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6話 水面下の思考

 五月一日。



 ブレスラウ軍役所の一角には、日中の暖かい空気が残っていた。



 廊下を行き交う兵士たちの足音。



 遠くから聞こえる怒鳴り声。



 書類を運ぶ音。



 戦時下の都市は、一向に静かにはならない。



 エリアスは一人で廊下を歩いていた。



 手には、小さな花を一輪だけ持っている。



 朝、クレールのご飯を食べてから、街の片隅で買ったものだった。



 何となく、持っていたかった。



 病室の扉の前で立ち止まる。



 軽く二度、扉を叩いた。



「……入ります」



「どうぞ」



 ユリウスの声が返ってきた。



 扉を開ける。



 簡素な病室だった。



 窓際に小さな机があり、その横に寝台が置かれている。



 ユリウスは上半身を起こし、窓の外を眺めていた。



 腹部にはまだ包帯が巻かれている。



「おはようございます」



「おはよう、エリアス君」



 ユリウスはいつものように笑った。



 だが、その笑顔は少しだけ弱かった。



「……具合は?」



「昨日よりはいいよ」



「そうですか」



 エリアスは椅子を引き、寝台の横に座る。



 しばらく何を話せばいいのか分からなかった。



 ユリウスも黙っていた。



 窓の外から、馬車の音が聞こえる。



 やがて、ユリウスが口を開いた。



「昨日の兵士のことなんだけど」



 エリアスの指が止まる。



「あの人を、運んでくれたんだってな」



「……はい」



「墓も作ったんだってな」



「はい」



 ユリウスは小さく息を吐いた。



 しばらく窓の外を見つめる。



「……俺は、何もできなかった」



 エリアスが顔を上げる。



「そんなこと――」



「いや」



 ユリウスは首を横に振った。



「俺を庇ってくれたのに、俺はあいつの名前すら知らない」



 拳を握る。



「どこから来たのかも知らない。家族がいたのかも分からない」



 声は静かだった。



 しかし、その静けさの奥に悔しさが滲んでいる。



「少尉……」



「俺は軍人だ」



 ユリウスは自分に言い聞かせるように呟いた。



「仲間を守るために、軍人になったつもりだった」



 一度、言葉を切る。



「なのに、守られた」



「……」



「しかも、死んだ仲間を置いて帰った」



 エリアスは黙った。



 あの森が脳裏に蘇る。



 倒れた兵士。



 血に濡れた制服。



 自分が抱え上げた、あの身体の重さ。



「だから、ありがとう」



 ユリウスが言った。



「え……」



「連れて帰ってくれて」



 その目は、まっすぐエリアスを見ていた。



「あいつが誰なのか、俺は最後まで分からないままだった」



 ユリウスは苦笑する。



「でも、少なくとも墓はある」



 エリアスは持っていた花を見た。



「……僕も、名前も知らない人だったんですが」



「だからだよ」



 ユリウスが答えた。



「名前が分からないからって、いなかったことにはできない」



 エリアスは、しばらく何も言えなかった。



 その言葉が胸の奥へ静かに落ちていく。



「君は、変わったな」



 ユリウスが言った。



「え?」



「いや」



 ユリウスは少しだけ笑う。



「最初に会った時は、まだ戦場を知らない顔をしていた」



 窓の外へ視線を戻す。



「今は……少しだけ兵士の顔をしている」



 エリアスは返事をしなかった。



 兵士。



 その言葉が、まだ自分には重かった。



 自分だって、村を、母を見捨てた。



 士官学校も卒業していないのに、はたして一人前の兵士と言えるだろうか。



「そういえば」



 エリアスはとっさに話題を変えた。



「昨日の女兵士のこと、考えたんですが……」



 ユリウスの眼光が一瞬だけ鋭くなった。が、すぐに柔和な表情を浮かべる。



「何か気づいたことでも?」



「ロシア兵なのに、ドイツ語で僕たちと会話できていました」



 ユリウスは思い出そうとするように頭に指をあてる。



「彼女は、もしかするとロシア人ではないかもしれない」



「え?」



「ロシア軍には異民族がたくさんいるからな。この辺りなら、スロヴァキアかポーランド系だろうな」



 エリアスは眉を寄せた。



「ポーランドでしょうか……」



「確かに、ポーランド地域は300年前に王朝が倒れて以来、国境が何度も動いてきた場所だ」



 ユリウスは淡々と説明した。



「国家と民族の境目が一致しない地域では、多言語を話せる人間も珍しくない」



「だから、ドイツ語があれだけ上手かった?」



「それだけじゃない」



 ユリウスは紙を指で叩く。



「奴のドイツ語は、外国人が覚えたものには聞こえなかった」



 エリアスも昨日の会話を思い出す。



 ズラータが、農民として話していた時。



 軍人として話していた時。



 どちらも自然だった。



「もし彼女が国境地域のポーランド系で、ドイツに反感を持っていたなら……」



「ロシア軍に協力する理由になる」



 エリアスが続けた。



「そう」



 ユリウスは頷いた。



「もちろん推測だ。証拠はない」



「でも……」



 エリアスは窓の外を見た。



 その先には東へ続く街道がある。



 ズラータが向かった先も、そこだった。



「……あの人が、ただのロシア兵じゃないことだけは確かですよね」



「俺もそう思う」



 ユリウスの表情が曇る。



「それに、あの紋章だ」



 エリアスは思い出す。



 金色の双頭の鷲。



 あれだけは、どうしても頭から離れなかった。



「ハプスブルク……」



「ロシアの紋章とも似ている」



 ユリウスが呟いた瞬間。



 廊下の向こうから、激しい足音が聞こえた。



 何人もの人間が走っている。



 病室の中にも、その緊張が伝わってきた。



 ユリウスが顔を上げる。



「……何かあったな」



 


ーーー




 その頃。



 ブレスラウ軍役所の会議室では、激論が続いていた。



 長い机の上には、東部戦線の地図が広げられている。



 赤と青の印や、黒い線。



 将校らが自主的に付け足している。



 シュタインが地図の一点を指していた。



「敵はここまで伸びている」



「だからこそです」



 別の将校が言う。



「これ以上進ませれば、補給線は――」



「問題は、その前にこちらが動けるかだ」



 シュタインが遮った。



「第三機動部隊を投入すれば、突破口を開けます」



「七千対三万ですよ」



「敵は三万が一箇所にまとまっているわけではない」



「それでも危険すぎる」



 議論は堂々巡りになっていた。



 ファルケは、ずっと黙っていた。



 椅子に座り、地図を眺めている。



 アーデルも正面に座り、いつもの気の抜けた表情はなかった。



 やがて、扉が勢いよく開く。



 一人の伝令が飛び込んできた。



「失礼します!」



 全員が振り返る。



 伝令は息を整える間もなく敬礼した。



「緊急報告です!」



「言え」



 アーデルが短く返す。



「北東方面軍より入電」



 伝令の声が震える。



「ケーニヒスベルクが陥落しました」



 部屋の空気が止まった。



 誰も何も言わない。



 シュタインの眉が動いた。



 アーデルは地図を見たままだった。



「……いつだ」



「今朝未明とのことです」



「守備隊は」



「後退作戦に失敗。兵の大半を喪失したとの報告です」



 アーデルは目を閉じる。



 だが伝令は一度息を飲んだ。



「もう一件」



 全員が顔を上げる。



「中部のプロシア軍からです」



 嫌な予感が走った。



「ポズナンも、陥落しました」



 今度こそ、部屋は完全な沈黙に包まれた。



 シュタインが地図を見る。



 ブレスラウの北。



 西寄りの東部戦線。



 二つの重要都市に、ロシア軍の印が付くことになる。



「……ありえん」



 誰かが呟いた。



 アーデルはゆっくり立ち上がった。



 その顔から、完全に笑みが消えていた。



「反撃作戦は中止する」



 シュタインが振り返る。



「閣下?」



「出撃を見送る」



「しかし――」



「大将命令だ」



 その声には、一切の余地がなかった。



「確定した東方反攻は全て中止」



「閣下!」



 シュタインが一歩前へ出る。



「今だからこそ、敵の分断を――」



「ケーニヒスベルクが落ちた」



「ですが!」



「ポズナンもだ」



 アーデルの声が低くなる。



「今までの情報を前提にした作戦を、今日も続ける理由はない」



 アーデルは地図を指しシュタインを制する。



「我々が見ている敵の配置は、もう古い」



 その指が止まる。



「ロシア軍は、我々が思っていたより速い」



 誰も口を挟まなかった。



「そして、強い」



 アーデルは地図から手を離した。



「出撃は見送る。各部隊へ伝達しろ」



「……了解しました」



 シュタインが答える。



 アーデルはそのまま踵を返した。



「閣下?」



 ファルケが呼ぶ。



 だが返事はなかった。



 アーデルは扉を開け、そのまま部屋を出ていった。



 扉が勝手に閉まる。



「…………」



 誰も動かなかった。



 数秒後。



「……なんだ、あれは」



 将校の一人が呟いた。



「彼は、本当に戦う気があるのか?」



数人が頭を抱える。



「こっちは命令を伝えられたと思ったら、本人が先に帰るのか?」



「ファルケ中佐」



 別の男が振り向く。



「閣下はいつもああなのか?」



 ファルケは疲れたように息を吐いた。



「……だいたい、そうです」



「だいたい?」



「決断する時だけ異常に早いんですよ」



「何だそれは」



「私に聞かないでください」



「貴様は副官だろう!」



「副官だからといって、閣下の頭の中まで分かるわけじゃありません!」



 「職務怠慢ではないか!!」



 声が重なり始める。



 「どうして私に八つ当たりするんですか……」



 その様子を、シュタインは黙って見ていた。



 そして、小さくため息をついた。



「……昔から変わらんな」



「何がです?」



「アーデルだ」



 シュタインは立ち上がった。



「昔から、あいつは自分で答えを出した後、一人になる」



「一人に?」



「ああ」



 シュタインは部屋を出て、廊下へ出る。



 軍役所の建物は、いつも以上に騒がしかった。



 伝令が走り、兵士が書類を抱えて走り抜ける。



 誰もが東の戦線を意識していた。



 シュタインは何となく歩き続ける。



 その時だった。



 病室の扉が少し開いているのに気づいた。



 中から声が聞こえる。



「……この人も連れて帰ったんです」



 若い男の声。



 シュタインは足を止めた。



 少しだけ扉を開ける。



 そこにいたのは寝台に一人とその横に一人。



 ユリウスとエリアスだった。



 シュタインの視線が、エリアスの手元へ落ちる。



 小さな花。



「失礼する」



 エリアスが振り返る。



「あなたは……」



「ヴィルヘルム・フォン・シュタイン中将だ」



 エリアスは姿勢を正した。



「し、失礼しました!」



「気にするな」



 シュタインは病室へ入った。



 ユリウスが軽く頭を下げる。



「中将」



「負傷したのか?」



 シュタインはユリウスを見た。



「敵の先遣隊にやられました」



「そうか」



 それから一つため息をついた。



「ロシア軍はすぐそこまで迫っているのか?」



「……少なくとも、一部は」



「速いな」



『ロシア軍は、我々が思っていたより速い』



シュタインの脳裏に、アーデルの言葉が重なる。



「何人やられたのかね?」



彼は振り払うように、エリアスを見やる。



「兵士が一人ですが……」



エリアスはきょとんとしたが、すぐに感情を排しそのまま答えた。



「一人だけ?」



「はい」



「死体はどこに?まさか捕虜にでもなったのではないだろうな?」




シュタインの声に怒気が混ざった。



ユリウスがエリアスをうかがう。



「……ここまで運んで、埋葬しました」



 シュタインはエリアスをしばらく見つめた。



「知り合いだったのか?」



「いえ……」



「それでも?」



「置いていけなかったからです」」



 シュタインが目を細めた。



「そうか」



 その声には、先ほどの高ぶりはなかった。



「もしそれが本当なら、兵士一人一人のことを考えているのだな」



 エリアスは戸惑った。



「そんな、大したことでは……」



「大したことだ。戦場では、人間はすぐ数字になる」



 窓の外を見る。ブレスラウの街並みの一部が一望できる。



「五百。七千。三万」



 その言葉が、エリアスの胸に確かに刺さったような気がした。



「指揮官は、それを見なければならない」



 シュタインは続けた。



「だが、数字だけを見るようになれば、兵士を失う痛みも分からなくなる」



 エリアスは黙っていた。



「君は、それができないらしい」



「……」



「それは軍人として弱さになるかもしれん」



 ユリウスが少しだけ眉を動かした。



 だがシュタインは続ける。



「しかし、強さにもなる」



 シュタインはエリアスの目を見る。



「兵士一人一人を見られる人間は、兵士にも見られる」



 一瞬、病室が静かになった。



「良い軍人になれるかもしれんな」



 エリアスは、返事をすることができなかった。



 シュタインはそれ以上言わず、踵を返す。



 病室を出て、廊下をしばらく歩いてから、立ち止まる。



「……アーデルの奴」



 小さく呟く。



「変な男を部下に持つものだ」




 そのまま、役所の奥へ向かって歩いていく。



 そして、ブレスラウ検問所では。



 第三機動部隊の幕舎では、兵士たちが出撃中止の命令を受け取っていた。



 整備中だった鉄製馬車の周囲にも、人が集まっている。



「中止だと?」



「シュタイン中将は何を考えている」



「いや、大将命令らしい」



「ハプスブルクの、アーデルか?」



「ケーニヒスベルクが落ちたんだろ」



「ポズナンもだ」



 兵士たちの声が飛び交う。



 整備兵たちは仕方なく工具を置いていく。



 鉄の箱が、朝の光を鈍く反射している。



 その前に、一人の青年が立っていた。



 二十歳前後。



 軍服は整っている。



 淡い髪。



 細身の青年は周囲の兵士たちとは違い、出撃中止の報を聞いても表情を変えなかった。



 鋭い目で、小さく笑っていた。


 

「隊長」



 近くの兵士が声をかける。



「どうします?」



 青年は鉄の箱に手を触れる。



「どうする?」



 そして、ゆっくりと笑う。




「決まっているだろ」



 兵士が息を呑む。



「東へ行く」



「ですが、大将命令で――」



「知っている」



 青年は振り返った。



「反撃は見送られた」



「なら……」



「だから何だ?」



 青年の目に、鋭い光が宿る。



「ケーニヒスベルクが落ちた。ポズナンも落ちた」



 ゆっくりと歩きだし、馬の頭に手をかける。



「なら、なおさらここで止まっていられない」



 青年は、不敵に笑った。



「敵がここまで来ているなら――」



 東を向く。



「迎えに行けばいい」



 昼間の風が吹く。



 鉄製馬車の上で、黒と白の旗が揺れた。



 出撃命令はない。



 それでも青年の目には、戦場しか映っていなかった。







【歴史断片・ポーランド人と東方国境】

ポーランド人は、東欧において常に一つの国家だけに属してきたわけではない。


長年にわたる戦争と領土変更によって、ポーランド人の居住地域は複数の国家に分かれている。


そのため、ポーランド系の家系を持ちながらロシア軍に所属する者も、ドイツ軍に所属する者も存在する。


彼らにとって「民族」と「国家」は、必ずしも同じ意味ではなかった。


そして東部国境では、数十年前まで敵国だった土地が、現在では自国領となっていることさえ珍しくない。


国境が変われば、故郷の意味も変わる。

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