その人は、賢者の瞳で現れた
鏡に映る自分を見る時間は、私にとって最も「無」に近いひとときだ。
そこには、少し整った顔立ちをした女子高生が一人、淡々と身支度を整えているだけ。
自分自身の姿で動緯することはないし、同性の友人と接していても、世界は至って静かに、あるべき形を保っている。
けれど、一歩外に出れば、私は「世界を壊すバグ」として機能し始める。
私の名前は、一ノ瀬凛。
私の容姿は、ある種の「光学的ハッキングコード」だった。
私の肌が反射する光、瞳の虹彩、骨格の黄金比――それらが「男性」という生物の視神経を通過した瞬間、脳内の性的対象認識システムが強制的にオーバーロードを起こす。
本能が「この個体との交配を逃してはならない」と誤作動し、理性が介入する隙すら与えず、射精中枢を直接叩くのだ。
朝の路線バスは、もはや私にとって慣れ親しんだ無機質な光景の一部だ。
密閉された車内に私が入った瞬間、空気の密度が変わる。
吊革を掴んでいたサラリーマンが、ふっと力を抜いて膝を折る。 スマホを操作していた大学生が、浅い吐息と共に項垂れる。
叫び声も、混乱もない。
ただ、波が引くように彼らから活気が失われ、代わりに「事後」の気だるい沈黙が充満する。
やがて、車内には独特の「におい」が停滞し始める。
潮風を煮詰めたような、あるいは生温い海産物のような、あの――俗に「イカ臭い」と形容される、生々しい生命の残り香。
以前はこれを不快に感じたこともあったけれど、今はもう、雨の日のアスファルトの匂いと同じくらい、避けられない季節現象のように受け入れている。
女子生徒や女性客は「今日も一ノ瀬さんは綺麗ね」と平然としているが、その隣で男性たちが一瞬で「賢者」という名の抜け殻に変わっていく。
その断絶こそが、私の世界の境界線だった。
学校についても、景色は変わらなかった。
教室のドアを開けると、熱気と共にあの鼻を突く匂いが出迎えてくれる。
男子生徒たちは皆、机に突っ伏すか、焦点の合わない目で天井を眺めていた。
私の登校は、彼らにとっての「一日の終わり」を意味していた。
――けれど、その日は違った。
一番後ろの窓際の席。
そこには、いつもと変わらぬ「無」の表情で、教科書をめくっている男子生徒がいた。
佐藤くん。
目立たず、成績も普通。 ただ、「死んだ魚のような目」をしていた。
私が彼の視界に入っても、彼は椅子から落ちなかった。
それどころか、彼はゆっくりと顔を上げ、私を真っ向から見つめた。
「……あ。一ノ瀬か。おはよう」
心臓が跳ねた。
私に向けられた、明確な意志のある声。
驚きと共に彼に一歩近づいたとき、私の鼻腔をかすめたのは、あの「イカ臭さ」ではなかった。
代わりに漂ってきたのは、鼻の奥がひりつくような、刺すような「清潔さ」の匂い。
それは、彼が自らの本能を焼き切るために行った、凄絶な「儀式」の残香だった。
彼は登校直前まで、私の写真を凝視しながら己を限界まで追い込み、その痕跡を抹消するために、塩素とハッカを自らの身に直接浴びせているのだ。
あまりに強い刺激に、彼の肌は赤らみ、呼吸さえも少し苦しそうに見える。
「佐藤くん……? あなた、私を見て、大丈夫なの?」
「……大丈夫だ。気にするな。……ただ、少し、体が重いだけだ」
彼は立ち上がろうとしたが、まるで魂がどこかへ抜けてしまったかのように、たどたどしい動作で再び椅子に沈んだ。
「顔色が真っ白よ。……なんだか、昨日よりずっと痩せているみたいだし」
「……ずっと、……集中していただけだ。……代謝が、……激しくてな……」
佐藤くんの声は掠れていた。
私には分かった。
彼は私という存在を前にしてなお、自らの本能を独自の規律で押さえ込んでいるのだ。
あの匂いは、彼が私を「一人の人間」として見ようとする、血の滲むような理性の証。
その深く沈んだ瞳は、彼が私という存在を受け止めるために、その身を削り、すべてを出し尽くして耐え忍んでいる、魂の境地に違いない。
一ノ瀬凛と佐藤くん。
何も知らない少女と、すべてを出し尽くしてなお彼女の前に立つ少年の、歪な朝が始まった。




