第46話 千代
陽が高くなる頃、小夜は決まって樹之助の長屋へやって来るようになっていた。
小夜はもう遊女をしていない。
人手が足りない時は、座敷に出るが客を取ることはなかった。
昼間はお滝が奥で料理を教えている。
小夜も花嫁修業として張り切っている。
昼は長屋で樹之助と過ごし、夜は互いにそれぞれの場所で働く。
そんな日常が定着しつつあった。
「なぁ、小夜は遊女としての名だろ?これからは千代って呼んだ方がいいのかな?」
樹之助が何気なく聞く。
小夜は一瞬小首を傾げ、屈託のない笑顔で答えた。
「樹之助様が呼びやすい方でいいですよ。」
そう言われても、樹之助は本人に向かっては小夜としか呼んだことがない。
でも小夜と言う名は、遊女時代を思い起こさせるような気がする。
樹之助は少し考えた。
そして決めた。
「千代…やっぱり俺だけが呼ぶ呼び方がいいな...」
そう言うと千代も嬉しそうに笑った。
「私も、樹之助様だけに呼ばれるのが嬉しい...」
そう言うと顔を真っ赤にして照れている。
すると、玄関の引き戸が開き、いつもの三人が入ってきた。
「千代ちゃん、いい名だね~」
「お前らまた聞いてたな~!」
樹之助が怒気を見せると、与太八が
「そりゃしょうがねぇよ。こんな薄い壁板一枚で仕切られてるだけなんだ。聞きたくなくたって聞こえるってもんでさぁ。」
とにやけながら答える。
「俺たちだって、二人の甘ーい会話聞いてるとむず痒くなってくるんだぜ。」
鬼松もニヤニヤしながら冷やかす。
千代はもう恥ずかしさで耳まで真っ赤にしている。
「お前ら、もういい!帰れ!」
樹之助が言うと、鬼松がなだめる手つきをしながら口を開いた。
「まぁまぁ、そう怒るなって。俺たちからのささやかな祝いがあるんだよ。ついてきな。」
そう言って三人は外に出た。
樹之助と千代も顔見合わせながら、おずおずとついていく。
長屋通りを抜け、三条の表通りに出た。
それを横断し、反対側の一角は住宅が立ち並ぶ一帯に入る。
少し奥まった通りの突き当たり、小さな一軒の平屋建ての家の前に立った。
「どうだ。ここが二人の新しい住処だ。」
三人が誇らしげに胸を張る。
「え、どういうこと?」
樹之助も千代も訳が分からない。
「まぁ、いいから入れ!」
間口二〜三間で奥に細長い作りだが、部屋は
二部屋あり、台所もある。
「わぁ、凄い!」
千代が嬉しそうな声を上げる。
「一体どうしたんだよ、ここ?」
樹之助が聞くと、与太八が種明かしした。
「実は山城屋の旦那からのご祝儀なんだよ。俺たちがアニキが所帯持つって話したら、新婚であんな長屋なんて御新造さんが可愛そうだろって。宵待のお滝さんからも、山城屋の旦那に話があったみたいだけどな。」
樹之助は皆の気持ちが嬉しかった。
「あ、家賃は本来ひと月三貫文のところ一貫文でいいって、山城屋の旦那…」
「ちぇ、やっぱ金取んのかよ...」
そう言うと皆爆笑した。
「ここなら長屋も通り挟んですぐだから、いつでも来れるな。」
鬼松が言うと樹之助が慌てて遮る。
「それじゃ引っ越す意味ないだろ!」
「俺たちと縁を切る方が寂しいだろう?」
与太八が樹之助の肩に手を回して言ってくる。
「そういうことにしといてやるよ...」
諦め顔でそう言っているが、樹之助も嬉しそうだ。
ふと見ると千代が泣いている。
「どうした千代?何か不満か?」
皆心配そうに千代をみる。
「…違うの。こんなに、幸せでいいのかなって…あんな、三宅の家に連れていかれてからここまで、私...」
千代はここまで常に自分の意思など無い所で生きてきた。
それが自分の人生なのだと思っていた。
それが、今は、好いた男と一緒になれて、素敵な仲間が祝ってくれて、ささやかながらこうして家まで提供してもらえた。
望外の幸せに、千代は逆に不安になった。
「こんなに幸せで、なにかバチがあたりそう...」
そんな千代の純粋な涙に男達ももらい泣きした。
みな、少なからず社会の底辺で苦労して生きている面々だ。
そんな千代の気持ちが痛いほどわかる。
「嬢ちゃん、バチなんて当たらねぇよ。これまで苦労してきたことの報いだ。これから樹之助に一杯幸せにしてもらえ!」
鬼松が言うと与太八も岩蔵も満面の笑みを千代に向けた。
「樹之助の荷物なんて少ないんだろ?早速引越ししようぜ。」
鬼松らが樹之助の荷物を取りに出て行った。
「なんとも、ありがたいおせっかいやきだな...」
樹之助も頬を濡らしながら千代に語りかける。
「うん。みんなあったかい人達...」
「みんなの期待に応えて幸せになろうな。」
樹之助が言うと「うん」と言って千代が抱きついてきた。
樹之助はその体をしっかりと受け止めた。
やがて、樹之助の荷物を大八車に乗せ、三人が帰ってきた。
だが、荷物を入れるその前に、与太八が青ざめた顔で飛び込んできた。
「み、壬生浪の親玉が、殺されたって!」
「壬生浪の親玉?あの芹沢か!?」
樹之助は直ぐに信じられなかった。
とてつもない気を発する怪物がそんな簡単に…
(土方、沖田…)
樹之助の胸の内に二人の顔が思い浮かんでいた。




