第16話 山道の先
腕のしびれが限界に達し、もう手を放すしかない状況になった時、猪が悲鳴を上げ茂みに逃げて行った。
「一体、どうしたんだ...?」
樹之助は荒い息を整えながら立ち上がり辺りを見回す。
「いや~危ないところでしたな~」
と声掛けてきたのは、名張でここの事を教えてくれた行商人の男だった。
どうやら石つぶてを投げて助けてくれたらしい。
「…あ、ありがとう…ございました…」
息も絶え絶えに樹之助が礼を言うと、
「この辺りは猪やら猿やら狼やら出ますからな。気をつけなあきまへんで。」
男は近くに落ちていた樹之助の革袋を拾い上げ近づいてくる。
「なんや、ようけ重たいふくろでんな。金目のもんでもぎょうさん入ってるんでっか?」
笑顔でそう言いながら、樹之助の前に袋を置く。
「…いや、親父から譲られた、商売道具でね。」
樹之助はサラリと言うと話題を変える。
「それよりどうしてここに?」
「いや~、兄さんミズコシのこと聞いてたはりましたろ?兄さんが出立した後、ハタと思い出しましてな。」
樹之助が身を乗り出す。
「それ、ミハラシやないかと思いましてな。」
「ミハラシ...?」
「そうです。わても誰かの聞きかじりですがね、兄さんが言うてた方角に、そんな名前の休みどころがあった言う話思い出しましてな。」
男はにこやかに続ける。
「すぐ追いつくだろうから知らせたろ思いまして追っかけてきたんやけど、兄さん足速すぎますわ。」
男は大きな口を開け、あたりにこだまする声で笑った。
そして笑い終わるや、真顔で
「兄さん、ひょっとして忍びの末裔ですか?」
と聞いてきた。
樹之助は一瞬ドキリとしたが、すぐに何食わぬ顔で
「忍びなんて今の時代いないだろ。いたら会ってみたいもんだ。」
と流す。
「まったくですな。」
男も相槌を打つ。
「さて、俺は行くよ。わざわざ知らせてくれてありがとう。」
「いやいや、困った時はお互い様ですわ。こんな山奥で当てずっぽうに歩いたらそれこそ遭難しますからな。」
「助かったよ。俺は樹之助ってんだけど、あんた、名前は?」
「勘助です。ほな、またどこかでお会いしましょう。」
そう言って互いに反対方向に歩き出した。
四半刻ほど歩いた。
その間、樹之助は頭の中でさっきの勘助という行商人のことを考えていた。
(あの時は混乱して何とも思わなかったけど、あの距離で石つぶてを猪の急所に当てるって凄いことじゃないか?)
そう思うと次の疑念も湧いてくる。
(自慢じゃないが、俺の足は常人の倍くらいの速さだ。俺が名張の宿を出てから追いかけてきたとして、常人の足ならあんな早く追いつくだろうか...)
疑念は浮かぶが、
(あちこち旅してる行商人は健脚だし、山中身を守る術も色々持ち合わせているんだろう)
と思い、途中で考えるのを止めた。
「このあたりじゃないかな~」
ミズコシと思っていたがミハラシではないかと言われた辺りまで来ていた。
確かに集落は見当たらなかった。
(ミハラシなら、少し高いとこじゃないのか?)
そう思い、峠方面に上る山道に入った。
しばらく歩くと、山の中腹くらいに開けた平地が現れる。
茶屋か何かあったような崩れたあばら家がある。
平地の先に立ち辺りを見回すと、辺り一面が見渡せる見事な眺めだった。
(ミハラシは”見晴”の意味に間違いない…ここだ。)
樹之助は確信した。
(ここから北西方面に入る山道...)
そう思いながら山の方を見つめるが、道は無い。
(今や通る人がいないんだろうな...)
そう思いながらも尚も近づき辺りを探ると、生い茂る草木の中に通れそうな部分を発見した。
奥を覗き込んでみるが、森の薄暗さで先が見通せない。
樹之助は天を振り仰ぐ。
太陽はやや西に傾きかけている。
(この先に里があればいいが、無ければ暗くなり遭難するぞ…)
そう思い行くか戻るか逡巡したが、すぐに結論は出た。
「どうせ行く当てはないんだ。行くだけ行ってみるさ。」
若者らしい無鉄砲さで、樹之助は山に分け入った。
正に道なき道を行く感じだった。
樹之助は短刀を抜き、辺りの木の枝や蔓を切り払いながら進む。
(こりゃ間違ったかな?)
だが、ここが違っていればもう平成の里への手掛かりはない。
(行くだけ行ってダメなら帰ればいい。)
そう思ってどんどん進んだ。
初めから薄暗い山の中で、時間の感覚が狂ってきていた。
「いま何時だろう…?」
かなり進んだ頃、樹之助はふと足を止める。
歩いてきたはずの道も、もうわからない。
(先に行くしかない)
あらためて歩を進める。
途中苔むした岩場に足を取られ転んだ。
その際膝をしたたかに打った。
血が出ているのを持っていた手拭いで止血する。
「やっぱ違ったか~」
足を引きずりながら、目の前の木の枝を払った時、ぽっかり大きな空間が広がった。
「…こ、ここか?」
雑草に覆われているが、木が生えていない、人工的に作られた平地のようだった。
奥に進んでみる。
右手の方に崩れ、草木に侵食され朽ち果てた小屋の跡が十軒ほど見える。
とても人が住んでいる感じではなかった。
奥に一段高い箇所があった。
土手を登り高みに達した。
高みの端に明らかに人の手によって置かれた丸い石がある。
近づいてよく見ると、『風』と石に刻まれていた。
「…だれかの墓?」
樹之助は首を傾げたが、きっと自分の先祖と関係あるんだろうと思い、しばし手を合わせた。
「ここが“平成の里”なのか...?」
まだ半信半疑だった。
あらためて辺りを見回す。
すると広場の向こう、さっき目についた崩れた小屋の反対側に、大きな神社のような建物が見えた。
「あれは...?」
崩れている小屋と違い、それはまだ建物の外観を保ち、木々に覆われていることも無かった。
明らかに誰かが手を入れている感じがする。
樹之助は、意を決して神社の方に歩を進めた。




