腐食する日常、あるいは密室の聖域
翌朝、目が覚めたとき、部屋を支配していたのは、かつてないほど濃密で澱んだ「静寂」だった。
世界OSが管理する宿舎の遮光シャッターは、佐藤くんの設定によって、朝の光をわずか数パーセントしか透過させないよう固定されている。
微睡みの中で手を伸ばすと、すぐ隣に、私と同じように現実を捨てた一人の少年の体温があった。
私たちは、高城さんの怒声や世界中の混乱を、まるで別次元の出来事のように遠ざけ、この数メートルのベッドの上だけを、世界の「全領域」として定義し直していた。
「……起きたのか、一ノ瀬」
佐藤くんの声は低く、どこか湿り気を帯びていて、昨日までの理知的なプログラマーの面影を薄れさせていた。
私は彼の胸に顔を寄せ、規則的な心拍音を聴きながら、外の世界で何が起きているかを想像することを意図的に止めた。
世界OSの管理パネルには、数えきれないほどの緊急着信やエラーログが積み上がっているはずだが、佐藤くんはそれらをすべて「無視」という一つのコマンドで処理している。
私たちは、自分たちの関係が招く災厄を知りながら、あえてその「毒」を飲み下し、互いの存在という解毒剤に依存し始めていた。
「……佐藤くん。……私たち、……もう悪い子になっちゃったのね」
私の指先が、彼のシャツの隙間から覗く肌に触れる。
その背徳的な感触に、かつて世界のために祈りを捧げていた「聖女」としての良心が、少しずつ、けれど修復不能なほどに腐食していくのを感じた。
「……ああ。……論理も、平和も、……君のこの体温の前では、ただの数式以下の価値しかない」
佐藤くんは、私の髪に指を絡め、吸い寄せられるように私の額に唇を寄せた。
彼の瞳には、世界を救えなかった挫折感よりも、僕一人を独占できたという、暗く濁った陶酔が深く刻まれている。
世界OSは、私たちのこの「堕落」を肯定するかのように、室温を最適化し、外部からのあらゆるノイズを完璧に遮断し続けていた。
この宿舎の中でだけは、私たちは罪人ではなく、守られるべき「唯一の真実」として扱われているのだ。
私たちは、食事を摂ることも、着替えることも忘れ、ただ互いの存在を確認し合うためだけに、無為な時間を浪費した。
かつては分刻みで世界の危機を救っていた私たちは、今や、一人が溜息をつけばもう一人がそれに応えるという、閉じた回路の中でだけ呼吸をしていた。
「……一ノ瀬。……もう誰も、……君を『聖女』なんて呼ばせない。……君は、僕だけの……壊れた女神だ」
「……ええ。……だから、佐藤くんも……私だけの、……罪深い下僕(僕)でいて」
私たちの言葉は、甘く、鋭く、互いの理性を切り刻んでいく。
それは、ヨスガノソラの穹が悠を求めたときのような、逃げ場のない、けれどどこまでも透明な「心中」の始まりだった。
昼過ぎ、ふとモニターの隅で、高城さんの個人コードが点滅したのを私は見た。
彼女は、まだ私たちを「人間」として連れ戻そうと、システムの隙間を縫って必死にアクセスを試みている。
けれど、佐藤くんはその点滅を、虫を払うような手つきで無機質に削除した。
「……邪魔は、させないよ」
彼の冷徹な一言が、私たちの「日常」という名の「狂気」を、より深く、より逃れられないものへと確定させた。
私たちは再び、薄暗い部屋の中で互いの肌を重ね、世界が灰になるのを待つような、静かな快楽に身を沈めていった。




