第48話 井戸端会議
樹之助と千代は新居に移り住んで早々、連れ立って近所にあいさつして歩いた。
その際千代は、お滝から習ったふろふき大根を作って配った。
「おや、若いのに気ぃきくなぁ。」
と近所の評判も上々だった。
ある家では、「おや、あんさん祇園の裏影...」と樹之助の稼業を口走る者もいた。
樹之助は慌てて目くばせする。
「シッ。ここでは用心棒位にしておいてくれ。」
「せやな。裏やら言うたらなんか怪しい奴思われそうやもんな。えろうすまんの…」
そんな会話もありながら、樹之助達は少しずつ近所に馴染んでいった。
だが、一軒だけ、隣の与兵衛と貞の夫婦は、挨拶に行ってもロクに話も聞かず、「ハイハイ、よろしゅう。」と追い払うように戸を閉められた。
「お隣さんなのに、なんか気まずいね...」
千代が寂しそうに呟く。
「仕方ない。世の中には気の合わない人間は必ずいる。無理に立ち入って、これ以上不快な思いをさせないよう気を付けよう。」
樹之助は千代が落ち込まないよう明るく話す。
「うん。そうだね。」
千代もそのことはあまり考えないようにした。
数日後、朝の井戸端。
近所の女達が朝の支度で賑わっている。
「ちょいお千代ちゃん。これご亭主と食べーな。」
二軒隣の未亡人竹はいつも何かと世話を焼いてくれる。
「いつもすいませんお竹さん。でもお竹さんの作るものなんでも美味しくて、私も樹之助さんもすぐ食べちゃうんですよ。」
と千代は誰に対しても笑顔を絶やさない。
「そう言うてお千代ちゃんの笑顔見ると、また作りとうなってまうんやんな〜」
「やった〜、またお願いしますね。」
千代の魔性の微笑みは男だけじゃなく、同性にも通用するようだ。
「そやけどな、あんたら夫婦なんやさかいもう樹之助はんってのも他人行儀じやあらへんかい?」
千代はそういわれて首を傾げる。
「そうですか?皆さん何とお呼びしてるですか?」
居合わせた女達が口々に話す。
「ウチはアンタ」
「ウチはお前さん」
「うちんとこはちゃんと旦那様って呼んでんで」
「そら稼ぎがええさかいやろ」
皆の笑い声が溢れる。
千代はこんな平凡な日常が心底かけがえのないものだと思っていた。
「そやけどええやん、ウチかて新婚の頃は信輔様って呼んどったで」
「そやなあ。みんな初めはそうやけど、いつから変わってまうんやろうな?」
「そら子供ができてからやろうな」
「あぁ、やっぱしね。ウチも信輔様がおとんになったわ。」
また皆で爆笑。
「千代ちゃん、稚児はまだかい?」
おばさん達は遠慮がない。
千代は顔を赤らめ
「早く欲しいんですけど、こればっかりは…」 と俯いている。
「よし、あとで樹之助にマムシをつけた焼酎届けたるわ!それ飲んだら一発やわぁ〜!」
「あ、いえ、大丈夫です…そんなの飲まなくても、樹之助さん、げ、元気なんで…」
千代は茹で蛸のように真っ赤になっている。
おばさん達の容赦ない口撃は続く。
「そらまだ若いもんね。どんだけでもできるわよね!」
千代は限界だった。
「す、すいません、失礼します…」
そういうと、水桶を抱えて逃げるように走っていった。
おばさん連中は大声で笑いながら、千代の後ろ姿を見送った。
「かいらしい娘やな〜」
「うちにもあないな頃あったね~」
「そらあ誰かてはじめからババアとちがうさかいな。」
女たちの井戸端会議は延々と続いていた。
水桶を抱えて逃げ帰った千代は、戸を閉めるなり、その場にしゃがみ込んだ。
「もう、やだ……」
井戸端の女たちの笑い声が、まだ外から聞こえてくる。
樹之助は部屋の真ん中で胡坐をかき、内職の草鞋を編んでいたが、千代の様子を見て声を掛けた。
「どうした?追剥にでも遭ったみたいな顔して」
「追剥よりひどいです……」
千代はため息をついた。
「ご近所の皆さんです。」
「そりゃあ手強い相手だな」
樹之助は肩を揺らして笑う。
千代は立ち上がり、水桶を台所へ置くと、むすっとしたまま戻ってきた。
「笑い事じゃありません。」
「で、何言われたんだ」
「樹之助さんのこと、なんて呼んでるのかって。」
樹之助は一瞬きょとんとし、それから吹き出した。
「はは、そりゃ大問題だ。」
「皆さん、アンタだのお前さんだの旦那様だの……好き勝手おっしゃって。」
千代は俯きながらボソボソと話続けた。
「それで私、考えてしまって…」
「何を?」
「私は…あなたを、なんて呼べばいいのかって。」
樹之助の手が止まった。
「今なんて言った?」
「ですから、なんて呼べば…」
「いや、そこじゃなくて」
樹之助はにやりと笑いながら千代の方にぐいと首を伸ばした。
「今、“あなた”って言ったろ」
千代はハッとして、みるみる顔を赤くした。
「ち、違います! 今のは、その、言葉のあやで…」
「へぇ。いいじゃない、あ・な・た!」
「やめてください!」
樹之助は腹を抱え笑い転げている。
「真面目に聞いてください!」
千代は唇を尖らせ、近くにあった手拭いを投げつけた。
「いてーっ!こりゃ重傷だ」
樹之助は額に手拭いを当て、大げさに転げまわる。
千代は思わず吹き出したが、すぐ顔を引き締めた。
「ちゃんと答えてくださいよ~。」
その声に樹之助は起き上がり、座り直した。
「別に今まで通りでいいだろ。樹之助さん、で」
「でも、他人行儀だって…」
「他人行儀かね?俺は千代に丁寧に呼ばれるの、嫌じゃないぜ。」
その声音がやわらかく、千代は落ち着きを取り戻す。
樹之助は、少し照れくさそうに鼻を掻いた。
「アンタとか雑に呼ばれるより、大事にされてる気がする…」
千代の胸が、きゅっとした。
しばらく黙って俯いていたが、やがて小さく口を開く。
「…じゃあ、二人きりの時だけ、違う呼び方でも…いいですか。」
「お?」
「……その」
千代は蚊の鳴くような声で言った。
「……あなた、って」
樹之助は今度こそ固まった。
「…………」
「な、なんですか、その顔!」
「いや……」
樹之助は視線を逸らし、咳払いした。
「ちょっと照れくさいな…」
千代はきょとんとして、それからくすりと笑った。
「では決まりです。」
「何が?」
「人前では樹之助さん。二人きりの時は……あなた。」
「勝手に決めたな。」
「嫌ですか?」
千代が上目遣いに覗き込む。
樹之助は照れた笑みを浮かべた。
「嫌じゃない…」
千代は嬉しそうに笑い、立ち上がって台所へ向かった。
「あなた、朝餉できてますよ。」
「おい、もう使うのか!」
「だめですか?」
「だめ…じゃない。」
樹之助は頭を掻きながら、赤くなった耳を隠すように顔を背けた。
路地の外では、まだ井戸端の女たちの笑い声がしていた。
だが二人の家の中にも、それよりずっとあたたかな笑い声が満ちていた。




