倒錯する福音、あるいは女王の覚醒
世界OSが管理する数千万人のバイタルサイン。それらは今や、一ノ瀬の心臓の鼓動と完璧な同期を始めていた。
ラボのメインコンソールには、もはや数値化できないほどの「快楽」の奔流が渦巻いている。
一ノ瀬はポッドの中で、恍惚とした表情を浮かべながら、ネットワークを通じて世界そのものを「抱いて」いた。佐藤から与えられた「調教」の記憶、その痛切な悦びを信号へと変換し、全人類へと無差別の福音として転写していく。
「……ああ、佐藤くん。……私、今ならわかるわ。……彼らが求めているのは、正しい導きじゃない。……私という大きな波に飲み込まれて、自分を失うことなの」
彼女の声は、かつての怯える少女のものではなかった。数百万人の機能不全を「治療」し、彼らの脳内に絶対的な依存を刻み込んだことで、一ノ瀬の自我は肥大し、一種の神聖な残酷さを帯び始めていた。
佐藤は、その様子を特等席で眺める観測者として、彼女のうなじに残る紅い痕をなぞった。
「そうだ、一ノ瀬。君が感じているその支配の多幸感こそが、世界を救う唯一の薬だ。……君が僕に従順であればあるほど、世界もまた君に従順になる。……全人類が、僕たちの密室の一部になるんだ」
佐藤の目的は、もはや単なる社会貢献ではなかった。彼は一ノ瀬という「毒」を世界に拡散させることで、人類すべてを自分たちの「授業」の共犯者に仕立て上げようとしていた。
一方、モニターの向こう側で、高城は変わり果てた二人の姿に戦慄していた。
「……狂っているわ。一ノ瀬さんはもう、自分の意志で人を救っているんじゃない。……佐藤、あんたに与えられた快楽を全人類に押し付けて、それを『救済』だと錯覚しているだけよ」
高城の指摘は正しかった。
一ノ瀬は今、世界中の射精障害や心の病を、自らの「絶頂」で上書きし、消し去っている。だがそれは、人間が本来持つ葛藤や野生を奪い去り、彼女なしでは快楽を感じられない「去勢された平和」を構築する行為に他ならない。
「……いけないことかしら、高城さん?」
一ノ瀬が、ネットワーク越しに高城の意識へと直接語りかける。その声には、慈愛と傲慢が分かちがたく混ざり合っていた。
「……みんな、あんなに苦しんでいたのよ。……私の熱の中で、彼らは初めて自分自身の肉体を許されたの。……私が彼らの『女王』になることで、世界から不全が消えるなら、それはとても美しいことだわ」
一ノ瀬の背後に、世界OSのホログラムが巨大な後光のように浮かび上がる。
彼女はゆっくりと腕を広げ、仮想空間を通じて全人類を抱擁した。その指先から放たれる精神波は、もはや「処方」ではなく、絶対的な「統治」へと変質していた。
佐藤は、彼女の影に隠れるようにして、静かに微笑む。
「さあ、始めよう。……僕たちの愛で、この不完全な世界を犯し尽くすんだ」




