渡米する偽証者
その夜のモスクワに雨は降らなかった。乾いた秋の空気の中、星が出ていた。シェレメーチェヴォ空港の第1ターミナルは、いつものように薄汚れた明かりの下で人々が溢れ返っていた。
レフは出発ロビーの端に立ち、搭乗時刻を確認した。モスクワ発、ウィーン経由、ワシントン・ダレス行き。
偽名の書類は準備した。名前は「アレクサンドル・クズネツォフ」。職業は「科学機器メーカーの輸出担当」。目的は「技術展示会への参加」。
ロマーノフへの回答は、欠席という形で済ませた。翌日、彼は出勤せず、デスクに書き置きだけを残した。「緊急の現地調査に向かいます」。それだけだ。ロマーノフは激怒するだろう。レフの処分は確定するだろう。解雇か、最悪逮捕か。どちらでも構わなかった。
搭乗アナウンスが流れた。レフはコートの内ポケットを確認した。
チェルノブイリで撮影した金属プレートの写真。同じ工程で作った複製プレートが、もう1枚、リュックの底にある。写真だけで不足する場面が来たときの、最終的な物証。
カセットテープ。「スコーチ・アース」の声が、最初から入っていたように聞こえる。財務分析の写し。
それから、少女の顔が、心の中に浮かんだ。画面の中の黒い瞳。ナイラ、という名前だった。クウェートの大使の娘。アメリカに使われようとしている少女。
しかし、彼女自身は、どこにいるのか。何を知っているのか。何を信じているのか。それを確かめる必要があった。彼女が罪悪感を持つ人間なら、舞台は奪える。
そう組み立てながら、レフは自分の思考の音を、頭のどこかで聞いていた。「舞台は奪える」。相手はまだ子供だった。しかし彼の頭は、対象を年齢ではなく機能で数えていた。KGBの3年間が、そういう音の出し方を彼に身につけさせていた。それが自分にとって進歩なのか劣化なのかを、今夜は判定しないと決めた。
レフは列の中に入り、搭乗口に向かった。周囲の乗客たちは、それぞれの人生を携えて立っていた。
レフだけが、違う理由で乗る。ソ連国家の意志ではなく。組織の命令でもなく。ただ1人の妹の、死に際の妄想を、世界が信じる形に作り替えるために。
「事故じゃない。あれは、誰かにやられた」
アーニャ。お前は間違っていた。俺はそれを、世界の事実にする。
搭乗口のドアが開いた。闇の中に光があった。レフは歩いた。




