第64話 岩倉邸
桜三月
樹之助は岩倉の庵を訪ねていた。
「久しいの樹之助。いつでも来ていいと言っているのに、お前はさっぱり顔を出さん。」
(そんなこと言っても気軽に来れるところじゃないよ...)
樹之助は苦笑いするしかなかった。
「静逸は気の毒だったな...」
岩倉が目を伏せながら呟く。
「はい…。もっともっと教えてほしいことがあったのに残念です。」
樹之助も同意する。
「お主静逸の書物をもらったそうだな?」
「はい。もらいましたが、まだ内容が全く理解できません。」
それを聞き岩倉が大声で笑った。
「樹之助。あの本はな、学者が読んでもなかなか骨の折れるものよ。それをお前は独学で読もうとしているのだ。読めなくて当然。」
ひとしきり笑い終えると、岩倉が聞いてくる。
「なんなら儂が教えてやろうか?」
だが樹之助は首を振る。
「読書百遍、意自ずから通ず…です。」
岩倉が目を丸くする。
「ほう、いい言葉を知っているな。」
「妻から教わりました。ここまで一人でやってきたのです。意味が自ずと分かるようになるまで何べんでも読んでやろうと思います。」
「その意気やよし!樹之助、お前の良さは誰かに強制されたわけでもなく、自分で学ぶことができることだ。人に無理やり詰め込まれるより、自分が知りたいと思い努力する方が、ずっと自分のものになる。お前の学びの姿勢は間違ってはおらん。」
岩倉が嬉しそうに微笑んでいる。
そして、ハタと何かを思い出したように手を打った。
「そうだ樹之助。お前に面白い男を紹介しよう。ちょうど今京に上って来ているはずだ!」
そう言うと岩倉は文机に向かい何かをしたためだした。
樹之助はポカンとその様子を見ている。
ややしばらくして、したためた書の墨の乾くのを待ち、岩倉はそれを丁寧に畳み樹之助の前に差し出した。
「…これは?」
樹之助が首を傾げる。
「今京都に面白い男がいる。名を佐久間象山といってな。松代藩士なれど、その見識の高さに全国の武士らが教えを乞うている男よ。」
「そんな凄い方が…」
「うむ。その見識を買われて、此度一橋慶喜公たっての希望で京に参られたのだ。」
聞けば聞くほど凄い人だ。
「樹之助、これは儂から佐久間殿への親書じゃ。これを届けるついでに佐久間殿の顔を見てくるがよかろう。」
まるで見世物小屋の猿回しでも見てこいといような気軽な感じで岩倉は言う。
「そんな簡単にお会いできないでしょうが、岩倉様の御手紙は間違いなく松代藩邸に届けるよ。」
岩倉は頷く。
「最初は届けるだけかもしれんが、手紙の中にお主の事も書いておいた。そのうち話す機会もあるやもしれんぞ。」
樹之助が手紙を手に取ろうとしたとき、岩倉は別の書状をもう一通差し出した。
樹之助が差し出しかけた手を引っ込める。
「もう一通、これを薩摩屋敷の大久保一蔵に渡してもらいたい。」
「…薩摩。大久保…」
樹之助は口の中で岩倉が言った名前を反芻した。
「儂の使いと言えば疑われることもなかろう。主には今後こうした使いを頼むことが増える。なんせそれを担っていた静逸がいなくなってしまったからな。」
残念そうに嘆息すると、岩倉は樹之助にキッと向かい強く言った。
「樹之助、これから儂にお主の力貸してくれるか?」
樹之助は居住まいをただし手を付いた。
「俺にできることであれば、なんなりと...」
そうして樹之助は書状二通を預かり庵を後にする。
外に出ると、入口に繋がれている犬が樹之助を見て吠える。
それを見て、見送りに来ていた岩倉が大声で叱るつける。
「こら!ヨシノブ!吠えてはいかん!」
「慶喜?」
樹之助が驚きで目を白黒させている。
人が聞いたら不遜だと咎めだてされることだ。
「ふふふ、良い名であろう。悪いことしたらヨシノブ!って言って頭を叩き付けてやろうと思うておったのだがな、懐くと愛着が沸いてもうて、殴るなどとてもできなくなってしもうたのうよ!」
そう言ってまた笑い飛ばす。
「人間の方もそうなればいいのだがな。犬と違いなかなか簡単にはいかんのだ。」
岩倉はヨシノブを撫でながらそう言った。
そのまま樹之助は岩倉の家を辞した。
軽い気持ちで引き受けた岩倉と京の要人との連絡役。
これが、樹之助の人生に大きな影響を及ぼすことになる。




