第66話 薩摩藩邸
翌日
朝からあいにく小雨模様だった。
「今日もお出かけですか?」
千代が外出の支度をしている樹之助に向かって聞く。
「うん。今日は薩摩藩邸に行って、そのまま岩倉様の屋敷へ返書を届けてくるから、戻りは昼過ぎかな。」
樹之助は親書が濡れないよう油紙に包み懐の奥に差し入れた。
「なんだか最近はご立派なお屋敷へ行くことが多くて、あなたもひとかどの志士の様ですね。」
千代が笑う。
「よせよ。俺には自分がこのために命を懸けてもいい、というほど肩入れする思想がまだないからな。」
樹之助は雨避け様の蓑を羽織り、編み笠を被った。
「じゃあ行ってくる!」
そう言って玄関を出ようとする樹之助に、千代が気になることを言った。
「あ、そう言えば…なんだか最近誰かに見られているような気がするの...」
「誰かに?家の中でか?」
「家の中はさすがにだけど、外に出ると何か視線を感じるような気がするの...」
樹之助は首を捻る。
「まぁ、俺も祇園の町の裏影として、いろんな厄介事に首を突っ込んでるからな。毎日帰り道は後を尾けられないよう気を付けているつもりだけど、万が一ってこともある。あまり出歩かないようにして、家に居る時も戸締りして、近所の人以外は出ないようにしてろ。」
「うん。でも、早く帰ってね...」
千代は不安げな声音で答えた。
「わかった。行ってくる!」
樹之助は小雨が降りしきる通りに飛び出していった。
「まったく、雨の日は道がぬかるんでかなわねぇな」
独り言を言いながら、樹之助は烏丸通りの薩摩藩邸に向かった。
薩摩藩邸は外から見る姿からして壮大で風格がある。
(さすが、今をときめく雄藩...)
門の造りも大きく、横にいる門番もいかにも薩摩隼人という気魄が全身から発せられている。
その門番が鋭い目つきで聞いてくる。
「わいはだいじゃ?」
言われて樹之助はポカンとしている。
「じゃっで、わいはだいじゃち聞いちょい」
早口で言われると何を言っているかわからない…
だが、多分用件を聞いてるんだろうと樹之助は推察し答えた。
「洛北におわす岩倉卿より、ご当家の大久保一蔵様へ書類を届けるよう仰せつかってきました。」
「大久保どんに?どれそん手紙見せてみれ」
樹之助は懐から油紙に包んだ手紙を濡れないよう、門の庇の中に入って取り出し門番に見せた。
「どうやら本物んようじゃな。少し待ってろ。」
門番が潜り戸内に消えていく。
それにしても薩摩藩邸は門番の端までピリピリとした緊張感が漲っている。
常在戦場...末端の藩士一人一人にその意識が植え付けられているようだった。
門の前で待っていると、中庭の方から「きぇえええ!」という大声と何かを打ちつける音が絶え間なく聞こえてくる。
(ここにいるだけで緊張するな...)
そんなことを思っていると、門番が戻ってきた。
「お待たせしもした。大久保どん、返書を書く間、しばし中で待ちたもんせとんこっじゃ。」
そう言って樹之助を中に招き入れる。
中に入ると玄関脇の待機小屋に通された。
「狭か所じゃっどん、ここでしばし待ちたもんせ。」
そう言って門番は再び立番に戻って行った。
小屋の中にいても、さっきの中庭の方から聞こえてきていた音が気になる。
樹之助は小屋を出て中庭の方へ進み、そーっと覗いてみた。
そこには薩摩藩士とひと目でわかる月代を広く剃り上げ、脛が見えるほど短い袴を履いた若い藩士たちが、列になり、大声を上げながら木の束に向かって突進し打ち込む訓練を延々と続ける光景があった。
(凄い!これが噂に聞く二の太刀要らずの薬丸自顕流!)
樹之助でも知っている薩摩の剛剣だった。
「...おい」
不意に言葉と同時に、後ろから強烈な殺気が樹之助を襲った。
瞬間、樹之助は夢中で前方に転がるように回避していた。
無意識の動きだった。
「こげん昼間から薩摩藩邸に侵入すっ間者とは、命知らずがおったもんじゃ」
そういう男は刀を抜いていない。
だが、樹之助は確かに斬られたと思った。
「なんとかゆわんか。ゆわんなこんまま斬り捨つっど。」
男が刀の柄に手を掛ける。
瞬間さらなる殺気が充満する。
圧倒的な威圧感。
数多の剣客と向き合ってきた樹之助だが、この時は観念した。
(だめだ...この男には)
樹之助は動くこともできない。
動いた瞬間、男の刀が一閃するのが容易に想像できた。
(勝てない.....)
圧倒的な敗北感だった。
脂汗が額から流れる。
「答えんなら斬っど」
最後通告だ。
だが、樹之助は声を出すこともできなかった。
(ダメだ、斬られる...)
そう思った時だった。
「...半次郎どん。そんしは大事な使者じゃ。斬ってはならん。」
男の後ろから大柄で温厚そうな男が声をかけた。
その一声で男は刀の柄から手を放した。
瞬間辺りを圧していた殺気は消えた。
樹之助はやっと息をすることができた。
「ハァハァ...」
何もしていないのにこれまで感じたことがないほど、息せききっていた。
「せごどん、こん男は?」
男が聞く。
「岩倉卿んお使者じゃ。今一蔵どんが返書書いちょい。勝手に使者を斬ったや一蔵どんにどやさるっど。」
そういうと半次郎と呼ばれた男は豪快に笑って樹之助の方に向き直った。
「いやぁ、稽古場覗いちょったもんせぇ、てっきりどっかん間者かち思うたんでな。おいは中村半次郎ちゅう。ご無礼ん儀、平に御容赦したもんせ。」
樹之助は戦慄した。
前に斉藤一が言っていた、新選組でも戦いを避ける男、中村半次郎…
「あなたが、中村半次郎…殿」
樹之助はそこにへたりこんだ。
「半次郎どんと向け合うて命があってよかったんぅ。おいは西郷吉之助ちゅう。大久保どん同様、岩倉卿とは今後やり取りが多くなっち思うで、お見知りきたもんせ。」
そう言っている所に、痩身で背の高い几帳面そうな男がやってきて半次郎を一瞥した。
「半次郎どん、まさかご使者に刀抜こうとしたんじゃなかじゃろうな。」
半次郎は苦笑いしながら、バツが悪そうに中庭の方へ逃げて行った。
「まったく。当家は血ん気ん多かとが多くて困っ。失礼ん段許したもんせ。おいが大久保一蔵じゃ。こちらに岩倉卿へ返書したためたで、渡したもんせ。」
樹之助はそれをまた油紙に包み、大事に懐へ入れた。
「おはん名前は?」
西郷が聞く。
「石川…樹之助」
樹之助がまだ整わない息で答える。
「こいで顔と名前は覚えもした。次からは半次郎どんに斬りかからるっことはなっせぇ、安心してきたもんせ。」
西郷はそう言って笑った。
(薩摩藩邸...恐ろしい所だ)
樹之助は屋敷を出るまで身震いが止まらなかった。
【中村半次郎】薩摩藩士 後の陸軍少将 桐野利秋 幕末の四大人斬りと呼ばれる人物 1877年西南戦争にて没
【西郷吉之助】薩摩藩士 後の陸軍大将 西郷隆盛 明治維新の立役者 1877年西南戦争にて没
【大久保一蔵】薩摩藩士 維新政府の中心人物 1878年皇居へ向かう途中、不平士族に暗殺される。




