壁越しのノイズと、静かなる独占欲
放課後の図書室は、凪いだ海のように静まり返っていた。
私は隣の閲覧ブースにいるはずの、佐藤くんの気配を感じながら、開いたままの参考書に目を落としていた。
彼との物理的な距離は、わずか数センチのパーティション一枚。
いつもなら、そこからは彼が必死に理性を保つための、あの「清潔」な薬品の匂いだけが漂ってくるはずだった。
「……っ、ふ、……あ、……すごい……。……そんなに、……奥まで……」
不意に、仕切りの向こうから微かな、けれど艶めかしい女子の声が漏れ聞こえてきた。
私の心臓が、自分でも驚くほど嫌な音を立てて跳ねる。 それは明らかに高城さんの声ではなかった。
もっと幼く、それでいて粘り気のある、快楽に蕩けたような甘い声。
「……っ、いいぞ、……もっとだ。……そのまま、……全部飲み込め……」
佐藤くんの、低く、悦びに震えるような声が重なる。
私は手に持っていたペンを、指が白くなるほど強く握りしめた。 私といる時はあんなに苦しそうに、「ゼロ」であることを強いている彼が、壁の向こうでは別の誰かと、あんなにも生々しいやり取りを交わしている。
胸の奥を、冷たい針で掻き乱されるような不快感が支配していく。
「別に、気にしていないわ。彼が誰と、何をしようと……」
口に出した言葉は、自分でも白々しく感じるほどに震えていた。
けれど、次に聞こえてきた「……あぁ、……イッちゃう……っ!」という絶叫に近い声が、私の最後の理性を焼き切った。
私は椅子を蹴立てるように立ち上がり、佐藤くんのブースへ「逆突入」した。
「佐藤くん、そこで何をして――」 叫びと共に視界に飛び込んできたのは、私の想像していた破廉恥な情景ではなかった。
そこには、机の上にスマホを置き、耳にイヤホンを突っ込んだまま、真っ赤な顔で机に突っ伏している佐藤くんの姿があった。
スマホの画面で再生されていたのは、人気声優による『超ハード・耳かきASMR〜鼓膜の奥まで激しく大掃除〜』という動画。
佐藤くんは、私という毒を中和するために、あえて耳から「脳を溶かすような快楽」を摂取し、強制的に賢者モードへと至ろうとする、新手の修行に励んでいたのだ。
「……一ノ瀬……? な、……なんだ、……急に……」 彼は片方のイヤホンを外し、焦点の合わない目で私を見上げた。
画面の中からは、今もなお「……ふふ、耳の奥、真っ白になっちゃったね」という声が漏れている。
「……通話、……じゃなかったのね」
「……当たり前だ。……今の俺に、……リアルな女子の相手なんて……っ、……できるわけ……っ……!」
彼は再び襲ってきた鼓膜への刺激に耐えるように、股間を押さえて丸くなった。
私の中にあった醜い嫉妬心は、彼のあまりにもマヌケで、それでいて涙ぐましい「防衛策」を前にして、行き場を失い霧散した。
けれど、隣のブースの状況を把握せずにはいられなかった自分の心の動きを、私は「観察対象への興味」という言葉だけで片付けることは、もうできなかった。




