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【完結済】妹の最期の嘘を、世界の真実に書き換える ~チェルノブイリの真実を偽造したKGB数学者の陰謀~  作者: 寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
白い花

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1986年4月26日 午前1時23分

火は、静かに始まった。


それが、レフ・シャポシニコフには永遠に許せなかった。


レフは当時、プリピャチ市の宿泊施設の3階にいた。窓際の折り畳みベッドで、ウクライナ語の文法書を膝に乗せたまま微睡んでいた。24歳、モスクワ大学数学科を首席で卒業したばかりの、システム分析の研究生。彼はまだKGBの人間ではなかった。国家の嘘を設計する技術も、世論を反転させる手口も、この時点では知らなかった。


プリピャチに来たのは、妹のアーニャのせいだった。


アーニャ・シャポシニコワ、21歳。チェルノブイリ原子力発電所の計装制御担当技術者。優秀さという点では兄に劣らなかったが、兄と違って人を愛することができた。職場の同僚たちと笑い、居残り残業を厭わず、週末には地元の子供たちに算数を教えた。


「お兄ちゃんは数字しか愛せないんだから」と彼女はよく言った。「私が人間の分まで愛してあげる」

その妹が、3カ月前から妙なことを言い続けていた。


「誰かが炉の近くをうろついている。外部の人間かもしれない」


電話口でのアーニャの声は、いつもの快活さが削れていた。だがレフには、それが事実の報告なのか、過酷な夜勤と閉鎖的な職場が生んだ妄想なのか、判断できなかった。


いや、判断しなかった。


「白衣を着ていたけれど、うちの職員じゃない気がしたの。言葉も変だった。英語みたいに聞こえた。でも、はっきりとは分からない」


レフは一笑に付した。


「見間違いだろう。外国人がどうやってチェルノブイリに入るんだ。あそこは軍事施設に準じた管理区域だぞ」


「だから怖いんじゃない」


それきり、しばらくアーニャからの連絡が途絶えた。レフは不安になり、プリピャチまで電車と長距離バスを乗り継いで来た。それが4月25日の夕方のことだった。


夕食のあと、宿の近くの小さな公園を、アーニャと2人で歩いた。街灯の下に、白い花が咲いていた。名前は知らなかった。


「これ、何の花だ」とレフは聞いた。


アーニャは屈み込んで、匂いを嗅いだ。


「ジャスミンよ」


――後年、それが本当にジャスミンだったのか、レフには確かめる術がなかった。プリピャチの4月にジャスミンが咲くはずはない。しかしアーニャはそう呼んだ。


「この街にはたくさん咲くの。夜になると香りが強くなる。私、この花が一番好き」


「覚えておこう」


「覚えなくていい」とアーニャは笑った。「お兄ちゃんは数字しか覚えない人だから。私が代わりに覚えてる」


街灯の白い光。妹の横顔。花の匂い。


レフは何一つ、書き留めなかった。


翌26日の午前1時、彼は妹の部屋に行くつもりだった。しかし疲れが勝った。ベッドに横になったまま、文法書を胸の上に伏せ、眠りかけていた。


その瞬間、窓の外が白くなった。


夜明けではない。北西の空が、太陽より明るい何かで、一点だけ爆発的に白く燃え上がった。一拍の静寂。それから轟音が来た。地球そのものが咳き込んだような、低く、腹の底に響く音。続いて2つ目の爆発。オレンジと青白い光が混ざり合った。


「アーニャ!」


叫びながら走った。階段を3段飛ばしで駆け下り、夜の外気に飛び出した。プリピャチの街はまだ眠っていた。路上に人影はなく、犬1匹いなかった。北西の空だけが燃えていた。


発電所までは直線距離で3キロ弱。その距離でも、爆風の余波が大気をざわめかせているのがわかった。

走った。


肺が焼けるような感覚は、後から思えば、全力疾走のせいだけではなかったかもしれない。あの夜のプリピャチの空気には、後年知ることになるが、無色の粉が混ざり始めていた。走る男の肺を、細胞を、遺伝子を傷つけながら、夜の大気に溶け込んでいた。


発電所の正門まであと500メートルというところで、レフは制止された。


「止まれ! 動くな!」

自動小銃を構えた警備兵が2人、闇の中から飛び出してきた。顔が青ざめていた。彼らもまだ何が起きたか理解していなかった。ただ、訓練の反射が彼らの足を動かしていた。


「妹が中にいる!」とレフは叫んだ。「アーニャ・シャポシニコワだ、計装制御部門の技術者だ! 今夜は夜勤のはずだ!」


「入れない。命令だ。誰も入れるな」


「馬鹿を言うな! 中で人が死ぬぞ!」


警備兵の1人がレフの胸倉を掴み、地面に叩きつけた。顎を打ち、星が散った。それでも起き上がろうとしたが、銃床が肩に叩き込まれ、今度は動けなくなった。


レフは砂利の上に顔を伏せたまま、燃える発電所を見ていた。あの中にアーニャがいる。あの白い炎の中に。


消防車が到着し始めた。赤いランプが回り、無線が喚き、消防士たちが建物に向かって走っていった。彼らはまだ何も知らなかった。放射線防護服も着けずに、彼らは走っていった。


アーニャに会えたのは、48時間後だった。


彼女は第6病院――モスクワの、放射線被曝患者専門の施設に搬送されていた。輸送は軍の管理下で行われ、レフが妹の所在を突き止めるまでに丸2日かかった。KGBの検問、病院のセキュリティ、軍の情報統制――ソ連という国家機構の全てが、チェルノブイリで何が起きたかを外部に漏らさないために機能していた。


病室のドアを開けたとき、レフは喉が詰まって声が出なかった。


アーニャは、アーニャではなくなっていた。


皮膚が剥けていた。文字通り、顔の皮膚が剥落しつつあった。手の甲は水ぶくれで覆われ、いくつかは破れて滲出液が滲んでいた。髪の毛は枕に半分近く落ちていた。21歳の若い女の顔が、一昼夜でこれほど変貌するということを、レフはその日まで知らなかった。


「レフ」


声は出た。細く、かすれていたが、確かにアーニャの声だった。


「来てくれた」


「当たり前だ」とレフは言った。椅子を引いてベッドの横に座った。手を握ろうとして、アーニャの手の状態を見て、そっと手首の内側だけに触れた。


「痛くないか」


「痛い。でも、いい」


しばらく2人は黙っていた。点滴の滴下音。廊下の足音。どこか遠くで誰かが嗚咽していた。


「ねえ、レフ。窓辺に、花を置いてほしい」


「花?」


「白い花なら、なんでも」


「探してくる」


「今じゃなくていい。あとで、いつか」


しばらくの沈黙のあと、アーニャがもう一度口を開いた。


「私、見たの。爆発の直前に」


レフは椅子に座り直した。


「男が2人いた。英語を話す男たち。ずっと不審に思ってたあの人たちよ」


「それは――」


「聞いて」アーニャの声に力が入った。咳き込み、痰を飲み込み、それでも続けた。「試験前の夜勤中に、4号炉の近くで見たの。誰かがいた。何かを運んでいた。箱みたいなもの。設備なのか、工具なのか、私には分からなかった」


「アーニャ」


「事故じゃない」と彼女は言った。


その言葉は、静かに、しかし確実に、レフの脳に刻み込まれた。


「あれは、誰かにやられた」


急性放射線症候群。推定被曝線量、6グレイ。致死量を超える数値だった。


主治医は淡々と告げた。レフは病院の廊下で1時間、壁にもたれて立ち尽くした。泣かなかった。涙というものが、感情の出力経路として機能を停止していた。代わりに、何か別のものが体の中央に生まれていた。ゆっくりと、確実に、固まっていくもの。


その日から、レフは妹の言葉を調べ始めた。


最初の1年、彼は真実を探していた。2年目、彼は真実が存在しない可能性に気づいた。3年目、彼はチェルノブイリが事故だったことを理解した。設計欠陥、運転手順違反、隠蔽、官僚制の怠慢。妹を殺したものは、外国の工作員ではなく、誰の顔も持たない巨大な仕組みだった。


それは、あまりにも救いがなかった。


誰も罰せられない。誰も裁かれない。責任は報告書の脚注に分解され、数字になり、会議室の灰皿の中へ消える。アーニャの最後の言葉だけが、世界から取り残される。


ならば。


アーニャは間違っていた。だが、その間違いを、間違いのまま世界に置き去りにするわけにはいかない。

真実がアーニャを救わなかった。なら、真実に義理はない。


1987年3月。レフ・シャポシニコフはKGBに入局した。


窓辺に白い花を届けることは、ついにできないままだった。

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