第61話 元旦
元治元年(1864年)元旦
晴れ上がった空に冷え切った空気がキンと張りつめている寒い朝。
近所の路地からは、正月の挨拶を交わす人々の声が聞こえてくる。
そんな中、樹之助は、火鉢に手をかざしながら、落ち着きなく何かを待っている。
「まだですか~?」
そう口にすると、襖の向こうから千代の声が返ってくる。
「もう少しです。」
もう三度目だった。
「まったく、どうして女の支度ってのはこうも長いんだ…」
一緒に火鉢を囲んでいる隣家の清兵衛が嘲りとも同調ともつかない声音で肩を叩く。
「樹之助、観念するんだな。女房を持つってことは、これからの人生ずっとこうして待たされるってことだ。」
「ちぇ!」
樹之助が顔をしかめた、その時だった。
襖が静かに開いた。
「…お待たせしました」
樹之助は振り向き、そして動きを止めた。
千代が立っていた。
薄梅色の着物。
やわらかな地色に、小さな梅花が散り、襟元にはほんのり紅がのぞく。
髪はきちんと結い上げられ、いつもの愛らしさの中に、今日はどこか大人びた女らしさがあった。
頬は寒さのせいで、少し赤い。
その姿を見て、樹之助は固まっている。
千代は不安そうに小首を傾げる。
「…変ですか?」
「いや…」
やっと絞り出した声が、掠れている。
「変じゃない…」
「ほんとですか?」
「…うん」
樹之助は視線を逸らし、頭を掻いた。
「似合いすぎだ!」
「何だいその褒め方は!」
着付けを手伝っていたお貞が苦笑いしている。
千代はふっと笑った。
「ありがとうございます。」
その笑顔がまた着物によく似合っていて、樹之助はますます困惑した。
このままいたらどんな恥ずかしい言葉が口をつくかわかったもんじゃない。
樹之助は慌てて立ち上がった。
「もう行くぞ!」
「そんな急がなくても祇園さんは逃げませんよ?」
「俺の気持が持たん!」
「え?」
「何でもない!」
皆の笑い声を背にして樹之助は先だって家を出た。
千代は貞と視線を交わしながら「じゃあ行ってきます」といって樹之助の後に続いた。
「楽しんでおいで」
清兵衛と貞が笑顔で見送っていた。
樹之助も、お貞が仕立て直してくれた濃紺の縞着物を着ている。
正月の通りへ出ると、晴れ着姿の人波で満ちていた。
神社近くには出店もたくさん出ている。
千代はきょろきょろと目を輝かせる。
「すごい人ですねぇ…」
「そうだな。はぐれるなよ。」
「子どもじゃありません。」
そう言ってるそばから、千代は人波に押されてよろけた。
「あっ」
樹之助はよろける千代の手を掴んだ。
掴んだ手は寒さで氷のように冷たかった。
「危なっかしいな~」
樹之助が千代の手を掴みながら顔を覗く。
「すいません…」
だが樹之助は千代の手を離さない。
「これは俺が勝手に掴んでるだけだ、危ないからな…」
千代は顔を赤くし、俯いたまま小さく笑った。
「勝手なら、仕方ありませんね。」
冷たかった手が、樹之助のぬくもりで温かくなっていく。
樹之助はそのまま、千代の速度に合わせてゆっくり歩みを進めた。。
祇園社(八坂神社)の境内は、参詣客で溢れていた。
鈴と柏手を打つ音がひっきりなしに鳴り響いていた。
人々の白い息がモヤのように立ちのぼり、辺りの景色をぼかしている。
二人も並んで賽銭を投げ、静かに手を合わせた。
千代は何を願ったのか、しばらく目を閉じていた。
参拝を終え、石段の脇へ寄ると樹之助が聞く。
「何頼んだんだ?」
「秘密です。」
「なんだよ。」
「あなたは?」
「俺か?」
樹之助は少し考え、それからボソっと言った。
「このまま、って」
千代はきょとんとした。
「欲がありませんね?」
「あるさ」
そう言って樹之助は、じっと千代を見た。
「このまま、ずっと千代が隣にいることって。」
千代の頬が一気に赤くなる。
「な、なにを急に…!」
「本音だ」
「ずるい…人前でそんな…」
千代は袖で顔を隠した。
だが袖の奥で、嬉しそうに笑っているのが分かる。
「お、御籤だ。引いてみるか?」
「はい!」
二人は筒に入った思い思いの番号を引き巫女に渡した。
「六十二番の旦那様、凶でございます。」
「ちぇ、凶かよ。千代はどうだ?」
「十六番の奥様は、大吉でございます。」
「やったー!」
千代が子供の様にはしゃいでいる。
「今年も千代に負ける日々か~」
樹之助は苦笑いした。
「大丈夫です。あなたの凶と私の大吉。合わせたら我が家は中吉ですから。」
千代はどこまでも前向きだ。
帰り道。
甘酒を買って二人で飲んだ。
冷えた体に染みわたる旨さだった。
「おいしい…」
笑う千代の横顔に陽の光が差している。
樹之助はまた見惚れてしまい、思わず足を止める。
「どうしました?」
「…いや」
「また変な顔してますよ」
「ほっとけ!」
樹之助はそっぽを向いた。
(敵わねぇな~)
そう胸の内で呟きながら、千代の手を引いて歩き出した。
千代が小声で独り言つ。
「こんな楽しいお正月、小さい時以来だなぁ。」
樹之助も父母と一緒に過ごした正月を思い出す。
「そうだな。でも、俺は今の方がずっと幸せだぜ。」
「ふふ、あなた甘酒で酔ったのですか?」
千代がほくそ笑む。
「でも、私も酔ったみたいです。酔ったついでに私も言いますね…」
樹之助は立ち止まり千代の方を見やる。
「…私、樹之助様のややが欲しい...」
千代は赤面しながらも目は真剣だった。
「父親か…今までは考えたこともなかったな...」
樹之助は父樹三郎の姿を思い出していた。
忍び修行には厳しい父だった。
だけど、何かできるようになると手放しで褒めてくれた。
そんな父に褒められたくて、日々修行を励んだ。
(今度は俺が褒めてやる番か...)
そう思うと自然に樹之助の口が動いていた。
「俺も欲しいな、千代との子…」
千代は嬉しそうに樹之助の腕に絡みついた。
(…そして親父のように子供を守れる父になる)
樹之助の心に新たな決意が宿った。
京の正月は、どこまでも晴れていた。




