1-24:ガロウ
男が映像に映ったその瞬間――
まるで氷水を背中へ流し込まれたかのような悪寒が、避難所にいた全員を襲った。
誰もが息を呑み、無意識に肩を震わせた。
「な……なんだ、あれは……?」
誰かが震える声を漏らした。
◇◇◇
男は最前線で腕を組みながら戦場を眺めていた。
「なかなかやるじゃねぇか……よぉ」
不敵な笑みが浮かぶ。
燃えるような赤い瞳が戦場を見渡した。
「じゃあ――そろそろ俺を楽しませてくれよ、なあぁ?」
男が一歩前へ出る。
それだけで周囲の空気が変わった。
逆立つ金髪。
獣を思わせる鋭い眼光。
口元から覗く獰猛な牙。
陽に焼けた褐色の肌には幾つもの古傷が刻まれ、それら全てが数え切れない戦場を生き抜いてきた証のようだった。
そして、鋼鉄を削り出したかのような筋骨隆々の肉体。
その巨躯から放たれる圧迫感だけで、並の人間なら立っていることすら難しいだろう。
上半身には金糸の刺繍が施された豪奢な黒のジャケットを羽織り、胸元では黄金のペンダントが鈍く輝き、その存在感をさらに際立たせている。
腰には黒と金で仕立てられた高級な腰衣。
身に着けているものはどれも一級品であろう。
だが、不思議と装飾品が主張しているようには見えなかった。
それら全てが、この男の圧倒的な存在感を引き立てるためだけに存在しているように思えたからだ。
その姿はまるで王。
いや、王などという言葉では足りない。
覇道を歩み、力ある者も弱き者も等しく踏み潰しながら玉座へ辿り着いた絶対者。
血と戦いによって帝国を築き上げた暴君。
その名は――ガロウ。
◇◇◇
「ガ……ガロウだ……!」
王国軍の兵士が顔を青ざめさせる。
「ガロウ帝国最強の男……!」
「馬鹿な……なぜ前線に……!」
動揺が広がる。
だが、騎士団長は叫んだ。
「怯むなぁぁぁぁぁ!!」
剣を振り上げる。
「総攻撃!! 奴を討てぇぇぇぇぇ!!」
次の瞬間、数百の魔法陣が展開された。
炎が唸る。
雷が奔る。
氷槍が空を埋め尽くす。
無数の矢が放たれ、槍が投擲される。
さらに騎士達の斬撃が重なる。
ありとあらゆる攻撃が、一人の男へ殺到した。
もはや逃げ場はなく、回避などは絶対不可能。
誰もがそう思った。
だが――
「遅ぇよ」
ガロウは鼻で笑った。
肩に担いでいた巨大な黒槍を軽く振る。
ただ、それだけ。
ただ一振り振っただけ。
しかし。
轟ォォォォォォォッ!!
黒槍が空を裂いた瞬間、耳を塞ぎたくなるような爆音と共に大気そのものが悲鳴を上げた。
衝撃で地面がめくれ上がる。
兵士達の頬が衝撃で引きつり、肺の空気が強引に押し出される。
暴風……いや、例えるなら衝撃の津波だ。
この目に見えぬ破壊の奔流が前方へ解き放たれた。
炎の奔流は呑み込まれ、火の粉となって四散する。
雷光は軋む音を立てながら砕け、空中で散った。
氷槍は触れられる前に粉砕され、白い氷塵となって吹き飛ぶ。
数千本の矢は木の葉のように巻き上げられ、槍は紙細工のようにへし折れながら弾き飛ばされた。
「なっ――!?」
「そんな馬鹿な!」
王国軍が絶句する。
必殺の一撃だった。
精鋭達が放った総攻撃だった。
それが、たった一振りで消え去り、それだけで戦場の景色そのものが塗り替えられてしまったのだ。
「おいおい」
ガロウは退屈そうに首を鳴らした。
「まさか、今ので終わりじゃねぇよな?」
そう言葉を発した瞬間――
「え?」
誰かが間抜けな声を漏らす。
ガロウが一瞬にして視界から消失したのだ。
その直後――
ブンッ――!
空気を裂く鋭い音がした。
最前列の騎士が咄嗟に盾を構えるが……
「防げ――」
言葉は最後まで続かなかった。
黒槍の一撃は、鋼鉄製の大盾を、まるで紙切れのように貫き、騎士の身体を串刺しにした。
「ぐああっ!?」
「ば……化け物だ……!」
兵士達の顔が恐怖に染まる。
ドガァァァァァン!!
最前列の騎士が吹き飛んだ。
そしてほとんどの騎士達は、全身の鎧ごと宙を舞い、数十メートル先の城壁へ叩きつけられた。
「ぐはっ――!?」
ドゴォォォォン!!
次の瞬間には別の場所。
重装騎士が盾ごと吹き飛ぶ。
さらに。
ドン!!
ドゴン!!
ドガァン!!
爆発音のような衝撃が戦場中で連続し、兵士達がまるで人形のように次々と弾き飛ばされていく。
誰も姿を捉えられない。
剣を振る暇もない。
防御魔法を張る暇もない。
「ほ、防御結界――」
魔法師達が慌てて詠唱を始めるが、言葉が最後まで続くことはなかった。
「だから……遅ぇって言ってるだろうがよぉ!」
笑いながら拳を振るう。
衝撃だけで魔法師達が吹き飛んだ。
悲鳴が上がり、陣形が崩れる。
そして、統率が失われる。
ガロウが戦線に出て来てから、わずか数分。
それだけで王国軍の防衛線は壊滅していた。
「そんな……」
避難所から戦況を見守っていた人々が言葉を失う。
先ほどまで優勢だったはずの王国軍。
鉄壁だったはずの防衛線。
それが今では完全に瓦解していた。
戦場の中央、ガロウは肩に大きな黒槍を担ぎながらゆっくりと振り返る。
まるで準備運動でも終えたかのような気軽さだった。
「なんだよ」
ニヤリと口角が吊り上がる。
「もう終わりか?」
誰も動けない。
誰も答えられない。
圧倒的な強さだった。
人間と魔人の差――そんなレベルではない。
格そのものが違った。
ガロウは愉快そうに笑う。
「もっと強ぇ奴はいねぇのか? あぁぁん?」
戦場を見回す。
その赤い瞳は獲物を探す猛獣そのものだった。
そして。
「おいおいおい……このままだと、本当に王国ごと潰しちまうぞぉ?」
凶悪な笑みが浮かぶ。
「はははははははははっ!!」
暴君の哄笑が、崩れゆく戦場に響き渡った。
◇◇◇
その言葉を聞いた瞬間。
ミゾレが静かに立ち上がった。
「お嬢様……」
「ミゾレ……?」
「申し訳ございません」
深々と頭を下げる。
「少々お傍を離れさせていただきます」
私はハッとした。
「ダ……ダメ!」
思わず叫ぶ。
ミゾレが目を丸くする。
「お嬢様?」
「行かないで……!」
気付けば涙が滲んでいた。
ミゾレは少し困ったように微笑む。
「ご安心ください。ここにはディアイン様もいらっしゃいます」
「違う……!」
私は首を振った。
「そうじゃないの……!」
声が震える。
「ミゾレが……傷付くかもしれないじゃん……」
避難所が静まり返る。
「死んじゃうかもしれないじゃん……」
涙が溢れた。
ミゾレは一瞬だけ目を見開き――
そして優しく私を抱き締めた。
「お嬢様」
温かい。
安心する匂い。
「心配しないでください」
耳元で優しい声が響く。
「私、こう見えて結構強いですから」
少しだけ冗談めいた言い方だった。
私は思わず少し笑ってしまう。
ミゾレはゆっくり離れるとディアインへ頭を下げた。
「ではディアイン様、お嬢様をお願いいたします」
「ええ、わかりました」
そして振り返る。
「ミゾレっ――」
私は何か言おうとした。
(魔人や魔獣を殺さないで)
そう言いたかった。
でも、そんなことを言えば、ミゾレが戦いにくくなるだろう。
下手をしたら敵に殺されて、死んでしまうかもしれない。
言葉が喉で止まる。
そんな私を見て、ミゾレは柔らかく微笑んだ。
「お嬢様」
「……」
「討伐ではなく、争いを止めて参りますね」
私は驚いて目を見開いた。
ミゾレは私が言いたかったことを、全部理解してくれていた。
「ありがとう……ミゾレ……」
涙を拭う。
そして必死に笑顔を作る。
「必ず……」
声が震える。
「必ず私の隣に戻ってきてねっ! 絶対にっ!」
一瞬。
ミゾレが本当に嬉しそうな顔をした。
「もちろんでございます」
いつもの完璧なメイドの微笑み。
けれど、今は少しだけその微笑みがいつも以上に優しいと感じた。
「では――行って参ります」
そう言ってミゾレは踵を返した。
そして王国最強のメイドは、たった一人で戦場へ向かっていった――。




