第49話 隣人
ある日のこと、千代が朝起きて玄関を掃き清めていると、隣家の貞が水汲みに出てきた。
「おはようございます。」
快活に挨拶するが、貞はチラリと一瞥し、小声で「…おはようさん」と言い、そそくさと立ち去って行った。
千代は小さくため息をついて家に入ろうとした時、向かいの油紙・和傘問屋の商人升屋清兵衛夫妻と同居する嫁のお袖が出てきて物陰に千代を引っ張った。
「気にしたらあかんで。与兵衛はんと貞はんとこにもちょうどあんたらくらいの息子夫婦一緒に暮らしとったんや。そやけど、原因はようわからへんけどなぁ、一昨年突然仲違いしたやらで、息子夫婦と孫娘出て行ってもうたんやわぁ。。」
千代は初めて聞く話に目を丸くしている。
「以来二人とも塞ぎ込んでもうてな。特にうちらみたいな若夫婦は息子夫婦を思い出すのか、特に風当たりが強なってもうてな。ええ迷惑なんやわぁ。」
そこまで言うと、お袖の家の方から声がしてきた。
「お袖!どこ行った?松太郎泣いてるぞ!」
「あ、旦那呼んでる。まったく子供をあやすくらいできひんのかね?これやさかい男ってやつは…」
そう言いかけてお袖はペロっと舌を出した。
「あかん。甘い新婚はんにはまだ聞かしたあかん言葉やな。そやさかいさ、お隣の事はあんたらだけに取ってる態度とちがうさかい、気にしたあかんえ。」
そう言って背を向けるお袖に、さらに家の方から声がする。
「お袖!?おい、どこだ!?」
「ハイハイ!今行くで~!」
なんだか微笑ましい。
そう思いながら、千代は家の中に入って行った。
10月の末、京の町が大風に見舞われた。
あたりは家の瓦が散乱し、商屋の看板があちこちに飛んでいき、ゴミやらも散乱して酷いありさまだった。
風が去った後、町内は総出で片付けをしていた。
幸い樹之助と千代の家は大きな被害はなかった。
樹之助は近所の男衆と、長屋から鬼松らの手も借りて、壊れた家の修復や、瓦礫などの後片付けに精を出していた。
一通りの作業を終えて、樹之助が自宅前に戻ってきた時、向い家のお袖の亭主松吉が上を見上げて呟いている。
「ひでぇな、あれ」
松吉の視線の先は、樹之助の家の隣、与兵衛と貞の家だった。
与兵衛の家の屋根は風でめくれて大穴が開いている。
「この風の後や。大工も皆出払うてるし、ちょっとやそっとで直せんで」
松吉の父、清兵衛も出てきて呻いている。
「俺達でなんとかしてやろうか?」
樹之助が言うと、清兵衛が力なく首を振った。
「与兵衛はんにはさっきそう言うたんやけどな、『他人のほどこしは受けん!』って言うて、追い返されたんえ。」
「そやけど、今夜雨ふるで。」
松吉が黒い雲を遠くに見て呟いた。
すると与兵衛が玄関から出てきた。
「与兵衛はん、今夜雨降るで。悪いことは言わへん。とりあえず穴塞ぐだけでもわし達にやらしておくれやっしゃ。」
近所の男衆が声掛ける。
「いらんおせっかいじゃ。わしら夫婦のことは放っときなはれ!」
そういうとどこかへ出かけてしまった。
――その夜
「降ってきたな...」
樹之助は横で寝ている千代に小声で言った。
「うん。与兵衛さんとお貞さん大丈夫かな」
「いや、あの屋根のめくれ方じゃあ、家内どこにいても濡れちまうぜ。しかも十月の雨は冷たいからな...」
「このまま放っておいていいのかな...?」
千代が泣きそうな声で樹之助の胸に顔を埋める。
樹之助はしばし沈黙した。
ただでさえ危ない屋根上の作業。
しかも暗くて足場は濡れて滑る。
とんでも無く危険な作業だ。
(俺ならできる。いや、俺しかできないだろうな...)
樹之助は決心した。
「千代、俺行ってくる。これは忍びの俺しかできないことだ。」
千代も樹之助の身を案じているが、隣の老夫婦を思うと樹之助に頼るしかないと思っていた。
「がんばって、あなた...」
千代の柔らかい唇が樹之助のそれに触れる。
「あぁ。千代にかっこいいとこ見せないとな。」
「ううん。いつでもかっこいいですよ。私の旦那様…」
そう言うと二人は笑い、起き上がり身支度した。
笠をかぶり、蓑を着て樹之助は外に出た。
すると、隣の与兵衛が梯子を持ち出して屋根に上ろうとしている。
「無茶だ!与兵衛さん!その歳で、雨で滑る屋根に上がるなんて!」
「またあんたか。しつこいな。うちの事には口出しするなとどんだけ言うたら!」
すると千代も蛇の目傘を持って出てきた。
「与兵衛さん!うちらが気に入らないならそれでもいいです!でも、貞さんの事も考えてください。無理はしないで。うちの人に任せてください!」
「わしゃもうええんじゃ。隠居して、息子らもいーひんようになって。生きる希望なんぞなんもあらへん。このまま死んでもわしゃ...」
その時背後から声がかかった。
「あんたはん…そないな意地はらんといて、皆はんの好意に甘えまひょ…うちらが意地張ってることで皆はんにもこないな迷惑をかけてます。」
樹之助が振り向くと、いつの間にか近所の住民が十数人、集まってきていた。
「与兵衛はんよ。あんたが若いころ、うちらもえらい助けられたんや。」
「そうや、その恩返しさしてくれや」
「ほらお貞はんは、うち来て温まりーな。雨に濡れたんやろう。」
与兵衛もついに涙を流しうずくまった。
「みんな…すまん。わしは、息子らに出て行かれて、人なんて信用ならんって、勝手にそう思てもうた。そやけど、そやけど、ここいらの皆は、あったけぇな...」
目頭を押さえる与兵衛に、向かいの清兵衛がその肩に手を添えて言った。
「よし、後はまかせ。与兵衛はんも貞はんもうちに来て休んでな。」
皆の顔に笑顔が戻った。
暗がりの中、男たちは協力し合い屋根を直していく。
女たちも松明をたくさん用意し、辺りを照らす。
中でも樹之助の働きは別格だった。
雨をものともしない足取りで屋根の上を走り回り、下から上げられる修理用の板をはめ釘を打つ。
近隣の住民も目を見張っている。
「あんさん、古の忍びかなんかか?」
「うちとこの大工として働いてくれや。普通の職人の倍出すで」
そんな声が上がる。
千代も松明を持って必死で樹之助の動きを目で追っている。
近所の女連中が千代の元に来て声かける。
「あんたの亭主すごいじゃないか。」
「かっこいいね~。」
「惚れ直しただろう?」
そう言われると、千代は照れることなく
「はい。心底惚れ直しました。」
と泣き笑いで答えた。
誰もそれを冷やかす者はいなかった。
一刻あまりで修繕は終わった。
与兵衛と貞は改めて町内の皆に深々と頭を下げた。
「皆はん。特に新たにお隣に来られた樹之助はん、千代はん。これまでの非礼、平に御容赦しとぉくれやす。皆はんの温情でわしらは生かされてると再確認できました。これからも何卒よろしゅうおたの申します。」
皆歓喜の拍手だった。
東の空が少し明るくなり、雨も小降りになっていた。
ずぶ濡れの樹之助を千代は誇らしく見つめていた。




