第25話 分かれ道
十日の間、樹之助は平成の里の神社にて待った。
父が我が記憶を封印するため洞穴に籠る時、錯乱して出てこぬよう、樹之助が外から錠前を掛けるよう言われた。
忘失の儀
伊賀で術を封じる儀として伝わっているが、戦国の頃を最後に行われたことはない、と勘助が言っていた。
一体父はどうなってしまうのか...
一人で受け止める自信が無かった樹之助は、開放の日勘助に同行を願った。
勘助は快く引き受けてくれた。
当日、勘助だけではなく日向も来た。
「もし介抱が必要な状態なら」と自らすすんで来てくれたという。
「行くか?」
勘助が言うのに無言で頷く樹之助。
さすがに三人娘は付いて来ていなかった。
竜光の滝の洞穴
樹之助は、鉄の格子戸にかけた錠前をはずす。
あの三宅邸襲撃の時に嗅いだのに似た残り香が、辺りに充満していた。
「忘沈香の作用がまだ残っているかもしれん。これを咬んでおけ。」
勘助が覚醒用の木片を一本ずつ樹之助と日向に渡した。
格子戸を開け中に入るや、勘助が足を止める。
「見ろ...」
そう顎で指した先には、壁の石を掻きむしった爪跡が無数についていた。
「きっと、錯乱して必死で出ようとしていたのであろう...」
樹之助は最後に見た父の穏やかな顔と真逆の、苦痛に歪む顔を想像し胸が痛んだ。
日向は口に手を当て、涙を堪えている。
そのまま、ゆっくり先へ進む。
やがて、ほのかな明かりが見えてきた。
樹之助が来た十日前と同じところに火を焚き、樹三郎は静かに座っていた。
入ってきた三人に気付くと、力無い目でにんまりと笑い、無言で手招きしてきた。
三人はされるままに近寄り、樹三郎の顔を覗き込む。
「俺がわかるか?樹三郎...」
樹三郎は顔を勘助に向け、ジッと見た後にっこり笑い、静かに首を振る。
そして虚ろな視線で虚空を見上げ、
「樹三郎…俺は…樹三郎というのか?」
と自問している。
そして勘助に聞いてくる。
「あんた...俺の事知っているのか?」
人懐っこい顔で問いかけてくる樹三郎に勘助の感情が爆発した。
「もちろんだ!俺たちはガキの頃から一緒に育った友じゃないか!俺は勘助!知っておろうが!」
勘助は泣きながら樹三郎に語りかける。
「…かんす…け?」
シゲシゲと勘助の顔を見るが、頭を掻きながら
「すまんのぉ。俺はどうやら阿呆になっちまったみたいだ...昔のことは何も覚えとらん。」
そう言いながらも樹三郎はニコニコと笑っている。
当世一の忍びが、自らを律した成れの果て...
樹之助は悲しみと同時に、父の忍びとしての矜持を感じ入った。
不意に樹三郎と目が合う。
樹三郎は身を乗り出して樹之助を見ている。
「何か思い出したか?」
勘助が慌てて問う。
「いい目をしている。真っすぐで澄んだ目だ。」
樹之助から視線を外さず、にこやかに頷いている。
樹之助も涙が溢れた。
「あなたが…あなたが守ってくれたんです......」
嗚咽交じりにそう言うと、樹三郎は首をひねっている。
「俺が…?君を...?」
そんな二人の光景を、日向は少し下がったところから見つめていた。
若いころから闊達で、誰より強く頼りになった当世一の忍び。
勘助に否定したが、若いころは日向も樹三郎に憧れた時が確かにあった。
そんな偉大な男が、今只の好々爺のようになり果てている。
あまりに悲しく、寂しい姿だった。
日向が嗚咽しているのに気付いた樹三郎が、一歩、二歩近づいてくる。
そしてその顔を覗き込むように見つめた。
日向は両手で顔を覆うようにしていたが、樹三郎がそれを力づくではがした。
そして、その顔をマジマジと見つめると、驚くべき一言を発した。
「菊…ちゃん…?」
樹之助も勘助も驚き振り返った。
「菊ちゃんやろ?ちょっと面変わりしたようだけど、俺もなんだか昔のこと全くわからんくなっちまって…」
嬉しそうにそう言う樹三郎。
日向はどうしたらいいかわからず、勘助の方に視線を送る。
勘助は頷き、そのまま菊として会話しろと促した。
「そ、そうよ。樹三郎さん。家族のこととか里の事とか、何か覚えてる?」
日向がそう聞くと、
「それが…さっぱりなんだ。菊ちゃんのことも顔と名前しかわからんのよ…俺は一体どうなっちまったんだ...」
と呻きながら自分の頭を小突いている。
全てを無くしたと思われた樹三郎だが、母のことだけは覚えていた。
(記憶の一片が残っているのであれば、いつか俺の事も思い出すかもしれない)
もはや父に忍びとしての修羅場に戻ってほしいわけではなかった。
今、憑き物が落ちたように柔らかな微笑をたたえている父が、せめて家族の事を思い出し、穏やかな余生を過ごしてほしい。
樹之助の思いはそれだけだった。
その後、三人は洞穴を後にし、平成の里を抜け見晴まで戻った。
ここから樹之助と勘助らは別れる。
「さすがに今の樹三郎と日向を連れてあの山道を行く訳にいかないからな。街道をゆっくり帰るとするよ。」
「後の事は任せてね。樹三郎さんに何か変化があったらきっと知らせるわ。」
樹三郎は勘助が世話してくれると言う。
荒れた京に戻るよりそれがいい、と樹之助も思った。
「何から何までお世話になりっぱなしで...」
「何を言う。これでも百地忍びの頭領だぞ。そのくらいの甲斐性あるわい。」
そう言って笑う勘助と日向に
「父をよろしくお願いします」
と樹之助は深々と頭を垂れ、くるりと踵を返す。
行く先に何が待ち受けているかは見当もつかない。
だが、父から受け継いだ風の忍びの矜持は、その胸にしっかり備わった。
その時、不意に樹三郎が樹之助の背に向けて声を掛けた。
「頑張って!な...」
驚き振り返った樹之助は、じっと父を見つめた。
その目に映ったのは、幼いころ修行する樹之助を慈愛の籠った目で見守ってくれていた、あの頃の父そのものだった。
「父さん!達者でな!」
樹之助は大きく手を振り父と別の道を歩みだした。




