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第26話 伊勢

父と別れた樹之助は、途中見晴(みはらし)からの眺望を眺めた。


それは、父と再会しその思いを受け継いだ今、初めて眺めたときよりずっと晴れやかに見える。


(俺は石川樹三郎の息子。当代の石川ゴエモン。そして...)


父から譲られた家宝の脇差を握りしめる。


「風の忍びだ!」


やっと自分が何者かがわかった。


でも今の時代に自分の役割までわからない。


だから今は


(俺が知らない多くのものを見聞きしよう。そして俺自身の正心を作り上げるんだ。)


視線の先はまだ見ぬ伊勢へと繋がる街道。


「せっかく生まれて初めてここまで来たんだ。『一生一度はお伊勢さん』に乗っかってみるか!」


そう思い立つと樹之助は、京都方面と反対方向に歩を進め始めた。


伊賀から伊勢までは樹之助の脚なら一日足らずだった。


幕末の頃の伊勢神宮門前は、もはや一つの巨大な市であった。


全国から老若男女が押し寄せてくる。


誰もが「一生に一度は伊勢参り」と口にするが、そこにあったのは信心ばかりではなかった。


いわば人生最大の娯楽。


参道には茶屋が軒を連ね、見世物小屋まで建ち、売り子が声を張り上げている。


「さあさあ寄ってらっしゃい、見てらっしゃい!旅の思い出、伊勢土産はいかが!」


人波は途切れない。


樹之助は人混みの中、河内屋の看板を見つけた。


(少し路銀が心許ないし、下ろしていくか)


暖簾(のれん)をくぐる。


「いらっしゃーい!」


丁稚(でっち)の声が飛ぶ。


「金を引き出したい」


「へーい、証文お持ちで?」


懐から取り出した証文を見た瞬間、丁稚の顔色が変わった。


「し、しばしお待ちを!」


番頭へと駆け寄る。

二人は小声で何事かをやり取りしながら、ちらちらと樹之助を窺っている。


やがて番頭が、作り笑いを貼り付けて近づいてきた。


「お客さん、えろうお待たせしました」


「証文の額と俺の身なりが釣り合わないって顔だな。どこぞで盗んだとでも思ったか?」


番頭の笑みが一瞬固まる。


「い、いやいや滅相もない。ただ、万が一ということもございますれば…」


樹之助はわざと声を張った。


「いいぜ。店主の河内屋新八郎に聞いてみろ。」


「て、店主?新八郎…?」


番頭の顔が引きつる。

こんな若造が店の大旦那を知っているなんて。


(この若造が大旦那の知り合いとも思えんが、万が一本当だったら…)


一瞬の逡巡を見せる番頭。


そこへ樹之助が肩の力を抜き声をかける。


「一両でいい。全部下ろす気はねえ。後で面倒になるのも嫌だろ?」


(それくらいなら騙されたとしても何とかなる...)


番頭は即座に判断した。


「何してる!さっさとお客様にお出ししろ!」


金を差し出し、深々と頭を下げる。


(商人ってのは、ほんと(たくま)しいな……)


樹之助は苦笑しながら店を出た。


夜になっても、町の熱は冷める気配がない。


灯りが連なり、笑い声と喧騒(けんそう)が途切れない。


樹之助は人波の端を歩いた。


「さてと…どこか泊まれるところは…」


旅籠の札は見えるが、どこも満杯だ。


そのとき


「旦那、今宵のお宿はお決まりで?」


声をかけられた。


振り向くと、四十がらみの男が柔らかく笑っている。


「まだだ。どこも混んでてひどいな。」


「それは難儀なことで。」


男は軽く頭を下げた。


「うちは御師宿(おんしやど)でして。お泊まりから明日の御参りまで、まとめてお世話いたしますがいかがです?」


「御師宿?」


聞き慣れぬ言葉に、樹之助は眉をひそめる。


「なんだそれ?普通の宿と違うのか?」


「伊勢独特のお宿でさぁ。外宮さん内宮さんの参り方、道順、作法。初めての方でも滞りなくお参りできますよう、手前どもが取り計らいます」


「へえ」


樹之助は男を値踏みするように見た。


(親切そうだが…商売人だな。)


「で、いくらだ」


「一晩とお食事、参りの世話込みで三百文ほど」


「三百か……」


安くも高くもない。


男は声を落とした。


「お(ふだ)はお気持ちで」


「あとで上乗せって腹か」


「はは、伊勢はそういうところでございます」


悪びれない。


樹之助は一瞬だけ考えたが、やがて肩をすくめた。


「まあいい。どうせ他は埋まってる」


顎で先を促す。


「案内しろよ、御師さん」


「へい、ようこそ」


男は人混みの中へと歩き出した。


(伊勢神宮。俗世と隔たれた変わった場所だな...)


樹之助は不思議な感覚に駆られていた。


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