第68話 密偵稼業
元治元年(1864年)五月
樹之助は岩倉の屋敷に呼ばれた。
最近は岩倉に使われる事が多い。
「すまんな樹之助。これをまた佐久間象山に届けてくれ。」
「岩倉様の用事とあらば従わないわけにはいかないのですが、こうも頻繁ですと私の本業に影響が出ます。誰か別な者を雇っていただけないでしょうか。」
樹之助の様な下賎の者にそう言われて怒る事をしないのが、岩倉という公卿の面白いところだった。
「そうよな。お前も嫁がいるというし、仕事ができなければ食うに困るわな。」
岩倉は顎を撫でながらニヤニヤと話す。
「そうですよ。そのうち家賃も払えなくなって、借家追い出されます。」
樹之助は真面目に訴える。
「よしわかった。こうした使いの者を正式に雇う事といたそう。」
岩倉のその言葉に樹之助は少しホッとする。
「どなたかアテはあるのですか?」
樹之助が聞くと、岩倉はニヤリとして樹之助を指さした。
「?」
樹之助は訳もわからず、自分で自分を指さした。
「お前だ、樹之助!」
岩倉が豪快に笑う。
「お、俺?」
樹之助がポカンとしている。
「そう、お前だ。」
「ちょっと待ってくださいよ!俺の話聞いてました?俺には別の仕事が…」
言いかけた樹之助に岩倉が言葉を重ねる。
「山城屋とは話がついている。当面お前を借り受ける事、委細問題ない。」
何とも手回しがいい。
だがもう一つ、肝心な問題が残っている。
「それは結構ですけど、岩倉様。問題はお給金の話です。俺も独り身じゃないんで、この事は有耶無耶にできませんぜ。」
樹之助も一家の主人として毅然と話し続ける。
「ご無礼を承知で言わせていただきますがね、今の岩倉様はご自身のご家族が食っていくだけで精一杯のご様子だ。とても俺と女房の食い扶持まで面倒見れるとは思えないんですがねぇ。」
この頃は樹之助もだいぶ岩倉にズケズケとモノを言える様になっていた。
岩倉も頭を掻いている。
「お前は、落魄の身の上の儂の傷口に塩を塗り込む様な事を平気で言いやがるな。」
口調は厳しいが顔は笑っている。
「そりゃ俺だって生活が掛かってますからね。俺はその辺の志士らとは違って、天下国家のためなら金も命もいらん!なんて言うわけにはいかないんですよ。」
それを聞き、岩倉はとうとう吹き出し、笑い出した。
「正直な奴よ!ここに来て話す奴らはどいつもこいつも本音を隠して綺麗事の建前論ばかりだ。だが、人は生きてく上で食う事が最も大事よ。天下国家など食うことに比べたら二の次三の次なのに、皆食うことより天下が大事と言う。だが、そんな奴こそ儂は信用できん。自分が食うことの算段できん奴が、国民を食わせていけるわけなかろう。」
樹之助はなんだか話が大きくやってきたな、と内心思っている。
「と言うわけで、儂はお主が気に入ったから雇うことにした。大丈夫!金は月五両!どうだ、悪くないだろう?」
たかがこま使いに月五両は破格だ。
樹之助も驚く。
「そいつは有難いお話で。でも岩倉様。最初の疑問が解決されてませんぜ。岩倉様も今は貧乏なんですから、そんな大金どっから出てくるんですか?」
「貧乏貧乏っておまえは。少し打ち解け過ぎだぞ。」
岩倉はそう言いながらも楽しそうだ。
「この金は薩摩が出す。もっと言うと、山城屋が薩摩の活動資金を出している。その一部をお前に出すと言うことだ。だから、給金は今まで通り毎月山城屋から貰え。」
なるほど、上手く考えたもんだ。
樹之助としてはやっと慣れてきた裏影業を離れるのは少し名残惜しい気もしたが、今の様に岩倉にあちこち使いまわされては、とても両立はできなかった。
山城屋も公認なら家も借り続けられるし、この仕事に専念できて、給金もずっと多い。
「それならば得心いたしました。この石川樹之助、本日より岩倉様の使いとして使えさせていただきます。」
岩倉は満足そうに頷く。
「でも、岩倉様。俺は自分でやりたい事が見つかれば他に行ってしまう可能性もありますが…」
少し遠慮気味にいう樹之助。
「構わん。儂がお前を気に入っているのはお前のそうした飽くなき探究心だからな。人と交わり、勉学して、自らの考えが儂の考えと反すると思った時は、いつなりと辞して構わんぞ。」
岩倉はそこで声音を落とし忠告した。
「ただし、儂の敵にまわった時は容赦せぬぞ。くれぐれも道の選択は間違えぬことだ。」
それを聞いて樹之助は安堵しつつ、初めて岩倉が怪物と言われている意味がわかった気がした。




