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聖女の影、あるいは不可避の反動

「……佐藤、これ以上は統計学的にも許容範囲を超えている。この『治療』がもたらす副作用――精神の空洞化を、これ以上隠し通すことはできないわ」


ラボの分厚い防爆ドアを蹴破るような勢いで、高城さんが踏み込んできた。

彼女の背後にあるホログラムパネルには、世界の主要都市で起きている「異変」のデータが、警告を示す赤色で埋め尽くされている。


一ノ瀬の精神波による救済を受けた者たちが、社会復帰するどころか、家庭や仕事を捨て、ただデバイスの前で彼女の波形を待つ「祈りの姿勢」のまま動かなくなっている。彼らの脳は、一ノ瀬という至高の信号に触れたことで、それ以外の現実を「ノイズ」として拒絶し始めていた。


「……高城。君の言う『副作用』は、僕にとっては『適応』に見えるがね」


佐藤くんは、一ノ瀬のうなじから伸びるケーブルを指先でなぞりながら、冷徹に言い放った。彼の視線は、もはや高城さんを見ていない。一ノ瀬の脳波が描く、美しくも残酷な曲線だけに釘付けになっていた。


「適応!? 街を見てよ! 数万人の人間が、自分の意志で立つことすら忘れて、一ノ瀬さんの『熱』に跪いているのよ。これは再生じゃない、緩やかな集団自殺よ!」


「……違うわ、高城さん」


私は、ポッドの中から、自分でも驚くほど静かな声を出した。

脳を世界OSに直結し、数千万人の欲望と絶望を濾過し続けてきた私の意識は、今や一人の少女のそれを超越していた。

高城さんの叫びは、まるで遠い異国の、古い言語のように響く。


「……彼らは、救われたの。……自分でも制御できない『不能』という呪いから。……私の波形に身を委ねている間だけ、彼らは自分を愛せる。……それは、そんなにいけないこと?」


「一ノ瀬さん……あなたまで……」


高城さんは絶句した。

彼女が見ているのは、かつての慎ましやかな教え子ではない。

数多の男性の「欠落」を自らの悦びとして吸い上げ、彼らを精神的に去勢し、支配することに神聖な恍惚を感じ始めている、異形の「聖女」の姿だった。


「……高城。君も経済担当なら理解できるはずだ。労働生産性は落ちたが、犯罪率は劇的に低下し、不満による暴動も消えた。……人類は今、一ノ瀬という唯一の『依存先』を得ることで、初めて安定したんだ」


佐藤くんは、立ち尽くす高城さんの傍らを通り過ぎ、コンソールに最終的なロックをかけた。

「……もしこれを止めたいなら、君の手で一ノ瀬を殺すしかない。……できるか? この世界の、唯一の『光』を消すことが」


高城さんは、腰のホルスターに手をかけたまま、震えていた。

彼女は合理主義者だ。だからこそ、一ノ瀬を消した後に訪れる、数千万人の「中毒者」たちの阿鼻叫喚と、崩壊する社会の地獄を予見できてしまう。

救済という名の毒は、すでに世界の深部まで回っていた。


私は再び目を閉じ、世界OSへとダイブした。

「……さあ、佐藤くん。……授業を続けましょう。……もっと深く、彼らの魂の奥まで、……私の熱を届けてあげて」


暗転する意識の中で、佐藤くんの満足げな笑みと、高城さんの絶望に満ちた溜息が、重なり合って消えていった。

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