第75話 池田屋前夜6
六月二日 亥初(午後9時~10時)
樹之助は忍び装束に身を固め、升屋向かいの屋敷中庭にそびえたつ松の枝に潜んでいた。
一見木戸の閉まったただの商家だが、その内側には見張りが立ち、警戒しているのがわかる。
(確かに、ただの商家の警戒じゃあねぇな~)
樹之助はまるで枝の一部になったように身じろぎせず見張っている。
半刻ほど過ぎた頃、升屋の裏木戸から顔を出す男が一人。
(誰だ…こんな夜分に...)
樹之助が目を凝らす。
出てきた男はキョロキョロと辺りを警戒している。
曲がり角の向こうまで行き、角の先に誰かいないかを警戒しているようだ。
やがて男は木戸の方に向かい、無言で大きく手招きした。
それを見たのか、木戸を出て二人の男が提灯も持たずに出てきた。
二人とも頭には頭巾を被っている。
そのまま最初に出てきて曲がり角を警戒している男の方に向かって歩き出した。
樹之助はとどまって見張りを続けるか、二人の後を追うか迷った。
山崎から言われているのはあくまで升屋の監視だ。
このまま監視を続け、男三人の出入りがあったとだけ伝えても十分役目を果たしたことにはなる。
が、樹之助の第六感が強く頭の中で響いている。
(あれはきっと升屋の主人に違いない。初めのが護衛。一緒にいる頭巾姿は恐らく過激派の一味ってところだろう。)
樹之助は樹上から小走りに駆けていく男たちを見つめている。
(それならここで明け方まで待っているより、後を尾ける方が何か大きな情報が得られるんじゃないか...)
樹之助は決断し、スルスルと松の木を下り、屋敷の土塀の内側を、通りを走る男たちの足音を頼りに並走した。
やがて足音が少し遠ざかる気配を感じると、スッと土塀の上に跳躍する。
三人は通りを左に折れ遠ざかっていくところだった。
樹之助は通りに降り、木塀の影になるところを選び足音を立てないよう追跡する。
一行は四条河原町を抜け三条河原町、川原町御池へと進んだ。
(この道筋は...)
ここまで来ると樹之助には一行の行き先がおおよそ見当がついた。
(長州藩邸か...)
樹之助の読み通り、一行は長州藩邸の門を叩き、やがて中に吸い込まれていった。
そのまま夜明け近くまで藩邸の門を監視していたが、一行が再び出てくることはなかった。
夜が明けると忍び装束はかえって目立つ。
樹之助は明るくなる前に自宅に帰り、着替えを済ませ、壬生の新選組屯所へ赴いた。
早朝ながら樹之助が尋ねると山崎は直ぐに起き出してきた。
「石川君。何か収穫はあったかい?」
「ああ。昨夜亥の刻あたり、升屋から三人顔を頭巾で覆った者達が密かに這い出てきたぜ。そのまま、奴らの後を追っていったら、長州藩邸に入って行きやがった。そのまま朝まで待ってみたんだが、奴ら出てこなかったんで、そのままここに知らせに来たってわけだ。」
「その者、升屋の主人か?」
「さぁな。なんせ皆顔を頭巾で覆っているし、俺自身升屋の主人も過激派の浪士たちの顔も誰も見知っていないからな。憶測でしか言えないことは、俺の判断は絡めずそっちで判断した方がいい。」
樹之助は忍びらしく、主観を置き、客観的事実のみ語った。
山崎が腕組みしている。
「その者共が升屋の主人か、過激派浪士かはわからないですが、升屋と長州の間に何らかの関係があることは間違いないでしょう。」
そう言うと山崎は立ち上がった。
「私はこの事を局長と副長に報告してきます。その後どのように動くかはわかりませんが、君のもたらした情報はとても大きな情報です。後でまた連絡しますので、今日は一旦お帰りください。」
そういうと山崎は部屋を後にした。
樹之助は役目を終え、屯所を後にした。
あたりはようやく眠りから覚め、各家の雨戸をあける音、庭先を掃き清める者らが動き始めていた。
朝餉の支度をする女達が水場に集まっている。
(千代に朝飯でも買っていってやるか...)
樹之助はそんなことを考えながら家路についた。
その頃、山崎は火急の報告ありと土方を起こしていた。
「どうしたんだ、山崎君。こんな時間に叩き起こすほどの用件なのだろうな?」
寝起きで少し不機嫌そうな土方が山崎を睨むように見据える。
「はい。礼の石川樹之助が昨夜升屋の見張りについていたのですが、夜分に升屋から長州藩邸に駆けこむ三人組を捕捉したとのことです。」
「なに?喜左衛門か?」
土方が眠そうだった目を見開く。
「宗十郎頭巾を被っていたそうで。顔はわからなかったと。そうでなくとも石川君は升屋の顔を知らぬ故いたしかたないと思いますが。」
土方は大きくため息をついた。
「だが、升屋と長州になんらかの関係があることは明白になったな。」
土方がそう言うと、山崎は無言で頷く。
「思い切って踏み込むか。升屋に何らかの証拠があれば儲けものだ。」
土方が言うのを山崎は静かな声音で言った。
「監察としてはもう少し証拠をそろえてからにしたいところです。踏み込んで空振りでは相手を警戒させるだけです。」
土方は瞑目した。
「あと二日時間をやる。なんとか升屋の内情を探れ。それを過ぎたら、証拠がなくとも踏み込む!」
土方が強い口調で言った。
山崎は対照的に静かな口調で「承知」と一礼した。




