静かなる予兆と、理性の綻び
図書室での「ASMR事件」以来、私と佐藤くんの間には奇妙な沈黙が流れるようになっていた。
観察対象としての彼を分析しているはずなのに、私の視線は無意識に、彼のイヤホンから漏れる微かな音を追ってしまう。
彼が必死に自分を削り取ってまで保っている「ゼロ」の境界線が、少しずつ、けれど確実に歪み始めているのを感じていた。
その日の放課後、窓の外では朝からの曇天が耐えきれなくなったように、重苦しい雨が降り始めていた。
「……今日は、もう切り上げた方がよさそうね」
私が声をかけると、隣のブースでペンを動かしていた佐藤くんの動きが、ぴたりと止まった。
返事はない。
ただ、彼の背中がいつもより小さく、そして激しく震えているように見えた。
「佐藤くん?」
覗き込んだ彼の顔は、耳の付け根までどす黒いほどに赤く染まっていた。
荒い呼吸が、パーティションを越えて私の肌に熱を持って触れる。
彼は机にしがみつくようにして、掠れた声で呟いた。
「……一ノ瀬……悪い、……今日は……先、帰ってくれ……」
その瞳は熱に浮かされ、焦点が定まっていない。
「その体調で一人で帰れるわけないでしょう。顔を貸して」
私が彼の額に手を伸ばすと、彼は弾かれたように私の手首を掴んだ。
「……触るな!……今、……触られたら……っ、本当に……壊れる……」
その握力は驚くほど弱く、けれど必死な、縋るような熱を帯びていた。
外の雨は、いつの間にか激しい嵐へと変わりつつあった。
遠くで地鳴りのような雷鳴が響き、図書室の照明が一度、不吉に瞬く。
「……熱のせいか、……雨の音のせいか、……分からないけど……」
佐藤くんが、熱い吐息と共に、壊れた蛇口のように本音を漏らし始める。
「……お前の、……服が擦れる音すら、……今の俺には、……猛毒なんだ……」
私は、彼をこのまま放り出すことなど、到底できなかった。
彼が恐れているのは、私という存在そのものではなく、自分の中に芽生えた制御不能な衝動なのだと、その震える指先が語っていた。
「いいから、私の家に来なさい。この嵐じゃ、あなたの家まで持たないわ」
独占欲に似た何かが、私の胸の奥で静かに鎌首をもたげる。
意識が朦朧とする彼を支え、土砂降りの雨の中へ足を踏み出した。
肩が触れ合うたび、彼の熱が私の中へ浸食し、私の冷静さもまた、雨に溶けていくようだった。
これが、今夜始まる「看病」という名の、密室での均衡の崩壊への序曲であることに、私はまだ気づいていなかった。




