第55回 師走
「うーん」
樹之助の唸り声がまた聞こえてきた。
千代は襖を開け、寝そべって本を読む樹之助に呆れたように声を掛ける。
「あなた、家にいる時ひたすら読書は結構なんですけど、その「うーん」、とか、「あー」、とかっていう声何とかなりませんか?気になって仕方ないんですけど」
「あ、また出てた?ごめんごめん。無意識に出ちまってさぁ。」
樹之助は起き上がって、手にしていた万国公法第一巻を文机の上に置いた。
「難しそうな本ですね。」
千代が樹之助の横に座り、樹之助が文机に置いた本をパラパラめくる。
「難しいなんてもんじゃないぜ。日本語で書いてるのにさっぱり意味がわからない。だんだん俺は日本語がわからないんじゃないかって思えてきたよ。」
「そうですか。どなたか教えてくれる方いればいいんですけどね...」
樹之助は坂本龍馬の顔を思い浮かべた。
だが、どこにいるのか見当もつかない浪人だ。
次に浮かんだのは岩倉具視だった。
(暇だって言ってたけど、こんな用事で気軽に行っていい相手じゃないよな~。)
他に学のある知り合いは思いつかない。
「静逸さんよ~、大事な書物、俺の血肉にはなりそうもないぜ~」
そう言って樹之助は大の字に寝転んだ。
「…読書百遍、意自ずから通ず」
千代が不意に口にした。
「ん、何それ?」
樹之助が千代に問いかける。
「昔…死んだおじいちゃんが言ってたの。おじいちゃんは商人だけど学問が好きな人で、たくさんの書物を読んでいたわ。」
千代が身内の話をするのは珍しかった。
樹之助は黙って聞いている。
「それでね、私おじいちゃんにズケズケと言っちゃったの。おじいちゃん意味わかるの?って。」
千代は少し悲し気な顔で続けた。
「そしたらおじいちゃん、怒りもしないで、私を膝に乗せて、『読書百遍、意自ずから通ずって言ってな、わからないからこそ何度も読むんだよ。わからなくても百回読めば意味がわかってくるって偉い人が言ったんだ。じいちゃん頭良くないから百回じゃ済まなくて二百回くらい読むんだ』って言ってた。」
千代が少し鼻を湿らせている。
「素敵なおじいちゃんだね...よし、俺も百篇読むまで弱音は吐かないぞ!」
そう明るく笑う樹之助を見て、「がんばって、あなた!」と泣き笑いで答える千代だった。
師走の京
寺社をはじめ、あらゆるところで正月準備にあわただしい。
樹之助も山城屋から年末の売掛金回収の依頼を受けあちこち駆けまわっていた。
「こんちは~!山城屋で~す。」
とある長屋の前で叫ぶ樹之助。
「正吉さん、一年のツケきっちり清算して、気持ちよくお正月迎えましょう!」
返事はない。
長屋の住人はどこも似たようなもので、互いに変な連帯感がある。
隣の男が出てきたので、「正吉いないのか?」と聞くと、「あぁ、正月は故郷に帰るって言ってたな」と言って、そそくさと立ち去った。
(怪しい...)
樹之助は縁側に回る。
雨戸がきつく締められている。
(本当にいねぇのか?)
樹之助は辺りをきょろきょろと見回し、誰も見ていないことを確認すると、素早く羽目板を外し、軒下に潜った。
(忍びをなめんなよ...)
そう思いつつ正吉の部屋の下に着く。
音も無く床板を外すと、その上の畳をゆっくり持ち上げる。
すると、視線の先に布団にもぐり必死で声を殺している正吉が見えた。
樹之助は素早く畳から這い出た。
当然正吉には見えていない。
次に樹之助は正吉が被っている布団を勢いよくはぎ取った。
突然頭からかぶっていた布団をはぐられ、正吉は驚き口をパクパク開け閉めしている。
「いるじゃねぇか。」
樹之助がニヤリとして呟く。
「ひぇ!い、一体どこから?」
「どっからでもいいんだよ。お前さんのツケ、しっかり払っていい正月迎えようぜ。」
樹之助は正吉の前にしゃがみ込み、にこやかに微笑んでいる。
「け、けぇしてぇのは山々なんだが、先立つもんがねぇんだよ...」
「そりゃあ、そうかもしんねぇけどな。あんた散々飲み食いして楽しんだんだ。それを無かったことにしようってのは、虫がいい話じゃねぇか?」
「ひと月待ってくれ!来月には必ず!」
正吉が拝み倒す。
だが、この手の輩は期日を延ばしたところで、次も同じことを言う。
樹之助は、攻め手を変えた。
「なぁ、あんた。あんたがツケを払わないとどうなるか考えたことあるか?」
突然話題が変わり正吉は戸惑っている。
「あんたがツケを払わなけりゃ、山城屋が困ることはわかるよな。」
「だ、だけどよ、山城屋ほどの商人が俺の数百文のツケ回収できなくたって屁でもないだろう。」
樹之助は、頷きながら続ける。
「あんただけならな。だが、この師走で山城屋の借金取りは京都市内だけで百件以上回っているんだぜ。それが全部回収不能だったらどうなると思う?」
樹之助の声が大きくなる。
「山城屋はつぶれるよな。あんたは他に行けばいいかもしれないが、同じことを次々やっていけば、あんたが楽しむ場所が京から消えちまうんだ。」
「そりゃ大げさだぜ...」
正吉は薄笑いを浮かべている。
「それにな、お前さんの借金を取って帰れないと俺はコレだ。」
そう言って樹之助は、手で首を斬るしぐさをして見せる。
「俺にはな、千代っていう、そりゃあ可愛い女房がいるんだ。俺が死んじまったら、千代も稼ぎ手がいなくなって死んじまうんだぜ。」
「お、脅かすなよ...」
正吉は少し身に染みてきているようだ。
「いや、大げさじゃねぇ。千代の腹には赤ん坊もいるんだ(嘘だけど)。お前さんのツケのせいで、俺達一家は死に、山城屋はつぶれる。お前さん、そんな罪を背負って生きていくんだぜ。たかだか何百文のために。」
樹之助はジロリと凄みのある目つきで正吉を見据え、最後にキッパリ言い切った。
「俺が死んだら、あんたのとこに毎晩化けて出てきてやるからな。生きているうちでもこんな風に忍んでこれるんだぜ。死んだら楽勝よ。そのときゃあ、女房も子供も一緒だからな。」
さすがに正吉も怖くなってきた。
何より、音も無く忍んできたこいつがそもそも幽霊なんじゃないかと思い出していた。
「わ、わかった。払う。払うから、もう帰ってくれ!」
そう言うと正吉は押入れの床下に大事にしまい込んでいたへそくりから金を出してきた。
「まいど、よいお年を!」
樹之助はさっきまでの凄みのある顔から、まだ少年の面持ちの残る笑顔を見せながら、軽い足取りで帰って行った。
懐の袋に回収した金を入れつつ、樹之助は次の回収先が書かれた紙切れを見た。
「えっと、次はと...」
そう言いながら樹之助は足を止めた。
「…壬生村、新選組屯所?」




