第22話 父の正心
「父は、来たんですよね!ここに!」
樹之助が問い詰めると、日向がそっと答えた。
「えぇ。来たわ。菊の遺骨を持って…故郷で眠らせてやりたいってね...」
それを聞き、樹之助は我が身を恥じた。
父に反発して家を飛び出し、母の葬儀も、その後の事も一切関与していなかった。
(俺と違って親父はちゃんと母さんのことを考えている...それに比べて俺は…)
唇を噛み締める樹之助に、日向が優しく微笑みかける。
「男の子はね、それでいいのよ。自分の思った道を真っ直ぐ進めばね。」
まるで母が背中を撫でてくれているようだった。
「後で行きましょう。菊のお墓…」
また涙が溢れてきた。
「それで、樹之助。樹三郎に会ってなんとする?」
「俺は…親父とちゃんと向き合っていなかった。俺はこんな時代の忍びとしてどう生きればいいか。まるで分らない。親父は京で何をしていたのか。何も知らないんだ...」
その言葉を聞き、勘助は一つ嘆息した。
「なぁ、樹之助。お前は正心という言葉を知っているだろう?」
もちろんだった。
その言葉の呪縛のせいで、母は亡くなったと思っている。
樹之助は思いのたけを勘助にぶつけた。
「…やはり、な」
勘助が日向に向かって言う。
日向も勘助に相槌をうつ。
「やはりってなんですか?」
「正心という言葉。頑なに守っていたのは、樹三郎ではなく...菊なんだよ。」
「!」
樹之助が目を見開いている。
「そもそも正心という言葉がいつ、何のためにできたか…」
勘助は腕を組み、遠くを見る目で語り出した。
「それはな、戦国以前、伊賀に忍びが何千何百といた時代、伊賀者は各地の大名や有力者と結び、様々な仕事を請け負っていた。」
それは樹之助も知っていることだ。
「それだけ多くの忍びがいると、中には道を踏み外す者が出てくる。我らの技術は悪用すれば何でもできる。故に、己を厳しく律し、己が感情に任せて忍びの技術を濫用しないよう戒めるために作られた言葉が“正心”という言葉よ。破った者は見せしめに制裁を受けた。」
「でも、その言葉に縛られ身近な悪を許すことは本当に正義なのか!?」
樹之助の口調が荒くなる。
「ふ、樹三郎も同じことを言っていたよ。」
「親父が!?」
あれだけ樹之助が言っても動かなかった父が、まさか?
「樹三郎が最後まで動かなかった訳は…菊だ。お前の母さんが最後まで正心を守り、私怨で動いてはいけないと樹三郎に言い続けていたんだ。」
樹之助は驚きで言葉も出ない。
「だから、妹が最期にあなたに残した言葉…『どんなに苦しくても、人の道に背いてはだめよ』…菊らしいと思ったわ。」
日向が目頭を押さえながら呟く。
「俺はな、樹之助、正心なんてものは、時代と共に変わるし、人によっても変わると思っているよ。」
樹之助が顔をあげる。
「お前の父は、お前に代わって悪徳商人を処罰したんだろ?これを私怨と言えば、正心に背くことになるが、親が子を守り、周りの苦しんでいる人を救う。俺はそれを正心に反するとは思わん。」
「菊は真っ直ぐな子だったから、自分の為に夫や息子が人を殺めるなど耐えられなかったはず。だから樹三郎は、菊が生きているうちは手を下さなかったのでしょう...」
「それなら、言ってくれればよかったのに...」
樹之助は思わず言葉を漏らす。
「…息子の手を汚したくなかったんだろうよ。」
樹之助は今更ながら父の思いを理解し、心がざわつく。
「樹之助。樹三郎が京にあってどういう仕事をしていたか知っているか?」
「いいえ。三宅に追い出されるまでは、養生所をやってましたが、長屋暮らしになってからは、日雇いの掛け持ちで...」
「ふ、それは表向きの仕事な。俺の言っているのは、忍びとしての働きだ。」
「忍び働き?親父はそんなこと...」
言いかけた時、“宵待”の女将お滝の顔が浮かんだ。
『樹三郎には何度も助けられたんだよ。役人なんかに言えない裏の問題を、あの人は解決してくれた…』
お滝が言った言葉…
「…見守り?町の...」
勘助が頷く。
「それが樹三郎の正心だ。」
樹之助はようやく父を理解した。
父は古い正心に凝り固まっていたわけじゃない。
ちゃんと自分の正義を持ち、それに恥じない働きをしていたのだ。
ただ、母の想いは誰より大事にしていた。
そして息子の行く末も案じ、自分が全て被ったのだ。
涙が出た。
(俺は、父にも母にも守られていたんだ…)
樹之助は拳を握りしめる。
(俺は、どう生きる)
父のように、名も残さず人を守るのか。
母のように、何があっても道を違えぬと貫くのか。
違う。
そのどちらでもない。
(俺は、俺の正心を見つける...)




