第53話 存在意義
「脈も正常、肌つやも問題なし。すこぶる健康体にございます。」
岩倉の屋敷の居間にて静逸が診察を終えた。
「だから言ったではないか。どこも問題ないと。」
岩倉が笑う。
だが、静逸は釘を刺すのも忘れない。
「ですが、お酒はほどほどになさいませ。嗜む程度ならば薬にもなりますが、過ぎますと毒になります。」
「わかっておる。だが、こんな田舎では楽しみは誰かが訪ねてくることか酒しかないのだ。」
「お気持ちはわかりますが...」
静逸は診察道具を鞄にしまい、匠太に渡す。
「さて…」
と言って框にて控えている樹之助を手招きした。
樹之助はおずおずと進み出て頭を下げた。
「その方、名は?」
岩倉が聞く。
「は、石川樹之助と申します。」
「生業は?」
「今は祇園の用心棒的なことを…」
「その細腕で用心棒など務まるのか?」
そう言う岩倉を静逸が遮った。
「岩倉様、今こちらに来る道中、この屋敷を覗う賊が三名いたのを、この樹之助一人で立ち回り追い払ってしまったところをこの静逸目の当たりにいたしました。決して誇張ではないかと…」
「ほほう。見かけによらず腕は立つと申すか。最近市井の者どもは剣術にも熱心だと聞く。情けない武家などより頼りになると言うことか。」
またも岩倉は笑い飛ばす。
「さにあらず。どうやらこの樹之助伊賀者の末裔とか…」
岩倉の目が鈍く光った。
「伊賀者...?この時代にまだそのような者がおるのか?」
樹之助は気後れしながらも答えた。
「今は…他流は存じませんが、うちの流れを汲むものは、知る限り自分ひとりかと。」
「そうか。それもまた定めよの。世に必要とされないものは淘汰されていく...」
少し沈んだ空気になったことを受け、静逸が話題を変えた。
「さあ、樹之助君、せっかくここまで来たんだから、岩倉様に聞きたいこと聞いてごらん。」
そう言われ、樹之助も思い切って口を開いた。
「俺は、今のこの国、日本について知りたい。これまで俺は国と言えば、和泉、山城、薩摩、長州、会津なんかだと思ってた。だけど、黒船が来て以来、急に日本という考え方が世に溢れてきて、そしたら今度は尊王だ、佐幕だ、開国だ、攘夷だって。一体世の中どうなってんだ?俺たちが暮らすこの日本はどうすりゃいいんだ?そんな、何とも言えない感情で床につくと、いつも眠れずに朝になっちまう。」
岩倉はじっと樹之助の言葉に聞き入っていた。
そして静逸に向かってそっと告げた。
「この国も遂にここまで考える庶民が現れたか。お上の言うことだけをかしこまって聞くだけの庶民から、国のことを我がこととして考える庶民がな...」
「まことに。私も驚きました。武家の子弟でもそこまで考えぬ者も多いと言うのに。」
静逸が同意する。
岩倉は樹之助に向き直った。
「樹之助。物事には虚と実がある。それを読み違えると実像は見えてこない。勤王派と呼ばれる者共は、口では天皇の親政を目指すと言っているが、その実は徳川にとって代わりたいだけのことよ。勤王はその方便にすぎない。」
樹之助はハッとした表情で岩倉を見つめている。
「同様に佐幕派の連中も、今の徳川の世が未来永劫続けばいいとしか考えてない。そのために三百年かけ国を眠らせ、不満分子は排除してきた。こちらとて、公武合体などで世間の目を逸らしているが、実態は死にかけた徳川幕府の延命以外考えていない。」
樹之助は言葉がでない。
「庶民にとっては、どちらが勝ったところで何も変わらん。」
岩倉が吐き捨てる。
そして、冷酒をあおり静かに問いかけた。
「樹之助はこの国全体に民が何人いるか知っているか?」
樹之助は考えたことも無かったのであてずっぽうに言った。
「えっ?百万人くらい...ですか?」
静逸が口を挟む。
「そんな少なくないよ。江戸だけでも百万はいる。」
「そうだ。そして日ノ本全体では三千万人くらいはいるだろう。」
樹之助は数字が大きすぎてイメージが湧かない。
「それでは、そのうち武士は何人いると思う?」
またまた難解な質問だった。
そんなこと考えたこともない。
「全部で三千万だろ…半分は多いか?一千万位かな?」
樹之助が指を折りながら出した答えに岩倉は静かに首を振る。
「三千万の六分、二百万弱だと言われている。これは武家の家族、家臣団なども含んだ数だから、本当に二本差しの武士は百万もいないだろう。」
「へぇ~。そんな少ないのにあんな威張り散らしてるんだ。」
樹之助から思わず本音が漏れる。
「そうだ。この国は三千万の国民が、百万足らずの武士を食わせるために、搾取されてきたんだ。三百年もの間...な。」
樹之助は考えたこともないこの国の実態を聞いて困惑するばかりだった。
「今の武士は三百年前の関ヶ原の功によって勝ち取った俸禄を先祖代々守ることを専一としているだけよ。三百年間、戦はろくに無かった。何もせず俸禄が入る暮らしに染まってしまった今の武士は公家と変わらず堕落しておる。」
岩倉がニヤリとして続ける。
「戦があっても馬にも乗れぬ、鎧も着れぬ、挙句は槍刀鉄砲など質に入れてしまって使えないという旗本もいると聞く。だから不逞浪士が暴れまわっても対応できず、自分たちも浪人を雇って守ってもらうようになった。三百年俸禄を出してきたのは一体何のためだ?と思わんか?」
樹之助は頷く。
「武士が庶民から搾り取ってきた一つの理由は、いざというとき矢面に立って戦い、庶民の生活を守るからだった。それが、今の惰弱な武士にできるかな?できないだろう?じゃあ、武士の存在意義とは?そうならんか?」
樹之助はある結論に達した。
「ひょっとして...武士なんてもう、いらないんじゃ...?」
岩倉と静逸はそれ以上何も言わず、満足そうに頷いていた。
樹之助は内心思っていた。
(俺が絶対だと思っていた世の中の仕組みは存外もろいのでは...)
そして、父が風の忍びとして残した言葉が脳裏を掠める。
(徳川将軍は十五代で終わる...)




