1-19:悪戯な微笑み
湯気がゆらゆらと立ち昇る。
私は広い浴槽に肩まで浸かりながら、小さく息を吐いた。
「はぁ……」
落ち着こう。
そう思って目を閉じる。
温かいお湯が身体を包み込む感覚は心地いい。
ほんの少し前まで緊張していた身体も、少しずつ力が抜けていく。
――はずだった。
「…………」
駄目だ。
無理だ。
忘れられない。
思い出した瞬間、顔が熱くなる。
「うぅ……」
私はお湯の中へ少し沈んだ。
その時、突然、私の脳裏に変な考えが生まれてしまった。
もしかしてミゾレって、私……『リア』の事を一人の女性として、恋愛対象として好きなのでは……?
いやいやいや、そんな事はないだろうっ。
王女とメイドの恋愛なんて……。
百合漫画でもあるまいし……。
いや……待て私。
私は本物のリアとしての記憶が一切ない。
もしかすると、実は本物のリアとミゾレはそういう関係で、毎晩、あのように身体の洗いっこをして、そして、その続きは夜のベッドの上で…………
――いやいやいやっ!
何を考えてるの私!?
やめろぉぉぉ私ぃぃぃ!
百合脳全開の変な妄想するなぁぁぁ!!
そんなことを考えながら一人で悶絶していると――
「失礼します」
自身の身体を洗い終えたミゾレが静かに浴槽に入ってきて、私の隣にやってきた。
駄目だ。
直視できない。
さっきから変な妄想ばかりしてしまったせいで、まともに顔を見られない。
私はできるだけ平静を装いながら、浴槽の向こう側へ視線を逃がした。
けれど。
どうしても気になってしまう。
私はちらりとだけミゾレの方を見た。
「あのさ……」
「はい」
「その……記憶をなくす前の私にも、さっきみたいな感じで身体を洗ってあげてたの?」
思い切って尋ねる。
するとミゾレは一瞬だけきょとんと目を丸くした。
「さっきみたいな感じ、ですか?」
「えっと、その……ほら、とても表現しにくいんだけど、その……えっちな感じというか……」
言いながら自分で恥ずかしくなる。
ミゾレは数秒考え――
ふっと笑った。
「いいえ。そんなことはございません」
「そ、そうなんだ」
そっか、良かった……。
やっぱり、リアとミゾレはそんな関係じゃなかったんだ。
あの身体の洗い方も、きっと王家では普通で私が変に敏感になってただけ――
うん、きっとそう。
ほっ、と思わず胸を撫で下ろす。
しかし次の瞬間。
「ただ――」
ミゾレの口元が少しだけ悪戯っぽく緩んだ。
「私の胸が当たっている時の、お嬢様の反応があまりにも可愛らしかったもので」
「えっ」
「つい、少しだけ悪戯をしてしまいました」
「なっ……!?」
思わず声が裏返る。
ミゾレはくすくすと楽しそうに笑っていた。
普段の完璧なメイドの微笑みではない。
どこか小悪魔めいた、珍しい笑み。
その表情があまりにも綺麗で。
あまりにも反則で。
「~~っ!」
私は慌てて顔を背けた。
心臓がうるさい。
きっと今の私は真っ赤になっている。
そんな私を見て、ミゾレはますます楽しそうに微笑んでいた。
「もうっ……ミゾレの、意地悪〜〜!!」
私は抗議の声を上げると、両手でお湯をすくった。
そして――
ぱしゃっ!
ミゾレに向かってお湯をかける。
もちろん本気ではない。
子供みたいな、ささやかな仕返しだ。
ミゾレは一瞬だけ目を丸くしたあと、
「ふふっ……申し訳ございません、お嬢様」
と笑いながら頭を下げた。
「全然反省してない!」
「そんなことはございませんよ」
「絶対嘘!」
私がそう言うと、ミゾレはまた小さく笑う。
その笑顔はどこか楽しそうだった。
その時の彼女の顔には、普段の完璧なメイドというより、年相応の女性らしい柔らかな表情が浮かんでいた。
つられて私も笑ってしまう。
「もう……」
「本当に申し訳ございませんでした」
「だから絶対に反省してないでしょ!」
「ふふっ」
穏やかな笑い声が浴室に響く。
さっきまであれほど騒がしかった心臓も、爆発しそうだった頭の中も、いつの間にか少し落ち着いていた。
湯気の向こうで微笑むミゾレを見ながら、私は小さく息を吐く。
――まあ。
こんな時間も悪くないかもしれない。
そう思いながら、私は再び温かな湯に身を委ねた。
◇◇◇
しばらく穏やかな時間を過ごしたあと。
ミゾレが静かに立ち上がった。
「それでは私は先に失礼致しますね」
「あ、うん」
湯の中から頷く。
ミゾレは丁寧に一礼すると、浴槽から出た。
濡れた髪を軽く払いながら歩いていく姿に、思わず視線が向きそうになる。
――いやいやいや。
駄目だ。
今一緒に上がったら絶対に落ち着いていられない。
また興奮して変な気持ちになってしまう。
「わ、私はもう少し入ってるから!」
慌ててそう言う。
ミゾレは振り返り、少しだけ首を傾げた。
「かしこまりました」
そう言って私に一礼して、ミゾレはそのまま浴室を後にした。
扉が閉まった瞬間、私は大きく息を吐いた。
「ふぅぅぅ……」
危ない。
本当に危なかった。
私は両手で顔を覆った。
けれど。
しばらくして熱くなった頭が落ち着いてくると、別のことが気になり始める。
「そういえば……」
ぽつりと呟く。
「私、ミゾレのこと何も知らないな」
本当のリアとしての記憶がないのだから当然なのだろう。
けれど、今日だけでも彼女には何度も助けられている。
それなのに私は、彼女がどんな人なのかほとんど知らない。
年齢も。
家族のことも。
どうして私の専属メイドをしているのかも。
「聞いてみようかな……」
そう呟きながら、私は湯に身を沈めた。
◇◇◇
その後、浴室を出て身支度を整えた私は自室へ戻った。
部屋の扉を開けると――
ふわりと良い香りが漂ってくる。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
そこにはいつものようにミゾレが立っていた。
テーブルの上には湯気の立つティーカップ。
どうやらお茶を用意してくれていたらしい。
「うわぁ美味しそう。ありがとう!」
「お礼には及びません。では、こちらへどうぞ」
勧められるまま椅子に腰掛ける。
一口飲むと、優しい香りと温かさが身体に染み渡った。
「本当に美味しい……」
「お口に合ったようで何よりでございます」
微笑むミゾレ。
私はカップを両手で包みながら少し迷う。
そして。
「あのさ」
「はい」
「良かったらミゾレのこと……教えてくれないかな」
言った瞬間、少しだけ胸が痛んだ。
「ご……ごめんね」
「?」
「私、記憶をなくしちゃってるから……」
本当は知っているはずなのに、その記憶がない。
それがなんだか申し訳なかった。
するとミゾレは優しく微笑んだ。
「そんな……お気になさらないでください」
その言葉に少し救われる。
「では、そうですね……まずは年齢でしょうか」
「うん」
「私は二十歳でございます」
「二十歳!?」
思わず声が出た。
てっきり、もっと年上だと思っていたからだ。
落ち着いた立ち振る舞い。
隙のない所作。
それに何より、あの大人びた美貌。
どう見ても二十代後半――下手をすると三十歳近くに見えるほどの完成された雰囲気がある。
「え、嘘……。もっと年上かと思ってた……」
私が正直な感想を漏らすと、ミゾレは小さく首を傾げた。
「そうでしょうか?」
そうでしょうかじゃない。
むしろ二十歳でその完成度なのがすごい。
「お嬢様は十八歳でございますので、二つ上になりますね」
「十八歳……」
私は小さく呟く。
十八歳。
前世の私――アリサと同じ年齢だった。
なんだか不思議な気分になる。
「そっか……私、十八歳なんだ」
「はい」
ミゾレが微笑む。
私は少し考えてから次の質問をした。
「じゃあさ」
「はい」
「どうして私のメイドになったの?」
ミゾレは一瞬だけきょとんとした。
そして。
ごく自然に答える。
「お嬢様のことが大好きだからでございます」
「ぶっ――!?」
危うくお茶を吹きそうになった。
「な、ななななっ!?」
顔が一気に熱くなる。
ミゾレはそんな私を見て、くすりと笑った。
「本当のことでございますよ」
「そ、それはその……!」
言葉が出てこない。
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
「うぅ……」
顔を隠したくなる。
ミゾレはそんな反応が面白かったのか、とても楽しそうに笑っていた。
「ふふっ」
「笑わないでよ……」
「申し訳ございません」
全然申し訳なさそうじゃない。
さっきのお風呂と同じだ。
けれど不思議と嫌な気はしなかった。
しばらく笑みを浮かべていたミゾレだったが、やがて少しだけ表情を和らげた。
「では」
私は、静かにカップを置いた。
「私の話をさせていただきますね」
その声音は、どこか懐かしい思い出を振り返るような優しいものだった。
そうしてミゾレは、自らの過去を語り始めた。




