第15話 伊賀
奈良の旅籠を日の出とともに立った樹之助は、伊賀に入った。
伊賀に足を踏み入れると、景色が一変する。
うっそうとした森に囲まれた世界。
整備されていない、高く険しい山道。
戦国の頃、一国が要塞と言われ、住人全てが異能の者、と恐れられた挙句織田信長に焼き尽くされた国。
そんな逸話が現実だと思わせる、独特の雰囲気がここにはあった。
そんな異質な雰囲気も、樹之助にはどこか懐かしく感じられる。
この山の景色、匂い、鳥の声。
(やっぱり俺の起源はここにある)
樹之助は魂で感じていた。
(俺の祖先達はこの山で戦ったのかな...?)
そんなことを考えながら、他の旅人があくせくしている山道を、樹之助は小走りでスイスイ進んでいく。
山道をヒイヒイ言いながら進む老夫婦は樹之助が軽々と追い越していくのを見て「マシラかえ?」と目を丸くしていた。
樹之助の健脚で、昼過ぎには名張の宿に着いた。
人気が少ない山道を走ってきたが、さすがに宿場には人が溢れている。
腹が減っていた樹之助は一軒の茶屋で団子と干し柿を頼んだ。
「なぁ、ここから百地の砦があったところまではどの位ある?」
樹之助が聞くと、店の売り娘が怪訝そうな顔つきで首を傾げた。
「…百地?なんですか、それ?」
(すでに忘れられているのか...)
樹之助は地元でも忘れられている忍びの存在に悲哀を感じた。
その時、床几台に座って休んでいた行商人が口を挟んでくる。
「ひょっとして、伊賀の乱のころの古戦場か?」
小柄で日に焼けた中年の男だ。
「多分」
「あんなところ行っても何にもありゃしまへんで。」
行商人は止めておけと言った風に首を振っている。
「その近くのミズコシ郷という集落に行きたいんだ」
「…ミズコシ?この辺の村落は結構回ってますけど、ミズコシいう集落は聞いたことありまへんな。」
行商人は首をひねりながら、近くにいた人々に「あんさん知ってるか?」と聞いてくれている。
だが、誰も知る人はいなかった。
樹之助は考え込んだ。
樹之助は懐中帳をめくる。
そこには確かに『百地砦から西南方3里ほどにあるミズコシ郷から北西方の山道に入る』と書いてあった。
(やっぱり原本じゃないとダメか...)
樹之助の思った原本とは、そもそも風の忍びとして開祖ゴエモンから伝えられてきた教えや実績などを書き記したものだった。
樹之助が三宅に搾取された風結庵の建物は三代目で、前の建物は天明8年(1788年)の天明の大火で焼失していた。
その時、それまで伝えられてきた文書類はことごとく焼失した。
今樹之助が持っているのは、当時の石川家当主が記憶にあったものを備忘したものであり、原本に書かれていた物と違っていることが多々あった。
「似た名前はないか?」
樹之助がさらに聞くと、行商人は「うーん」とうなりながら首をひねる。
これ以上手掛かりは掴めそうに無かった。
樹之助は、とりあえず百地砦の跡まで行こうと思い、夜食用に団子と干し柿を包んでもらった。
「ありがとう。とりあえず砦跡まで行ってみるよ。」
そう言うと、行商人の男は
「これからでっか?今からだったら着くころには日が暮れまっせ。悪いことは言いまへん。今夜はここに泊って行きなはれ。」
行商人の忠告を丁寧に断ると、樹之助は名張の宿を後にした。
一刻ほどで樹之助は、百地砦跡に着いた。
今は草木が生い茂り、何も知らない人は小山位にしか思わない。
樹之助は小山の上に上る。
建物は残ってないが、目を凝らしてみていると、石垣の名残と空堀の跡が読み取れる。
大きめの石に座り、辺りを見回す。
(こんな小さな砦が万余の織田軍に...)
樹之助の胸が熱くなる。
(よくもまぁ、ここから無事に脱出して生き残ったもんだ...)
樹之助は口伝で聞いた開祖ゴエモン達の活躍を思い出していた。
「俺もそんな時代に生まれていたらな...」
いつの時代も若者の想いは真っすぐで熱い。
せっかく身に着けた忍びの技術を存分に発揮する機会があった戦国の頃を羨む思いが、樹之助の胸中にもあった。
今の時代に忍びなんて…
鬱々とした思いで過ごしてきた。
父から天下を相手に奮戦した伊賀忍びの話を聞かされる度、誇らしい気分になった。
だが、現実は...
忍びを必要とする時代は終わり、系統は絶え、技術は失われていた。
(俺の技術だって、戦国の頃の忍びからみたら児戯に等しいんだろうな...)
樹之助は、足もとに落ちていた木の実を拾い、放り投げた。
木の実が枝に当たりながら「カサカサ」っと音を立てて落ちていく。
その時、「ガサガサッ」という、大きな音が木の実と逆の方向からした。
慌てて振り向くと、なんと大きな猪が樹之助に向かって突進してくるではないか。
「なになになに~!」
そう言いながら慌てて右に転がり、間一髪牙をかわす。
立ち直る暇を与えず猪が体当たりしてくる。
樹之助は辛うじて両手で牙を持ち致命傷を避けるが、圧力が強く反撃することができない。
(この手離したらこの牙で腹に穴が開く)
汗だくになりながら樹之助は必死で押さえる。
低い唸り声をあげて猪は樹之助を仕留めようと首を上下している。
(ダメだ。もう持たない...)




