第58話 斎藤 一
道場の脇
井戸端で樹之助は冷たい水に手拭いを浸し、よく絞って体を拭いていた。
十二月の水は突き刺さる様に冷たい。
拭き取りも早々に切り上げ、樹之助は震えながら上着を着た。
そこに沖田が近づきながら声をかける。
「さっきは凄かったね〜。あんな体術初めて見たけど、誰に教わったの?」
樹之助は少し間を空け、ポツリと答えた。
「…親父だ」
「お父上も忍びだったの?」
「まぁな。俺なんか足元にも及ばない、当代一の使い手と言われた男さ…」
樹之助は風の谷で暮らしているであろう父を思い空を見上げた。
沖田は樹之助の心情が揺れているのを察して、それ以上聞くのをやめた。
そこへツカツカと土方が近づいてきて樹之助に声をかけた。
「おい、粕谷のツケはいくらだ?」
樹之助は慌てて懐から証文を取り出して確認する。
「二両だけど...」
「野郎、どんだけ飲んでんだ!」
土方はこめかみに青筋を立て、怒気を示しながら、懐中をまさぐり樹之助に一両小判三枚を投げてよこした。
「あれ、一枚多いよ?」
樹之助が首を傾げる
土方が厳しい顔つきで言う。
「今や新選組は芹沢らがいた頃とは違うんだ。町を守る隊士が町人の借金を踏み倒しているなんてことは許されん。」
そういうとふっと口辺に笑みをたたえた。
「残りはお前の頑張りと、破れた袖の駄賃だ。誰ぞに怒られるんだろ?」
樹之助は驚きながらも、すぐに笑顔になった。
「ありがてぇ!あんた存外話のわかる人なんだな!」
「なっ!」
土方が気色ばむ横で、沖田が腹を抱えて笑っている。
「あは、あははは!そいつはいい!ゴエモン怖いもの無しだね。土方さんに面と向かってそんな事言う奴、新選組の中でも俺くらいだよ!」
沖田が笑い転げてるのを見て、土方は気が削がれ、口に出かけた言葉を飲み込んだ。
「ったく...お前らの様な奴が一番厄介だぜ。」
そう言いながら土方は真顔で樹之助を見た。
「お前、本名は?」
樹之助も笑みを消し真面目に答える。
「石川樹之助だ。」
沖田が感心した様な声を出す。
「ヘェ〜、ゴエモンじゃないんだ。」
「石川…。お前、新撰組に来い!お前の能力、飲み屋の借金取りをさせておくには惜しい。」
「それ、俺も前に聞いたけど、まだ何が正義かわかんないとか言ってたよね。その後その答えは見つかったのかい?」
沖田が人懐っこい笑顔で聞いてくる。
「明確に見つかったわけじゃないけど、おぼろげに見えてきてる物はある。だが、まだまだいろんな人に会い、いろんなものを見て学ばなければいけないとも思ってる。」
「つまりは新撰組には来ないってこと?」
沖田の目が光る。
「あんたらの正義は理解してる。徳川に忠義を尽くす。それはそれで素晴らしいと思うよ。」
樹之助はため息を一つ吐く。
「でも、俺は武士じゃねぇから、徳川に殉じる生き方は違う気がする。でも武士になったあんたらがそれを全うするのは、変わらぬ美しさだと思う。」
土方はジッと樹之助を見つめている。
「俺の使命は歴史を見守り自分自身の正心に従い行動する事。その為、時にあんた達に協力する事もあれば、時に敵対する事もあるかもしれねぇ。」
土方も沖田も黙って聞いている。
「だから正式に入隊ってことはしねぇ。」
そう言うと樹之助は軽く手を振り、踵を返した。
出口に向かい歩き始めると、そこから入ってくる一人の隊士と目が合う。
年は若いが何とも言えない周りを圧する雰囲気を醸し出している。
男は樹之助を一瞥すると、真っ直ぐ土方の元に行き口を開いた。
「三番隊巡察終えました。錦小路で我が隊を見て逃げようとした浪士一名捕縛し奉行所へ引き渡しました。」
「ご苦労。後で報告書を出してくれ。」
土方がねぎらうと、報告を終えた隊士が問い返す。
「副長、あの入口の所の男は?」
「あぁ、沖田がどこかから見つけてきた面白い男よ。忍びの技を使う。」
「忍び?」
そう言って男は振り返り樹之助を見た。
「あぁ、斎藤君は観察方の仕事もやってもらうことが多いから、味方にしたら役立つと思ったんだが...」
土方が言うのを引き取り沖田が茶化す。
「断られちゃったんだよね~。」
土方は苦笑いしながら斎藤の肩を叩き小声で話す。
「奴は京の裏側に詳しい。そのうち役に立つこともある。石川樹之助、覚えておけ。」
「石川…樹之助」
新選組三番隊組長斎藤一
樹之助を初めて意識した日だった。
【斎藤 一】新選組三番隊組長、撃剣師範 多くの著作物で有名な新選組でも、多くのファンがいる隊士であるが、出自については謎が多い人物。凄腕の剣客が揃う新選組内でも永倉、沖田と並び最強と言われていたが、剣の流派にしても諸説ありはっきりしていない。左利きだったという風説もあるが、後年の創作説が強い。戊辰戦争を生き抜き、維新後は警視庁→高等師範学校に勤務し、大正四年71才で没した。




