実行直前のポーズ、あるいは天才の不退転
僕は、自分の腕の中で震える一ノ瀬の肩を離し、まっすぐにその瞳を見つめ返した。
感情に任せて抱きしめるだけでは、高城さんのあの真っ向勝負の勇気に対して、あまりにも不誠実だと思ったからだ。
一ノ瀬は、泣き腫らした目で僕を見上げ、言葉にならない不安を、その小さな唇の震えに宿らせていた。
「……佐藤くん、……今、……何を考えてるの? ……また、……難しい計算で、……私を煙に巻くつもり?」
彼女の声は、かつての聖女の威厳など微塵もなく、ただ僕の一言で砕けてしまいそうなほど、危うく、そして愛おしかった。
僕は首を振り、ポケットの中で握りしめていたスマートデバイスを、静かに操作した。
「……いや。……計算はもう終わったんだ、一ノ瀬。……今から僕は、……世界OSの全リソースを、……たった一人の少女に『告白』するためだけに投入する」
僕の宣言と共に、宿舎内の無機質なサーバー音が、心地よい重低音の和音へと姿を変えていった。
僕は、中途半端な場所で、中途半端な覚悟で彼女を繋ぎ止めることを自分に禁じた。
一ノ瀬を「世界の中心」として維持し続けるこのシステムを、今この瞬間、僕自身の個人的な恋情を証明するための装置へと完全に書き換える決意をした。
「……ついてきてくれ。……君に見せたい『夜明け』があるんだ」
僕は一ノ瀬の手を引き、宿舎の屋上にある、かつては対空レーダーが設置されていた展望デッキへと彼女を連れ出した。
夜風が彼女の髪を揺らし、認識抑制フィルターが完全に解除された彼女の素顔が、月光を浴びて、世界のどんな宝石よりも深く、鋭く輝いていた。
高城さんは、僕たちの背中を見送ることもせず、ただコンソールに向かって「……最高のログを刻みなさいよ、馬鹿」と、独り言のように呟き、通信回線を完全に遮断してくれた。
彼女が僕に託した「敗北」の重さを背負い、僕は展望デッキの最先端に立ち、深呼吸を一つした。
「……一ノ瀬、……空を見ていて」
僕がコンソールの実行キーを叩いた瞬間、世界中の通信衛星が連動し、夜空をキャンバスに変え始めた。
漆黒の天に、人工的な光の粒子が、流れ星のカーテンのように降り注ぎ、私たちの周囲を「光の檻」のように囲んでいく。
それは、かつて彼女の美貌を隠すために作ったフィルターを、彼女を最も美しく輝かせるためのライティングへと反転させたものだった。
僕はこの時、高城さんが危惧していた「システムが凛の私有物になる」という禁忌に、自ら足を踏み入れていることに気づいていなかった。
一ノ瀬は、あまりの光景に息を呑み、その瞳に無数の光の粒を映しながら、僕の方をゆっくりと振り返った。
彼女の頬を濡らしていた涙は、光を浴びてダイヤモンドのように煌めき、彼女の「美貌」という呪いを、真実の奇跡へと塗り替えていく。
「……佐藤くん、……これ、……全部、……私のために……?」
「……ああ。……君が、……自分の美しさを『呪い』だと思わなくなるまで、……僕は何度でも、……世界を君の色に塗り替えてみせる」
僕は一歩、彼女との距離を詰め、その小さな手を両手で包み込んだ。
心臓の鼓動が、世界OSのクロック数よりも速く、激しく、僕の胸を叩いている。
今この瞬間、僕と彼女の間には、国家も、戦争も、システムも、そして高城さんという強敵さえも存在しない。
ただ、一人の少年が、一人の少女に、自分の人生のすべてを捧げるための「たった一言」を、唇に乗せる。
僕は、言葉を紡ぐために口を開いた。
世界中を僕たちの「共犯者」に変えてまで用意した、完璧な舞台装置。
その中心で、僕はついに、世界の運命を書き換える一言を放とうとしていた。




