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聖者の夜は、あまりに孤独で騒がしい

佐藤くんと出会ってから、私の日常には少しだけ変化が訪れた。

彼だけは、私を前にしても椅子から落ちない。


あの日、彼が口にした「ずっと、……集中していただけだ」という言葉。

そして、あの鼻を突くような「塩素」と「ハッカ」の匂い。


この異常な世界で、私を視界に入れても平然としていられる人間。

それは、私にとって「未知の生態を持つ個体」との遭遇に近い。


今朝、私が校門をくぐると、ちょうど植え込みの影から佐藤くんが出てくるところだった。

彼の目は、まるで深海魚のように濁りきり、凄絶な疲弊が全身から漂っている。

彼は手にしていた重たげな黒いビニール袋を、校門近くのゴミ箱へ迷いなく放り捨てると、私に気づいてゆっくりと首を動かした。


「おはよう、佐藤くん。……なんだか、昨日よりずっと疲れているみたい」


「……ああ。……今さっきまで、……自分を、……追い込んでいた。……これで、……ようやくゼロだ……」


佐藤くんは、ひどく掠れた声で答えた。

彼が言うには、私と「普通」に接するコンディションを作るためには、直前の極限までの「集中」が必要なのだという。

学校のどこか静かな場所で、彼は私の残像と戦い、脳がそれに対して完全に無反応になるまで、限界まで「空にする作業」を完遂してから私の前に現れる。


「……五回、……いや、六回か。……一滴でも残せば、……お前の前には、……立てない……」


佐藤くんは、絞り出すような声でそう付け加えた。

私には、彼が何を「一滴も残さない」ようにしているのか、正確なところは分からない。

ただ、ゴミ箱に捨てられたあの袋の重みが、彼が今朝、私と出会うために削り出した情熱の質量なのだということだけは、なんとなく察することができた。


今の彼は、まるで魂が抜け落ちた殻のようだ。

あまりにボロボロな彼を見て、私は昨日、母が「疲れによく効くから」と冷蔵庫に入れていた飲み物を差し出した。


「これ、よかったら。……すごく元気になるお薬なんだって。あまり無理をしないで」


私が手渡したのは、金色のパッケージに『みなぎる自信!』と書かれた、高濃度ミネラル配合の滋養強壮ドリンク。 佐藤くんの顔が、一瞬で凍りついた。

その目は、まるで死刑宣告を受けた囚人のように見開かれ、唇が小刻みに震えている。


「……一ノ瀬。……お前、……俺を、……殺す気か……?」


「え……? 元気がつくって聞いたんだけど……」


「……いや、いい。……これも、……試練か。……受けて立つ……ッ!」


彼は悲壮な決意を込めて、そのドリンクを一気に飲み干した。

その直後、彼の身体の奥底から、かつてない不穏な「震え」が伝わってきた。


せっかく捨てて「ゼロ」にしたはずのものが、内側から猛烈な勢いで再生産され、せき止められなくなったダムのように溢れ出そうとしている……。

そんな錯覚を覚えるほどの、強烈な生命力の胎動。


「……くそ、……補充が、……早すぎる……ッ!」


彼は股間を強く押さえ、脂汗を流しながら、よろめく足取りで校舎へと向かった。

私は、良かれと思って渡した飲み物が、彼が命懸けで作った「聖者の静寂」を、一瞬で地獄の奔流へと変えてしまったことに、まだ気づいていなかった。

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