静寂の終わりと、小さな綻び
嵐が去った翌朝、部屋には雨上がりの湿った空気と、昨夜の熱の残り香が漂っていた。
佐藤くんの熱は下がり、その頬には平穏な赤みが戻っていたけれど、二人の間の距離感は昨日までとは決定的に異なっていた。
「……一ノ瀬、昨夜は本当に、ありがとう。……俺、お前にあんなことまで……」
彼は昨夜の記憶を反芻するように言葉を濁し、気まずそうに、けれど慈しむような目で私を見つめた。
私は彼に差し出すための白湯を用意しながら、自分の中に生まれた変化を自覚していた。
今までは「美しさという病」を共有する唯一の理解者として彼を見ていたけれど、昨夜、私の腕の中で震えていた彼は、もっと一人の血の通った人間として愛おしく感じられた。
彼が私を必要とし、私が彼を守る。 その小さな、けれど強固な関係だけが、私の世界のすべてであるかのように思えた。
だが、そんな平穏を打ち消すように、スマートフォンの通知が異常な速度で鳴り始めた。
SNSのタイムラインは、昨夜の嵐の中で誰かが撮影した、私と佐藤くんのぼやけた写真で埋め尽くされていた。
『雨の中にいた絶世の美女』
そんな見出しと共に、私の素性が、まるでパズルのピースを埋めるように特定され始めていた。
「……一ノ瀬、これを見ろ。……隠し撮りされただけじゃない。……不自然なほど拡散が早すぎる」
佐藤くんが差し出した画面には、私の登下校のルートや、よく利用する図書室の場所までもが詳細に記されていた。
それは単なるファンの暴走ではなく、誰かが意図的に情報を流し、私を社会的に「包囲」しようとしているかのようだった。
昼過ぎ、窓の外を見ると、住宅街には似つかわしくない黒塗りの車が数台、音もなく停まっているのが見えた。
彼らは中に入ってくるわけでもなく、ただ一定の距離を保ちながら、私の部屋を監視し続けている。
「観察されているのは、私だけじゃないわね。……佐藤くん、あなたもよ」
彼らが狙っているのは、単なる美貌の少女ではなく、その影響力を完全にコントロール下に置くことなのだと、本能が告げていた。
佐藤くんは私の手を強く握り、窓の外の影を見据えて低く呟いた。
「……お前を、どこにも行かせたくない。……でも、ここももう安全じゃないみたいだ」
昨日までのように、ただ二人で静かに過ごす日常が、音を立てて崩れ落ちていく。
私たちは、自分たちが知らぬ間に、世界という大きな舞台のチェス盤の上に立たされていたのだ。




