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今日も一日、何事もなかったな。
砦の見回りを終え、コーレイ・バーグスはあくびをかみ殺した。
後ろには、二人一組で今日の担当になった、ナビル・マディがついてきていた。癖のある黒髪を短く刈り込んだ20歳の青年は、ついこの間この砦に配属されてきた。仕事を覚えるため、自分のようなベテランと組まされているのだろう。
49歳。兵士としてはもうすでに老境に入っていた。30年以上、このマルデ王国のために尽くしてきた。未だに兵士にとどまっているのは、40になってからできた末の娘が成人するまでは、と思っているからだ。
髪の毛にも、髭にも白いものが目立つようになり、訓練では若い者に打ちのめされることも多くなった。それでも辞めようと思わないのは、王国軍の給料が保証されていることと、この50年、他国との戦争がないということに尽きる。訓練は厳しいのだが、実際に命を落とすことはなかった。
このペロリ砦も、ブルクス宗主国との国境争いのために建てられ、実際に数キロ先にはブルクスの軍隊が、こちらと同じように彼らの砦にこもっていた。だが実際は小競り合いすら起きていない。お互いにその存在を意識しながらも、それぞれ自国の訓練にのみ精を出している。
すでに大分、その姿を地平に隠している夕日を眺めながら、次の帰郷はいつだったかと考える。ここに派遣されてからすでに半年が経過されていた。まとまった休暇が取れるのは、おそらく来年になるだろう。
「それにしても、この見回りって意味があるんすかね。だってブルクスのやつら、絶対攻めてこないじゃないですか」
「そういうな。皆同じことを思ってるんだ。というか、おそらく向こうもそう思ってるだろう」
「お互い両想いなら、もうこの地域は平和になったようなもんじゃないですか。無駄なことやめましょうよ」
「両想いって、そんな時に使う言葉だったか? まあそんなことはいい、お互いそう思ってはいても、口には出せないからな。俺たちが引いたとして、その隙に向こうが攻めてきたら取り返しがつかないだろ、ここは、そんなことをずっと続けてる場所なのさ」
「人間って、愚かですねえ」
「俺もお前も人間だ。こればっかりは、仕方ないんだろうさ」
夕日はすでにその姿をほぼ地平に沈めていた。代わりに、月がその姿を誇るように昇っている。満月にほど近い、明るい大きな月だ。遠くまで、良く見える。
ナビルの愚痴を聞きながら、俺も若いころは同じことを思っていたな、と頭の片隅で考える。俺の場合は、ギブソン選帝侯国との間にある国境でそれを感じたものだ。プリン帝国の属国である選帝侯国とは、この数十年不倶戴天の間柄であり、ここと同様にお互いがお互いを意識して軍を展開している。
ナビルは、俺のように軍にしがみつくのだろうか。それとも、どこかのタイミングでフラッと辞めてしまうのだろうか。俺たち平兵士には出世の見込みはない。己の力にある程度の自信があるような連中は、途中で冒険者になることも多かった。
そろそろ戻ろうか、と言いかけて、コーレイが足を止めた。
「……待て。なんだ、あれは?」
「何ですか?」
ナビルが不思議そうに聞いてくるが、コーレイは答えず、手持ちの双眼鏡を取り出した。ブルクスの方から、砂埃が見えたのだ。双眼鏡を目に持っていき、そして絶句する。
「……嘘だろ」
コーレイのただ事ではない様子に、ナビルも慌てて双眼鏡を取り出す。
目に映ったのは、大量のオークだった。数千はいるであろう、体長2メートル程の魔物が、ひしめき合うようにしてこちらへ向かってくる。
「ブルクスのやつら、魔物と手を組んだのか?」
「……いや、状況はもっと悪いようっス。ブルクスの方面から、明らかに不自然な黒煙が上がってますから。おそらく、あいつらに落とされたんじゃないっすかね」
「急げ。狼煙の準備だ。鐘を鳴らせ! 司令官に連絡だ!」
慌てた様子で、ナビルが駆けていく。コーレイは、震える身体を抱きしめるようにして立っていた。三十数年の兵士生活で、初の実戦。まさか、相手は人間ではなくオークだとは。
まもなく、砦中に鐘の音が響き、緊急事態を知らせる赤い狼煙が上がった。兵士たちがあちらこちらと動き回る。城壁は15メートルほどあり、その厚さは2メートルを超える。おそらく数日は持ちこたえることができるだろう。その間に、あの数千ものオークを討ち取らなければならない。
詰め所に駆けこむと、すでに多くの兵士が鎧を身に着けていた。コーレイ自身は見回りのため、すでに槍と鎧を装備している。自分の兜をかぶると、砦の中にある広場へと向かった。
百名単位で方陣を組んでいる隊列のうち、あらかじめ決められた21組に入る。この砦には全体で3千人の兵士がおり、組ごとに受け持つ役割が異なっていた。21組は、城壁の上で弩を撃ち、熱した油や石などで、相手が城壁に昇ってくることを防ぐ担当である。
広場から見える司令官室に、砦の司令官が現れた。率いる軍勢を強化する『スキル』の持ち主だという噂を聞いたことがある。この世界の神が与えたもうた『スキル』は、個人によって違い、それによって人生が決まるといっても過言ではない。
コーレイのスキルは2つ。『乱れ突き』と『パリイング』である。どちらも、英雄として成り上がるには物足りないものだが、本人は満足していた。こうして今まで生きてこれているし、子供も3人ほどいる。幸せなものだ。
司令官が、スキルを使っているのか、良く通る声で、告げる。
「本日この砦に、ブルクス方面からオークの軍勢が向かっているとの報告があった」
緊張感が、兵士の間に走る。
「残念ながら、それは事実だ。今現在、5千を超えると推定されるオークの軍勢は、着実にここへと向かっている。このままだと、あと2時間でこのペロリ砦へと到着するだろう」
無駄口をたたく兵士は一人もいない。皆、司令官の言葉に聞き入っている。不思議と不安は感じなかった。
「だが、我々はこの日のために訓練を行ってきた。恐れることはない。相手はたかがオークだ。我々にかかれば、この程度の魔物、1万でも少ないくらいだ。理性のない獣どもに、知恵と力と規律の力を見せてやろうではないか!」
体の奥から、力が湧いてくる。そうだ。オークごとき、何するものぞ。俺たちは強い。あれだけの訓練を乗り越えてきた。やれる。きっとやれる。
「行くぞ諸君! 獣どもに恐怖を教えてやれ!」
知らず、雄叫びを上げていた。コーレイだけではない。ナビルも、同室のホンドも、誰もかれもが皆、拳を突き上げ叫んでいた。
司令官が部屋の中へと消えていくと、高揚した気分のまま城壁の上へと昇る。弩の準備も油と石の準備も万全だ。来るなら来い。
オークたちは、もう双眼鏡がなくても視認できるようになっていた。
やってやる。
やってやるぞ。
人間の力を見せてやる。
度を握りしめ、コーレイは強くそう思った。ふと、頭の片隅に、今年8歳になる末娘の笑顔が浮かぶ。今度の休暇には、たくさんの自慢話と、抱えきれないほどのお土産を手に帰ろう。これを乗り切れば、おそらく給金もたくさん出ることだろう。あいつは何を喜ぶだろうか。1年近くも会えないと、あの年頃の子はすぐに大きくなるから。
あらかじめ定められた配置につくと、双眼鏡を取り出した。ちらりとだが、人間のような姿が見えた気がして、慌てて探す。もう見つかりはしなかった。気のせいだろうか。
轟音が響いた。
本日から新章となります。
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