多幸感の檻、あるいは青き清浄の予兆
ラボを包囲していた群衆の「声」は、いつしか消えていた。
代わりに、宿舎の周辺には異様なまでの静寂が支配している。ひざまずいた人々は、一ノ瀬から発せられる微弱な精神波の余韻に浸り、呼吸を整えることすら忘れたかのように、穏やかな、そして空虚な多幸感の中に沈んでいた。
佐藤くんは、宿舎の屋上へと一ノ瀬を連れ出した。
そこは、彼が密かに世界OSの監視網をバイパスして作り上げた、唯一の空白地帯――「庭」だった。
「……見てみろ、一ノ瀬。街が、本当の意味で黙り込んだ。争いも、不全への嘆きも、もうここには届かない」
屋上の縁に立つ佐藤くんの視線の先には、一ノ瀬の能力によって「去勢」された平和な都市が広がっている。
一ノ瀬は、佐藤くんの隣で、自分の指先に宿る微かな熱を見つめていた。
彼女がシステムを通じて全人類へ送り込んだのは、佐藤くんとの情事の中で彼に「調教」され、支配されることに悦びを感じるという、極めて個人的で背徳的な情動だった。それが今や、全人類の報酬系を書き換える「福音」として機能している。
「……佐藤くん。私、自分が何をしたのか分かっているわ。……みんなの脳の中に、私を、そしてあなたを、永遠に刻み込んでしまったのね」
一ノ瀬の声には、罪悪感はなかった。あるのは、愛する者の道具として完璧に機能したことへの、澄み切った陶酔だけだ。
彼女は今や、数億人の快楽を掌握する「女王」でありながら、佐藤くん一人に隷属する「器」であった。
「ああ。これが僕たちの描く『青き清浄』の第一歩だ。……人間が人間であるための野生や葛藤を、君の熱で焼き切ってやったんだ。……これでもう、誰も君を傷つけないし、誰も僕から君を奪えない」
佐藤くんはそう言うと、自分自身の腕に打ち込まれた「被験者用」のコネクタを弄った。彼自身もまた、一ノ瀬という毒に最も深く侵され、彼女なしでは世界を認識できない依存体質へと、自らを改造していた。
二人が屋上で重なり合う。
その瞬間、一ノ瀬の情動が再びスパイクし、世界OSを介して全人類へと「絶頂」の信号が転写される。
街中の人々が同時に溜息を漏らし、その瞳から意志の光が消えていく。
「……佐藤くん、もっと。……世界が、もっと私に……あなたに染まっていくのがわかるわ……」
「……いいよ、一ノ瀬。……僕の道具として、この世界を最後まで犯し続けよう」
二人の影が、人工的な月光の下で一つに溶け合う。
救済という名の汚染。慈愛という名の去勢。
宿舎の屋上の「庭」から始まったその背徳の蜜は、音もなく、けれど確実に、人類という種の根幹を塗り替えようとしていた。




