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第2話 親子

文久二年 樹之助(きのすけ)十六の秋。


「母ちゃん、薬持ってきたぜ。」


樹之助の母”菊”は春から病の床につき、滅多に起き上がれなくなっていた。


医師に診せる金もない…


「樹之助…、どこいらで盗んできたのではなかろうね?」


弱々しい声だったが、その目は厳しかった。


「当たり前だろ。母ちゃん、盗んだもんなんか絶対口にしないからな。」


そう言って笑う我が子が、ただただ愛しい。

菊にとって、その笑顔だけが生きる支えになっていた。


「宗閑のじっちゃんに聞いたらよ、母ちゃんの病には鉄を含んだ野草が効くっていうんだ。生えてる場所も教えてもらってさ、取ってきた。」


「まぁ……どこまで行ったの?この辺にそんなもの生えているところなんてないでしょう。」


「西の山越えた先だ。崖のとこに生えてるって言うからさ。」


少し得意げに胸を張る。


「危なかったんじゃないのかい……」


「へっ、全然平気だよ。俺は忍びの端くれだぜ。」


その言葉に、菊はふっと微笑んだ。


嬉しかった。

だが同時に、この子の成長を最後まで見届けられぬことが、胸を締めつけた。


「樹之助……ごめんね。あなたにいらぬ苦労をかけてしまって。」


樹之助は首を横に振り、そっと母の手を握る。


「何言ってるんだ。こんなの苦労のうちに入らねえよ。最近は親父の手伝いもしてるんだ。道普請に宮大工の真似事…。三宅の野郎は気に食わねえけど、あんな借金、すぐ返してやる。」


菊は小さく頷いた。


「どんなに苦しくても、人の道に背いてはだめよ……父さん、助けてあげてね……」


言い終えると、菊は瞼を静かに閉じた。


樹之助は眠ったのだと思った。


だが、


母の呼吸が、少しずつ、弱くなっていく。


「母ちゃん…?」


返事はない。


樹之助は母の手を握る。


「母ちゃん!」


息が、途切れがちになる。


「母ちゃん!待ってくれ!親父呼んでくる!」


立ち上がろうとした、そのとき


ぎゅっ


母の手が、かすかに、しかし確かに強く握り返した。


(ここにいて…)


言葉にはならない、最後の願い。


樹之助はその手を両手で包み込んだ。


「母ちゃん!だめだ、いかないで!俺を一人にしないでくれ!」


その声は、誰にも届かなかった。


やがて


静寂が。



樹三郎(きさぶろう)が戻ったのは、それからしばらくしてのことだった。


長屋の誰かが仕事場まで知らせに走ってくれたのだ。


「樹三郎さん…。菊さん、ついさっき…」


隣に住む浪人の女房・お萬が、遺体を清める手を止め、静かに席を外した。


樹三郎は、何も言わず部屋に入る。


横たわる菊の姿。


西日が差し込み、その顔を淡く照らしていた。


まるで眠っているかのようだった。


「…菊」


呼びかける。


返事はない。


そっと手に触れる。


まだほのかに暖かい。


立ち上がることが難しくなったころから、覚悟はしていたつもりだった。


だが、現実的に言葉を発しなくなった妻を見ると、胸が締め付けられる。


「…済まなかったな、菊」


声が震える。


「俺と一緒になったばかりに、こんな苦労を…」


これまで一度も感情を露わにしたことのない男が、初めて涙を流した。


「お前は最後まで誇り高かった…でももう…楽になっていいんだ」


数日、樹之助は家に戻らなかった。


樹三郎には金がない。

葬儀は出せず、馴染みの寺に頼み、なんとか荼毘に付した。


菊が骨となって戻った夜。


樹之助が、ふらりと戻ってきた。


その目は、以前とはまるで別人のように冷えていた。


「親父…」


怒気の籠った低い声。


「母ちゃんを不幸にしてまで、既に死に絶えてる忍びとやらの教えがそんなに大事か?」


樹三郎は答えない。


「母ちゃん一人救えねえ教えに、何の意味がある!他にも近所のじっちゃんやおばちゃん、何人首くくった?何人夜逃げした?親父の技術があれば皆救えただろう!」


沈黙が流れる。


「俺はもうついていけない。風の忍びの伝承は…親父までにしてくれ。」


「…そうか」


樹三郎は湯呑の酒をあおった。


「俺は奴らを許さない。大事なもんも守れねえ“正心”なんて、くそくらえだ。」


樹之助は立ち上がり、衣類を風呂敷に詰め始める。


「お前は自由に生きろ…」


背中越しに、父の声。


「言われなくても...そうする!」


樹之助の拳に力が籠る。


「だがな、正心の教えは、十数代にわたって我が家が守ってきたものだ。」


俯いていた樹三郎が顔を上げ樹之助を見た。


「それは理屈じゃない。もう、お前の血肉になっている。菊の子であるお前には、特にな…」


樹之助の手が、一瞬だけ止まる。


「そうだとしても!」


樹之助は振り返り樹三郎に母がよく使っていた藍染めの手拭いを投げつけた。

樹三郎はそれを避けもせず受け止める。


「俺はやる!正心に背きこの手を汚しても!返り討ちになろうとも!」


そう吐き捨て、樹之助は引き戸を叩きつけて出て行った。


静寂が残る。


「…今生の別れは、あっけないものだな」


樹三郎は呟き、また酒を口に運ぶ。


だが、どれだけ飲んでも、酔いは回ってこなかった。


「菊…あの子の行く末、見守ってやってくれ...」


骨になった菊に樹三郎はそっと囁いた。


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