上司の壁
翌朝、レフはロマーノフ上級大佐の執務室に呼ばれた。
ロマーノフは60代の小太りの男で、赤ら顔にいつも汗を浮かべていた。彼はKGBの生え抜きで、40年近いキャリアを持ち、ブレジネフ時代からの生き残りだった。政治的な嗅覚に長け、リスクを嫌い、出世を愛した。
「座れ、シャポシニコフ」
ロマーノフは眼鏡を外し、テーブルの上に置いた。それから溜息をついた。
「チェルノブイリで、何を作っていた」
「調査です」とレフは言った。「技術情報分析の一環として」
「調査なら"見つける"。お前の報告書は違う。あれは、誰かに見つけさせるために書かれている」
レフは表情を動かさなかった。
「金属プレート、通信音声、資金移動。どれも単独では弱い。だが並べると、あまりにも綺麗に同じ結論へ向かう」
「偶然です」とレフは言った。
「偶然にしては、都合が良すぎる」
ロマーノフは机の引き出しから封筒を取り出した。中には、レフが提出前に複写しておいた写真のうち1枚が入っていた。蒸気分離器の下で、英語の刻印が鈍く光っている。
「本物なら奇跡だ。偽物なら芸術だ」
レフは黙っていた。
「どちらでも構わん」とロマーノフは言った。「問題は、それが使えるかどうかだ」
「使うべきです。CIAによる計画的なチェルノブイリ破壊工作として公表すれば、アメリカは弁明に追われます。真偽を問う前に、世界は疑い始める」
ロマーノフは眼鏡を手に取り、また置いた。
「シャポシニコフ。外を見ろ」
窓の外には、モスクワの灰色の街並みが広がっていた。
「今この国の状況を、お前はわかっているか。俺は30年この仕事をしてきた。国というものが何かを、骨の髄まで知っている。今の我々に、アメリカと戦う体力はない。ゼロだ。バルト3国が離反しつつある。ウクライナが揺れている。軍は予算不足で動かない。党は内部分裂を起こしている。ゴルバチョフは毎日違うことを言う。そんな状況で、お前がチェルノブイリの証拠を持って行ったら、何が起きる?」
「真実が――」
「真実など、政治家の道具にすぎん」ロマーノフは声を低くした。「だが嘘は違う。よくできた嘘は、政治家より長生きする。だから伏せろ。証拠はここに提出しろ。俺が保管する。機が熟したときに、国家として使う」
「機が熟すのはいつですか」
「国家が判断する」
「アーニャが――」とレフは言いかけた。
ロマーノフの顔が、わずかに変わった。眉が、ほんの少し動いた。
「シャポシニコフ。お前の妹のことは知っている。だがそれは――」
「これは個人的な感情の問題ではありません」とレフは言った。「国家が使う前に、アメリカが別の嘘を世界へ流そうとしている。こちらが先に舞台を奪わなければ、すべて飲み込まれる」
「対処する。しかし今ではない」
「今でなければ、証拠が消えます」
「ならば、こちらで保護する。書類と証拠品を俺に渡せ。命令だ、シャポシニコフ」
レフは席から立ち上がった。
「24時間ください」
ロマーノフの目に、警戒の光が入った。
「いい。24時間だ。明日の同じ時間、ここへ来い。書類と証拠品を持って」
レフはお辞儀をして、部屋を出た。
廊下を歩きながら、脳は全速力で動いていた。証拠はロマーノフの金庫の中に入った瞬間、国家の所有物になる。そして国家は、最も都合のいい時まで、それを腐らせる。「機が熟す」ときなど、来ない。
レフは地下3階の自分のデスクに戻った。椅子に座り、手のひらの傷を見た。有刺鉄線の跡は赤く、かすかに膿み始めていた。
テレビをつけた。デスクの端に置かれた小型のテレビに、CNNの英語放送が流れていた。衛星回線経由の信号で、ソ連のKGBは外国放送の傍受を許可されていた。
画面には、アメリカの議会の映像が映っていた。
「クウェートからの少女ナイラが、来月上旬に米国議会の公聴会で証言する予定です。彼女はイラク軍による残虐行為を直接目撃したとして……」
少女が映っていた。15歳。黒い瞳、長い髪、整った顔立ち。カメラに向かって、何かを語っていた。
字幕。「イラクの兵士たちが病院に入ってきて……赤ちゃんを保育器から取り出して……床に置いて……」
レフは立ち上がった。動いたのは、ほとんど反射だった。
アメリカは、今まさにイラクとの戦争に向けて、世界の同情を集めようとしていた。そのために必要なのは、大義名分だ。イラクが悪魔的な残虐行為をしているという証拠。
そしてアメリカは、その証拠を「作っている」。あの少女は、PRのために訓練された証人だ。KGBの情報収集の中に、クウェート王室がヒル・アンド・ノウルトンというアメリカのPR会社を雇ったという情報があった。あの少女は、そのPR会社が演出した証人だ。本当にクウェートにいたかどうかさえ疑わしい。
アメリカは世界に嘘をついている。ならば、こちらも嘘で返せばいい。
ロマーノフは言った。アメリカと戦う体力はない、と。しかし体力とは、軍隊のことではない。アメリカが今、最も恐れているものは何か。真実ではない。真実として扱われる疑惑だ。特に、アメリカ自身が否定できない疑惑――否定の代償が組織の自殺になるような疑惑だ。
あの議会の公聴会。あれが、アメリカの舞台だ。世界が注目する場所で、アメリカが用意した嘘を、アメリカ自身を裁く嘘にすり替えたら。それは軍事力より遥かに強力な爆弾になる。
レフは椅子に座り直した。肘をテーブルにつき、両手で顔を覆った。数秒だけ、何も考えない時間を作った。
頭が、今まで見たことのない速度で回転し始めた。
ロマーノフへの答えは決まった。証拠は渡さない。そして自分は、ワシントンへ向かう。ただし単独で。組織なしに。ソ連国家の意志とは完全に切り離された、個人としての行動として。
それは狂気だ、とレフは思った。しかし狂気でなければ、報われない。
アーニャ。次は俺が、お前の分まで正しくなる番だ。
そして――あの少女を巻き込む番だ。
レフは目を開けた。今、自分は、15歳の顔をした少女を利用しようとしている。アメリカがしていることと、同じことを。
その事実は、鏡のように光ってレフの前に立っていた。彼はそれから目を逸らさなかった。逸らせば、この計画は今夜終わる。
見つめたまま、レフはテレビを消した。真っ暗になった画面に、自分の顔が映った。窪んだ目、削れた頬、4日分の無精ひげ、右手のひらの傷。
コートを手に取り、ドアに向かった。1度だけ振り返り、地下3階の解析室を見た。
そして部屋を出た。




