第12話 黒い風
「旦那様、ほらもっとお過ごしくださりませ。」
「樹之助…」
「え?」
「旦那様なんて身分じゃない。樹之助でいい。」
盃を空け、樹之助は少しすわった目つきで小夜に言った。
小夜も初めての酒でかなり酔っている。
「わかりました。じゃあ、樹之助さま。そろそろ床入りしますか?」
小夜の緊張感が酒で飛んでいる。
初めてのくせに大胆なことを言う。
「...その前に、小夜。聞きたいことがある。」
樹之助が真面目な声音で言う。
「なんですか、樹之助様。お話なら寝物語にしましょう。」
完全に酔ってる。
そんな小夜に冷や水浴びせるように、樹之助が聞いた。
「三宅の家が襲撃された夜のことだ。」
小夜の顔から笑顔がスッと引いていく。
「あの日、お前が三宅に手籠めにされそうになった時、忍んできたのが俺だ。」
小夜が驚きで目を丸くしている。
「俺が三宅を絞め殺そうとした時、お前が俺を止めた。覚えているか?」
小夜が小さくコクリと頷く。
「そして、その後、三宅の用心棒共がなだれ込んできて、俺は相打ち覚悟で突っ込もうとした。」
小夜は恐ろしい記憶を無理やり呼び起こされ、上気していた顔から血の気が引いていく。
「そこで俺の記憶は途切れている。お前と同じく働いていた咲という女もそこで記憶が途切れている。だが、お前は覚えているだろう、その先を...」
樹之助はじっと小夜を見つめた。
小夜は口を半開きにして、声を振り絞りった。
「…黒い風。」
「黒い…風?」
「そう、黒い風が甘い香りと共に吹き込んできたの...」
「それで?」
「風は私の後ろから『これを噛んでろ。なるべく呼吸するな。』と言って凄く苦い木片のようなものを口に入れた。そして、これから起こることは見るなと言って私を押し入れに押し込んだの。」
小夜はぶるぶると震えだした。
声音も震わせながら小夜は続けた。
「見てないけど…耳を塞いでいたけど...」
小夜は首を振り、恐怖に抗っている。
「血の…血の臭いが、むせるほど漂ってきて…」
小夜は泣きだし、両手で顔を覆った。
「…何が起きているか...わかった…」
うずくまり、嗚咽を上げる小夜。
樹之助はそんな小夜をそっと抱きしめた。
「済まなかった。嫌なことを思い出させて。」
樹之助がそう言うと、小夜は首を振った。
「ううん。誰かに言いたかったの。一人で抱え込んでいるのが苦しくて...」
そして頬の涙を拭いながら続けた。
「きっとあっという間の出来事。でも暗い押し入れで待ってた時間は凄く長く感じてた...」
(親父はこの子に見せていないんだな。)
樹之助は少し安心した。
「すべてが終わった後、黒い風は私を迎えに来た。でもいいというまで目を閉じていろと言われた。だから、三宅らの死体は見てない…」
「その後倒れていた俺を鴨川沿いの集落に運び、君をここに連れて来たんだな。」
小夜はこくりと頷いた。
「ありがとう。怖かったな。」
樹之助は小夜の背を撫でてやった。
小夜はこれまで誰にも言えなかったあの夜のことを話せた安堵感と、よみがえった恐怖とでまた泣き出した。
小夜が泣き終わるのを待って、樹之助は続けて聞いた。
「その、黒い風の顔は見た?」
小夜は首を振った。
「暗がりだったし…覆面してたから…」
泣きじゃくりながらそう言ったが一言付け加えた。
「でも、あなたと同じ目…」
樹之助は父の眼差しを思い出していた。
「嫌な事思い出してくれてありがとう。じゃあ俺、帰るから…」
そう言うと小夜は目を見開き、樹之助にきつく抱きついてきた。
「行かないで!このまま...」
「いいんだ、俺は小夜にそんなことしたくて来たんじゃない。」
そう言うと小夜は更にきつくしがみついてくる。
「私、樹之助さまに、初めてのお客になっていただきたいんです。初めくらい、好いた方に...」
樹之助はこれから地獄のような世界で生きる覚悟の娘のささやかな望みが痛いほどわかった。
「小夜、お前客を取ることを望んでいるんじゃないよな。」
「…それは。でもそうしないとここでは生きていけない。お滝さんは奥で奉公してればいいというけど、姉さんたちから無駄飯食いと冷たい目で見られるし...」
父が特別扱いを望んでも、そんな待遇はかえって小夜をここで生きにくくしている。
樹之助は小夜の心情が痛いほどわかった。
「俺がなんとかしてやる」
樹之助がそう言うと、小夜は強い口調で言った。
「いいの!樹之助さまにはこれ以上してもらえない。でも…だから、小夜の最初は、樹之助様に…」
小夜は一人でも生きていく覚悟を決めている。
しばし沈黙の中、抱き合う二人。
「……その覚悟、受けとるよ」
樹之助も決意した。
そのまま二人の影は一つになった。




