだ。
「ガロウ様は非常に優秀な方です。強さだけでなく、部下からの信頼も厚い。これから王国にとって大きな力となるでしょう」
「そっか」
「ただ――」
ミゾレの表情がすっと消える。
嫌な予感がした。
「私とお嬢様の甘いひと時を邪魔し」
笑顔。
「さらにお嬢様へ言い寄るなどという不届きな真似をする」
笑顔なのに怖い。
「まったくもって汚らわしい獣です」
「えぇ……」
リアは引きつった。
そして。
「そのような獣は駆除しなければなりませんよね」
にっこり。
ミゾレが微笑んだ。
リアの背筋に寒気が走る。
ミゾレ怖っ!!
心の中で全力で叫ぶ。
するとミゾレは何事もなかったかのように立ち上がった。
「さて」
一歩、リアへ近付く。
「先程の続きをいたしましょう」
「へ?」
さらに一歩、近付く。
「ミ、ミ、ミゾレさんっ!?」
リアは慌てて後ずさる。
ベッドの上なので逃げ場はない。
「ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょっと待っ――」
コンコン。
その時だった。
部屋の扉がノックされた。
「チッ」
舌打ちする音が聞こえた。
(ミゾレさんっ!? また舌打ちしたよね!?)
リアは心の中で全力ツッコミを入れる。
ミゾレは一瞬だけ不機嫌そうな顔をした後、
「どうぞ」
そう返事をした直後、ゆっくりと扉が開いた。
先に姿を見せたのは、威厳ある壮年の男性。
豪奢な衣装を纏いながらも、その表情にはどこか父親らしい優しさが滲んでいる、この国を治める王――。
「お父さん!」
思わずリアが声を上げた。
国王は娘の姿を確認すると、ほっとしたように目を細める。
「リア」
静かに名を呼ぶ声には安堵の色が混じっていた。
そして、その後ろからもう一人の人物が姿を現す。
ディアインだった。
彼女はリアの顔を見るなり胸に手を当て、小さく息を吐く。
「ご無事そうで何よりです、お嬢様」
心から安心したような声音だった。
「体調はどうだ?」
国王が優しく尋ねる。
「うん!」
リアは笑顔で頷いた。
「もう大丈夫だよ!」
「そうか」
国王は安堵したように息を吐いた。
ディアインも胸に手を当てる。
「本当に心配いたしました」
「ディアイン……」
その顔を見た瞬間。
リアは申し訳ない気持ちになった。
「あの……ごめんなさい」
「お嬢様?」
「避難所から勝手に抜け出して……」
しゅんと肩を落とす。
「すごく心配かけちゃったよね」
ディアインは少しだけ目を見開いた。
そして優しく微笑む。
「その事はもうお気になさらないでください」
「でも……」
「こうしてご無事だったのですから」
ディアインは首を横に振った。
だが、その後、少しだけ表情を曇らせる。
「それよりも……」
言葉を選ぶように間を置いた。
「お嬢様が避難所を飛び出された直後、私もすぐに後を追いました。ですが――」
一度言葉を切り、ゆっくりと続けた。
「外へ出た時には、すでにお嬢様のお姿はどこにもありませんでした」
「え……」
「避難所からの道は、しばらく一本道で身を隠せる場所などありません。にもかかわらず、お嬢様はまるで最初からそこにいなかったかのように姿を消されていたのです」
ディアインは真っ直ぐリアを見つめる。
その瞳には困惑と疑問が浮かんでいた。
「あの時――一体何が起きていたのですか?」
その問いに続くように、国王も口を開いた。
「それに、お前が行ったあの歌の催し……あれは一体何なのだ?」
「うっ」
リアは困った顔になった。
本当に分からない。
何が起きたのか。
どうしてあんなことが出来たのか。
自分でも説明できないのだ。
すると。
「陛下」
静寂を破るように、ミゾレが口を開いた。
「私も先程、同じことをお聞きしました」
国王が視線だけで続きを促す。
「ですが、お嬢様ご本人にも分からないそうです」
「……ほう」
国王の喉から低い声が漏れる。
腕を組み、ゆっくりと目を閉じた。
王として数え切れないほどの出来事を見てきた。
だが、今回ばかりは判断材料があまりにも少ない。
考えたところで答えは出ない。
それでも思考を巡らせた末に、国王は小さく息を吐いた。
「そうか」
短い一言。
だが、その声には困惑と納得の両方が滲んでいた。
「説明のつかないことというのは、本当にあるものなのですねぇ」
ディアインが小さく息を吐きながら呟く。
その表情には苦笑が浮かんでいた。
部屋の空気がわずかに重くなる。
誰も答えを持っていない。
何が起きたのか。
なぜ起きたのか。
その真実を知る者は、この場には誰一人としていなかった。
そして――。
国王はゆっくりと目を開き、リアへ視線を向けた。
王としてではない。
一人の父親として。
その瞳は、愛娘の姿を確かめるように静かに見つめていた。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「リア、ありがとう」
「え?」
リアが目を見開く。
隣ではディアインまで頭を下げていた。
「どうであれ」
国王の声が響く。
「今回、この王国を救ってくれたのは他でもない」
真っ直ぐに娘を見る。
「リア、お前なんだ」
「お父さん……」
「本当に感謝してる……」
真剣な声だった。
だからこそ、リアは耐えられなかった。
「や、やめてよ!」
慌ててベッドから身を乗り出す。
「む?」
「頭なんて下げないで!」
ぶんぶんと手を振る。
「私、本当に大したことしてないよ!」
「リア」
「ただね」
胸に手を当てる。
「みんなを笑顔にしたいって思っただけ」
少し照れ臭そうに笑う。
「みんな仲良くなってほしいなって」
「……」
「そしたら勝手に歌ってただけなんだから」
その言葉を聞いて、国王は優しく微笑んだ。
「リア」
「うん?」
「その『皆を笑顔にしたい』と思える気持ちが、とても大切なんだ」
静かな声だった。
「人は力だけでは動かない」
国王は続ける。
「だが誰かを想う心は、人の心を動かす」
リアの頭を優しく撫でる。
「お前の願いは歌となり」
「……」
「苦しんでいた者達へ届いた」
戦場を思い出す。
王国兵。
帝国兵。
獣人達。
皆が笑っていた。
「だからこそ争いは終わったのだ」
国王の声は誇らしかった。
「お前は『力』で勝ったのではない」
「……」
「『心』で勝ったのだよ」
リアの瞳が揺れる。
胸の奥が温かくなる。
そして、国王は娘を見つめながら言った。
「リア」
「お父さん……?」
「お前は私の大切な娘だ」
優しい笑顔。
「そして」
少しだけ目を潤ませながら。
「私の自慢の娘だ」
「っ……!」
その瞬間、リアの瞳から涙が溢れた。
「お父さん……!」
勢いよく抱き付く。
国王も優しく抱き締め返した。
大きな腕。
温かい胸。
安心できる匂い。
「リア、本当にありがとう……」
リアは涙声で呟く。
「えへへ……」
嬉しくて。
誇らしくて。
涙が止まらなかった。
そんな二人を見て。
「うぅ……」
ミゾレが目元を押さえる。
隣ではディアインもハンカチを取り出していた。
「素晴らしい親子愛ですぅ……」
完全にもらい泣きだった。
しばらくして、国王はそっとリアから離れる。
「さて」
涙を拭いながら笑った。
「今日はゆっくり休みなさい」
「うん!」
「まだ身体も万全ではないだろう」
リアは素直に頷く。
国王は満足そうに笑った。
「ではまたな」
そう言って踵を返す。
ディアインも一礼した。
「失礼いたします、お嬢様」
二人が部屋を出て行く。
扉が閉まった。
静かな時間が戻る。
そして。
リアはまだ少しだけ残る温もりを胸に感じながら、幸せそうに微笑むのだった。




