粘菌の祝祭、あるいは逃亡の旅路
ラボの隔離壁が爆圧で歪み、警報音が絶頂に達した悲鳴のように響き渡る。佐藤は、意識を情報の海に半分溶かしたままの一ノ瀬を抱え、非常用脱出ハッチへと飛び込んだ。
一歩外へ出たそこは、もはや「日常」という皮を剥がされた地獄だった。
「……あ、あぁ……。……、……」
街中の至る所で、人々が力なく地面に伏し、あるいは電柱や壁に縋り付いて、虚空を見つめながら痙攣している。一ノ瀬の情動が世界OSを通じて「オーバーフロー(粘菌の暴走)」を起こした結果、数億人の脳に、許容限界を超えた多幸感の波が同時に叩きつけられたのだ。
信号機は意味をなさず、無人のまま暴走した車両が瓦礫と化した通りに突き刺さっている。だが、その惨状の中でさえ、人々は苦痛ではなく、耐え難いほどの「悦び」に支配され、救助を求めることすら忘れていた。
「……佐藤くん。……みんな、私の声が聞こえるって言ってるわ。……もっと、もっと中まで入ってきてって……。……私、彼らを止めることができない……」
一ノ瀬の体から、目に見えない「熱(精神波)」が陽炎のように立ち上っている。彼女が動くたびに、周囲にいた生存者たちが磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、フラフラと彼女の後を追い始めた。
「……彼らはもう、君という『毒』がない世界では呼吸すらできないんだ、一ノ瀬。……追いかけてくるのは、愛じゃない。……ただの、生存本能だ」
佐藤は、一ノ瀬の肩を抱き寄せ、冷徹に告げた。
ふと見上げると、上空では管理側の「現実派」無人機が、リセットのための照準を絞り始めている。高城が最後に警告した通り、システムはこの「汚染源」を物理的に消滅させる準備を整えつつあった。
「……向かうのは、北だ。OSのバックボーンが最も太く、かつて『旧人類』がシステムの核を埋めた場所。……座標はもう、僕の頭の中に刻まれている」
佐藤は奪った車両のアクセルを踏み込んだ。
サイドミラーに映る街は、一ノ瀬の情動という名の不可視の粘菌に飲み込まれ、青白く光り輝く静かな死体へと変わっていく。
「……授業を続けよう、一ノ瀬。……今度は、この腐り切った世界の心臓部で」
二人の逃亡は、同時に「墓所」への巡礼となった。




