第5話 継承
G.W期間特別に祝日アップいたします(^.^)
「え、親父が長屋を出た?」
鴨川のほとりの乞食小屋に戻るなり、樹之助はイシキリから聞かされた。
「それで、どこへ?」
「そこまでは知らん」
イシキリは焚き火の灰をかきながら、素っ気なく答える。
(親父…どこへ行った?)
胸の奥がざわつく。
近くに頼れる親戚などいないはずだった。
黙り込んだままの樹之助を見かねたのか、イシキリが顔も上げずに言う。
「ウジウジ考えてねぇで、長屋行ってこい。何か残ってるかもしれねぇぞ」
その一言に、背を押された。
気づけば、樹之助は駆け出していた。
「…ひと月ぶりか」
三条の裏路地長屋に差し掛かり、足がわずかに緩む。
ほんのひと月。
だが、ここで母を看取り、すべてが変わったあの日から、ずいぶん遠くまで来てしまった気がしていた。
五軒長屋の一番奥。
そこが、樹之助たちの家だった。
戸口に立ち、辺りを見回す。
隣近所の様子は変わらない。
だが——
自分の家だけが、妙に軽い。
父が戸口に積んでいた荷や道具が、すべて片付いている。
嫌な予感が、現実になる。
引き戸に手をかける。
からり、と乾いた音を立てて開いた。
中を覗き込む。
…何もない。
土間も、居間も、がらんとしていた。
人の気配が、すっかり消えている。
(…本当に、いなくなったのか)
力が抜け、その場に立ち尽くす。
その背に、不意に声がかかった。
「樹之助かい…?」
はっとして振り返る。
隣の浪人の内儀、お萬だった。
「あ…おばさん。ご無沙汰してます…」
言葉が少しぎこちない。
母が亡くなった折、世話になりながらも、何も告げずに飛び出した後ろめたさがあった。
だが、お萬はそんなこと気にも留めない様子で、樹之助の顔を覗き込む。
「あんた、どこにいたんだい。父さん、ずいぶん心配してたよ」
父の話が出た瞬間、胸がちくりと痛む。
「でも…変わったねぇ」
しげしげと見つめる。
「たかがひと月ばかりだってのに、急に大人になったみたいやわ」
どこか嬉しそうな、柔らかな顔。
その視線が気恥ずかしくて、樹之助は目を逸らした。
「あ、あの…親父が出て行ったって聞いたんですけど…」
話題を変えるように切り出す。
「いつ、どこに…?」
お萬の表情が、ふっと曇った。
「樹三郎さんかい」
小さく息をつく。
「あんたがいなくなってすぐだよ。ほら、室町通で三宅の家が襲われたろう?」
その言葉に、心臓が一つ跳ねる。
「あの後、何日もしないうちにね。『故郷に帰る』って言って、出て行っちまったよ。」
「故郷…?」
思わず繰り返す。
父がそんな話をした記憶はない。
「京都生まれのはずだが…」
「さあねぇ。でも、うちの人が聞いた時は——たしか、大和だとか言ってたって。」
大和!?
その一言で、胸の奥何かが繋がる。
(…伊賀か)
それ以上は、言葉にしなかった。
「そうですか。ありがとうございました。」
踵を返そうとした、そのとき。
「あ、ちょっと待ちな!」
お萬がぱんと手を打つ。
「すぐ戻るから!」
そう言って長屋に駆け込み、中をがさごそと探り始めた。
しばらくして戻ってきたお萬は、小さな革袋を抱えていた。
見た目より、ずしりと重そうだ。
「まったく、こんな重たいもん…」
ぶつぶつ言いながら、樹之助の足元に置く。
がちゃり、と金属が触れ合う音がした。
「…これは?」
「樹三郎さんからだよ」
お萬は腕を組み、少しだけ声を潜めた。
「あんたが戻ってきたら、渡してくれってさ」
樹之助は、ゆっくりと袋に手を伸ばした。
紐を解く。
口を開く。
鉄の匂いが、立ちのぼった。
覗き込んだ瞬間、息が止まる。
忍び装束。
カギ爪。
サイ。
棒手裏剣に、苦無。
見慣れているはずのそれらが、まるで別物のように感じられた。
(これを、俺に?)
手が止まる。
一度、袋を閉じかける。
だが——
指先が、離れない。
「その時ね」
お萬が、そっと耳打ちした。
「あんたら親子の稼業、聞かされたよ」
思わず顔を上げる。
お萬は苦笑した。
「別に驚きやしないさ。あの人、変わり者だったしね。」
くすりと笑う。
「ただね」
少しだけ、真顔になる。
「あんたが、いずれ必要になる時が来るってさ。」
短い言葉だった。
だが、それで十分だった。
父が何を思ってこれを残したのか。
すべては分からない。
「風の忍びの伝承は、親父までにしてくれ!」そう言ったはずだ…
それでも残された忍び道具——
(逃げるな、ってことか…)
脳裏に浮かぶ父と言葉を交わした最後の夜。
樹之助は袋の口をしっかりと結び直した。
「無用の長物だけど…」
袋を肩に担ぎ、お萬に深く頭を下げる。
「いずれ、改めてご挨拶に来ます。」
そう言って背を向ける。
通りへ向かって歩き出す。
その背に、お萬の声がかかった。
「気兼ねなんかしなくていいよ。いつでもおいで!」
少し間を置いて、続ける。
「三宅を恨んでたのは、あんたらだけじゃないんだからね!」
ぞくり、とした。
足が止まる。
(…知っているのか?)
ゆっくりと振り返る。
だが、お萬の姿はもうなかった。
長屋の戸は、静かに閉じられている。
通りに出る。
昼のざわめきが、やけに遠く聞こえた。
樹之助はしばらく立ち尽くし——
やがて、軽く首を振り歩き出した。




