第62話 人斬り
元治元年二月
伊佐吉が樹之助の家に駆けこんでくる。
「樹之助はん、大変や!至急松代屋に!」
「松代屋?真昼間からなんだってんだ?」
「押借りどす!」
「押借り?」
去年長州藩とそれを支持する過激派公卿が京都から一掃された八月十八日の政変以来、不逞浪士はめっきり数が減っていた。
「なんやわかりまへんけど、鬼松さんらでも敵わない奴で」
「鬼松が敵わないって、相当だな...」
樹之助は立ち上がった。
「あなた、無茶はしないで。鬼松さん達で敵わないなんて、そこらの町衆じゃないわ...」
「わかってる。心配するな!」
そう言ってほほ笑むと、樹之助は風のように出て行った。
松代屋に着くと近所の町人が遠巻きに中を覗き見ている。
そのうちの一人に樹之助が声を掛ける。
「おい、どうなってんだ?」
「いやぁ、なんか知らんけど突然酔った浪人が入ってきて、やれ勤王がどうの、長州がどうの、御用金がどうのって喚き散らしていたところ、鬼松と岩蔵が来て引きづり出そうとしたんですけど...」
説明していた男が震えながら告げた。
「浪人の野郎、腰のもの抜きやがって、あっという間に二人を...」
「斬られたのか!?」
樹之助が慌てて声が大きくなる。
「それがどうやら中身は竹光みたいで、斬られちゃいないんだが、あまりの斬撃の鋭さに、二人とも気を失っちまってますがな。」
(鬼松は元力士で、そこいらの剣術家に簡単にやられるような奴じゃない。その浪人何者だ...)
「奉行所には知らせているのか?」
「へい、とうに走っております。」
それなら役人が来るまでその浪人を逃がさないよう足止めすることだ。
樹之助は自分の役割を理解した。
(しかしそれほどの使い手なら...)
樹之助は懐の苦無の感触を確かめた。
そして迷うことなく中に入る。
入るとすぐ脇に鬼松と岩蔵がうずくまっている。
鬼松は辛うじて意識があった。
「…気をつけろ、樹之助。奴は並みじゃないぞ。まるで獣だ…」
鬼松の言う意味が理解できなかったが、樹之助は無言で頷き奥へ進む。
やがて、店主、番頭、丁稚らが恐れおののいてる前に仁王立ちしている浪人の背が見えた。
背はそれほど高くないが、全身鋼の鎧のような筋肉。服装は土埃にまみれ、何日も風呂に入っていない異臭が漂っている。
松代屋の主人が泣きそうな顔で、金子を差し出そうとしているところだった。
「おい、今時勤王を騙る押借りなんて流行らない真似止めとけ」
樹之助が声を掛けた瞬間だった。
浪人は無言で踵を返し、樹之助の懐に入り、抜刀した。
その動作全てが猛獣のような速さとしなやかさだった。
事前に浪人の異常さを聞いていなければ、樹之助も今の斬撃を食らって卒倒していただろう。
だが、樹之助は斬撃を食らうことなく、一間後方に飛びのいていた。
だが、休む間もなく、浪人は突進し樹之助目掛けて鋭い斬撃を浴びせてくる。
樹之助は手にした苦無で受けつつも、とてもすべては受けきれない。
それほど浪人の太刀捌きは速く、鋭い。
そしてその太刀筋が尋常じゃない。
普通の剣客のように決まった型から流れるように打ち込んでくるものではない。
刀が空を切り崩れた体制からでも、恐ろしい速さで反転し、再度斬撃を繰り出してくる。
(これは、確かに野獣の剣だ...)
しかもこの男、疲れというものをまったく感じていないようだ。
どんなに刀を回転させても終始剣速が衰えることがない。
こんな奴相手では、いずれこっちがへばっちまう。
樹之助は少し時間を稼ごうと、男に声を掛けた。
「あんた、すげぇな。俺も色々な剣客見てきたけど、こんな剛剣見たことないぜ。」
男は褒められて少しいい気分になったのか、口辺に少し笑みをたたえた様に見えた。
「ふん、わが剣は武市先生直伝の尽忠報国の剣よ。」
(武市?聞いたことがあるような...)
「わしゃ武市先生の理想実現の為、斬って斬って斬りまくってきたがぜよ。それをそこらの不逞浪士風情と一緒にすな!」
そう言うとまた目にも止まらぬ連続攻撃がきた。
樹之助は苦無で受けつつ、身をかわしつつ、店内の棚や備品を投げつけるなどしてなんとかこらえる。
だが、体のあちこちから血がにじんでいる。
(竹光で良かった…真剣だったらとっくにお陀仏だ...)
さすがに男も少し息を整えている。
「おんしもやるのぉ。わしの剣をこればあ捌けたがは武市先生くらいじゃ。もっとも先生に恥かかせるわけにはいかんかったきの。先生に対して本気で剣を振るうたことはないがぜよ。」
(武市!?思い出した!確か土佐勤王党の...)
樹之助は町の噂で、昨年の長州藩都落ちに伴い、土佐も隠居していた山内容堂が政治の場に返り咲き、藩内の勤王勢力を一掃したと聞いていた。
(その藩内の勤王勢力の首魁が武市半平太。ということはこの男…)
「おまえ、人斬り…以蔵、か?」
「お~、久しぶりじゃのう、その呼び名。わしの勲章じゃ…武市先生も長州も皆京からおらんなってしもうて、わしの名を知っちゅうもんがおらんなったんじゃ。」
以蔵が笑う。
笑うとかえって怖い顔になる。
笑顔の先に見える狂気…
「それで押借りか?遂には商売道具の刀も売り払い竹光ってところなんだろ?京に鳴り響いた男の末路としては哀れなもんだな」
それを聞き以蔵の目に火が灯った。
「おんし如きに何がわかるぜよ!」
以蔵の剣がさらに鋭さを増した。
この狭い室内ではやられる。
樹之助は入口の木戸に体当たりし、外に転がり出る。
中を覗いていた群衆が蜘蛛の子を散らすように逃げ散らかる。
追ってきた以蔵は鬼の形相だ。
「おんしは、おんしだけは…殺す!」
竹光でも以蔵の膂力で頭をかち割られたら、間違いなく死ぬ。
だが、今日は苦無以外の忍び道具は持って来ていなかった。
以蔵が打ち込んでくる。
外に出たのは樹之助の策略だった。
樹之助は足元の砂を蹴り上げる。
以蔵が一瞬視界を奪われる。
だが、それだけで足を止める以蔵ではない。
樹之助は苦無を以蔵の太腿目掛けて投げる。
以蔵の脚が止まる。
瞬間、樹之助は跳躍し以蔵の背後に回り、後ろから首を締めにかかる。
(勝った!)
樹之助が思ったのも束の間。
以蔵のその強靭な筋肉の鎧は、樹之助が渾身の力を込めて締め上げても全くきかない。
「残念だったな小僧!おんしごとき非力な腕では、このわしを締め落とすことなぞ不可能だわ!」
そう言うと以蔵は首に絡みついた樹之助の腕を力任せに引きはがし、そのまま地面に叩きつけた。
樹之助は背中を強烈にうちつけ、息が止まる。
以蔵は勝ち誇った顔で竹光を振り上げた。
「おんし、なかなか楽しかったぞ。礼代わりに一撃で殺しちゃる。」
(…やられた!)
樹之助は観念し、目をつぶった。
(千代…ややを授けてやれなくてゴメン…)
だが待てども樹之助の頭上に斬撃が降ってくることはなかった。
樹之助が恐る恐る目を開けると、以蔵は梯子、八角棒、縄手などを持った幕吏によって、絡め捕られているところだった。
以蔵は大声で何かを喚き散らしている。
意識戻した鬼松と岩蔵が、樹之助を抱え起こした
「あれが人斬り…恐ろしい奴…」と鬼松。
「ああ、天誅真っ盛りの頃に対峙しなくて良かったよ...」
樹之助は縛られ引き立てられていく以蔵の後ろ姿を、肌が粟立つ思いで見つめていた。




