第60話 想贈
「ただい...ま......」
樹之助が玄関の戸を開けると、千代が箒を手に仁王立ちしていた。
「遅い!今日は暗くなる前に帰るって言ってたじゃない!」
千代は可愛い顔を精一杯怒らせている。
だが、そんな一生懸命怒っている顔も樹之助からしたら愛らしい。
「ごめんよ。ちょっと出先で色々あって...」
言い終わる前に千代が上がり框から飛び下りてきた。
「あーーーーー!」
千代は樹之助の左手を持ち上げる。
「これ、今日の新しいお仕事用にっておろしたばかりのなのに~!」
千代は樹之助がブラブラさせてる左袖の破れをつまんでいる。
続けて説教が始まった。
「あなた!もっと物は大事にしてくれないと困ります!これじゃお正月もまともに迎えられないわ!」
千代がカンカンに怒っているのをなだめようと、樹之助は懐から一両小判を取り出す。
「ほら、今日の報酬。これで着物くらい買えるだろ?」
樹之助が言うと、千代の声は益々大きくなった。
「そういう問題じゃありません!あなたが破かなければこのお金、他のことに使えたんですよ!もったいないじゃないですか!」
「ごめんなさい...」
樹之助は全面降伏するしかなかった。
千代はむくれてそっぽを向いている。
樹之助は千代の後ろから背中を指で突く。
「...ねぇ」
「フン!」
「千代さん」
「知らない!」
「ご機嫌直してよ」
「触らないで!」
そう言われても樹之助は指で千代の脇腹を突くのを止めない。
「ねぇってば」
千代の口元が緩みだす。
「千代さ~ん。許してよ~」
遂に千代はこらえきれず笑い出す。
「お、これはお許しが出たということでいいですね?」
くすぐりを止めない樹之助に、とうとう千代は振り向き眉を吊り上げる。
「もう!樹之助様はずるいです!こんなことで誤魔化して!」
そう言う千代の唇に、樹之助は自分の唇を重ねた。
ジタバタ抵抗していた千代も、やがておとなしくなった。
「ごめんね、千代」
唇を離し樹之助が優しく微笑む。
「もう、樹之助様は本当にずるい!こんなことされたら千代は...怒れないじゃないですか...」
そう言いながら、樹之助にきつくしがみつく千代。
「怒っているのは袖じゃないんだろ...ごめんよ遅くなって。」
「寂しかったんだから…一緒にお正月用にお掃除しようって思ってたのに。帰って来ないんだもん...」
樹之助は千代が心から愛しいと思った。
「わかった。その埋め合わせに、明日は全ての仕事断って千代と一緒にいるよ。掃除も勿論やるぜ。」
「ほんと?」
「勿論ほんとだ。」
「嬉しい!」
二人は再び唇を重ねた。
六日後 隣家の枡谷清兵衛が樹之助を呼びに来た。
「おう、樹之助はん。例の物できましたで!」
玄関先から手招きをする。
樹之助は喜色を浮かべ立ち上がった。
千代がきょとんとしているのを見て、樹之助は千代の手を取った。
「一緒においで!」
樹之助と千代が隣の清兵衛宅に上がるとお貞が出てきた。
「できたんですか?」
樹之助が目を輝かせている。
「我ながらとっても素晴らしい出来。これ着たらお千代ちゃんの可愛さがますます引き立つわ。」
お貞は襖を開け、衣桁にかけた着物を二人の前で静かに向きを変えた。
樹之助は「おぉ!」と感嘆の声を上げる。
千代は状況が飲み込めない。
「え、これってどういう...?」
「千代に俺からの正月祝いだ!」
貞が説明する。
「六日前、あの雪が降った日。日が暮れてから樹之助はんが訪ねてきたんや。この反物持ってな。」
貞の声音は柔らかい。
「それで、正月までに千代ちゃんの着物に仕立てたい。そやけど出来上がるまで内緒にしたいさかい、お隣で千代ちゃんの体型なんかをわかってるうちにお願いしたいって。」
千代は驚き、目を大きく開いて樹之助を見つめている。
樹之助も優しい眼差しで千代を見て目じりを下げる。
「ほら、この前千代が怒った夜だよ。」
樹之助が続ける。
「苦労したんだぜ。反物選ぶだけでも一苦労だったし、お貞さんに断られたらどうしようって。」
「私は嬉しかったよ。あんた達のためになんかしたいって思っていたから、こんな得意なことで恩返しさせてもらえて。」
千代はその場にへたり込んだ。
そして「ふぇぇ...」と子供のような声で泣き出した。
「どうした?気に入らなかったか?」
跪き千代の目線に合わせた樹之助に、千代は首を振りながら、飛びつき大声で泣き出した。
「どうした?どこか痛いか?」
樹之助も訳がわからなくなり、千代の背を撫でる。
「千代はん嬉しいんやろ。こんな優しい旦那で。」
清兵衛が言うと、千代は泣きながらウンウンと頷いている。
「わかるわ~。おなごが着物買うてもらうことは人生で一番の喜びやもん。」
お貞ももらい泣きしている。
「しかも樹之助はんの見立て完璧や。正にお千代ちゃんが着るための絵柄やわ。これは普段からよくお千代ちゃんを見ていて、惚れこんでいるから選べるものやで。」
「ちょ、やめてくださいよ」 樹之助も赤面している。
「私、本当に幸せです。幸せ過ぎて怖いくらい...」
千代が頬を伝う涙を拭いながら言った。
「こんなもんじゃないぜ。俺はこれからもっと頑張って、千代が喜ぶ姿もっと見たいんだ!」
それを聞き千代は激しく首を振る。
「いいの!これで十分。あなたの仕事は危険がいっぱい…お願いだから、私の前からいなくならないで...」
「千代...」
樹之助は清兵衛夫妻がいるにも関わらず千代をきつく抱きしめた。
「あらあら、こら目のやり場に困るなぁ。」
貞が言うと清兵衛も濡れた目元を指先で拭っていた。。
「まったく。若いって素晴らしいな...」
二人が見つめる視線は優しかった。
ややしばらくして、貞が口を開く。
「あんたたち、そろそろええかい。」
二人は我に返り、赤面しながら体を離す。
「実はもう一つ贈り物があるんやで。」
そう言って貞はもう一つ風呂敷包みを持ってきた。
貞が風呂敷を開く。
深い藍色に細縞。
見る者が見れば分かる上等の染めものだった。
「これは…俺の?」
「わしが若い時に来とったもんを仕立て直したんや。呉服屋の女房の見立てや。物は間違いあらへんで。」
清兵衛が笑う。
「うちの人着るにはちょい若すぎる色柄やけど、物がええさかいほかされず、ずっと取っといたんや。千代ちゃんの新しい着物と一緒に着て、新年を迎えたらええのに。」
貞が言うと、樹之助の頬にも熱いものが流れた。
「清兵衛さん、お貞さん、本当にありがとうございます。俺達ずっと大事にします。」
清兵衛と貞は、喜びはしゃぐ樹之助たちが、出て行った息子夫婦らの姿にダブって見えていた。




