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7話 命令の外側

森の中には、朝から風が通っていた。



 枝葉が擦れ合う音が、一定の間隔で聞こえてくる。



 鳥の声は少ない。



 今までなら、もっと騒がしかったのかもしれない。



 ズラータは一本の木の陰に身を伏せていた。



 地面には乾いた落ち葉が重なっている。



 左手で木の幹に触れながら、右手のライフルをゆっくりと持ち上げた。



 照準の先。



 草むらが動いた。



 ズラータの目が細くなる。



 茶色い耳が見えた。



 野ウサギだった。



 警戒するように周囲を見回し、それから草むらの中から少しずつ姿を現していく。



 ズラータはじっと待った。



 撃つなら、もう少し。



 開けた場所に出てくれば、外す可能性も減る。



 銃床が肩に収まり、頬が銃身に触れる。



 呼吸を浅くする。



 指先を引き金の近くへ。



 あと少し。



 ウサギが完全に草むらから出た。



 ズラータの目がわずかに細くなる。



 その瞬間――。



 乾いた銃声が三発、森に響いた。



 ウサギが倒れた。



「……」



 ズラータは動かなかった。



 自分は撃っていない。



 (……まだ引き金を引いていない。では、一体誰が――)



 ゆっくりと横を見る。



 そこには一人の男が立っていた。



 黒い軍服。



 短く整えた淡い髪。 



 右手に拳銃を持ったまま、何事もなかったような顔をしている。



 イリヤ中尉だった。



 ズラータは彼の顔を見る。



 イリヤは足元のウサギを見る。



 もう一度ズラータを見る。



「……」



じーっと。



「……」



「腹が減っているなら、そう言え」



「そういう問題じゃない」



「そうか」



「私が狙っていたんです」



「知っている」



「なら、なぜ撃ったの」



「君より先に撃てたからだ」



「……」



 ズラータは何とも言えない顔になった。



 イリヤはそんな彼女を気にする様子もなく、銃を腰にしまう。



「行くぞ」



「どこへ?」



「司令部だ」



 ズラータの表情が変わる。



「司令部?」



「司令官が、我々を直々に呼んでいる」



「私も?」



「ああ」



「何のために?」



「そこまでは知らん。ただ確かなのは、第三軍の司令部は前線からかなり近いということだけだ」



 イリヤは歩き出した。



 ズラータも後を追う。



 しばらく進んだところで、彼女は足元のウサギを振り返った。



「……せめて私に撃たせてくれてもよかったでしょう」



「次は譲る」



「信用できない」



「そうか」



 森の中を、二人の足音だけが進んでいった。



 やがて、ズラータが口を開く。



「……司令官は、私について何か言っていた?」



「特には」



「本当ですか?」



「本当だ」



「私については?」



 イリヤの歩みが、ほんの少しだけ緩んだ。



「ある程度は知っているだろう」



「……」



「だが、安心しろ」



 イリヤは前を向いたまま言った。



「お前の過去を詮索するつもりはない」



 ズラータの足が止まる。



 イリヤだけが数歩進んでから振り返った。



「今のお前を見ている。それで今は問題ない」



「今は?」



「そうだ」



 意味深な言葉だった。



 ズラータは何か尋ねようとしたが、結局やめた。



 イリヤは再び歩き出した。



「これからも期待しているぞ」



 それだけ言うと、彼は振り返らなかった。



 ズラータはその背中を見つめる。



 知らないのではない。



 知っている。



 なのに、聞かない。



「……気味が悪い」



 小さく呟いた。



 森は何も答えなかった。



              



 ーーー





 同じ日の夜。



 ブレスラウの街には、昼間とは違う空気が流れていた。



 商店の灯り。



 人々の話し声。



 軍人たちの靴音。



 戦争が始まってからも、街そのものが完全に眠ることはない。



 エリアスは売店の前で足を止めた。



「パン、一つ」



 硬貨を置く。



 「はいよ」



 店員から受け取ったパンは、まだ少し温かかった。



 エリアスはそれを手にして歩き出した。



 その時だった。



「ああ」



 聞き覚えのある声。



「君か。ユリウスに預けた、えっーと…」



「……大将?」



 振り返る。



 そこにはアーデルが立っていた。



 軍服姿に土色のコート。



 いつものように、妙に機嫌がよさそうな顔。



「あ、そうだ、エリアス君か。こんばんは」



「こんばんは、じゃないですよ」



「そうか?」



「何をしてるんですか」



「散歩だ」



「……大将が?」



「私だって散歩くらいするぞ」



 エリアスは呆れたようにアーデルを見る。



 だが、不思議と驚ききれなかった。



 この人物なら、本当にやりそうだった。



「君は夕食か」



「はい」



「パンだけ?」



「……はい」



「若いんだから、もっと食べろ」



「大将は?」



「私は昼に食べた」



「今夜は?」



「今から考える」



「……」



 エリアスはそれ以上何も言わなかった。



 二人は並んで歩く。



 「ブレスラウでの生活はどうだ?」



 「……便利な街だと思います」



 「幼馴染との同棲は?」



 「普通ですよ」



 しばらくは、本当にただの雑談だった。



 街の様子。



 兵舎の混雑。



 食料の不足。



 そんな話をしていた。



 だが――。



 遠くから音が聞こえてきた。



 蹄の音。



 車輪の音。



 金属が擦れるような音。



 エリアスが振り返る。



 通りの向こうから、兵士たちが姿を見せた。



 その中央を進んでいるのは、大型の鉄製馬車だった。



 分厚い装甲の箱。



 箱の中には銃を構えた二人の兵士が立っていた。



 二頭の馬に引かれながら、ゆっくりと街路を進んでいる。



 第三機動部隊。



 さらにその後ろには歩兵。



 左右には騎兵。



 その数は決して少なくない。



 街の人間たちも、道を空けながら彼らを見送っていた。



 エリアスは目を凝らす。



 東へ向かっている。



「……あれ」



 隣のアーデルは、何も言わなかった。



 「……………………」



 先ほどまでの笑顔が消えている。



 視線だけが、進んでいく部隊を追っている。



「大将、あれは反攻ですか?」



「……」



「大将はなぜ参加なされないのですか?」



「出撃しろと命じた覚えはない」



「なら、あれは……」



「命令違反だ」



 アーデルの声は静かだった。



「命令は届いていないんですか……?」



「届いている」



「では、どうして」



「無視している」



 エリアスは言葉を失った。



 アーデルは進軍する兵士たちを見つめている。



 怒鳴りもしない。



 拳銃に手を掛けもしない。



 ただ、表情だけが険しくなっていく。



「止める」



 そう言って歩き出した。



「大将?」



「検問所へ行く。指揮官がまだ残っているかもしれない」



「でも、あの規模の部隊を止めるなら――」



「だから私が行く」



 エリアスも慌てて後を追った。



  



ーーー





 ブレスラウ東側の検問所。



 第三機動部隊の幕舎は、出発前の混乱に包まれていた。



 馬の準備。



 弾薬の搬入。



 食料の積載。



 歩兵の編成確認。



 伝令が走り、兵士が怒鳴り、馬具の金具が音を立てる。



 誰もが東を向いていた。



 これから出る。



 その意志だけは、隊全体に共有されているらしかった。



 アーデルは足を止めた。



「ここからは、私が正面に行く」



「僕は?」



「裏へ回れ」



「裏?」



「君は私より警戒されない」



「……」



「私はハプスブルクのアーデル大将だ」



 アーデルは自分を指差した。



「名乗った瞬間、面倒になる」



「だから僕が?」



「そうだ」



 エリアスは周囲を見る。



 士官候補生の自分なら、少なくとも大将のように軍全体を動かす存在とは見なされない。



 しかも今は出発準備の最中。



 人の出入りが激しい。


 

 それなら、いけるかもしれない。



「君は兵士たちの流れに合わせて動け」



 アーデルが言った。



「不自然に隠れるな。むしろ、軍人として自然に歩け」



「分かりました」



「それと、指揮官に会ったら伝えろ」



「何をですか」



「反攻中止命令は既に出ている」



 アーデルは一瞬、エリアスを見る。



「それを伝えるだけでいい」



 そう言って、アーデルは正面へ向かった。



 エリアスは反対側へ回った。



  



ーーー





 検問所の正面。



「止まれ!」



 兵士がアーデルの前に立った。



「所属は?」



「大将」



「は……?」



 兵士たちの表情が変わる。



「ハプスブルク直属、大将アーデルだ」



「存じています」



「指揮官に会わせろ」



「お断りします」



 即答だった。



 アーデルの目が細くなる。



「私が誰か分かっているのか」



「分かっています」



「なら通せ」



「できません」



 別の兵士が口を挟んだ。



「ここは第三機動部隊です。ハプスブルク直属の命令だけで勝手に動ける場所ではありません」



「興味深いな」



 アーデルは微笑んだ。



「では、誰なら通す?」



「シュタイン中将です」



 その返答に、アーデルは少しだけ沈黙した。



「……そうか」



「シュタイン中将なら、我々も従います」



「覚えておこう」



 アーデルは穏やかに答えた。



 兵士たちは警戒を続ける。



 その間にも、背後では兵士たちが東へ向かう準備を続けていた。



 その頃。



 エリアスは補給馬車の列に紛れていた。



 あえて身を隠してはいない。



 同じ軍服を着た兵士たちと同じ方向へ歩いている。



 士官候補生の制服を見ても、誰も大きく反応しない。



 前を歩く兵士が、振り返った。



「君」



「はい」



「どこの所属だ?」



「ドイツ帝国軍です」



「帝国軍のどこだ?」



「士官候補生です」



 兵士は一瞬、怪しむようにエリアスを見る。



「ここは第三機動部隊だぞ」



「知っています」



「何の用だ」



 エリアスは一瞬だけ迷った。



「報告です」



「誰への?」



「指揮官へ」



 兵士の目が細くなる。



 だが、その時。



 正面から怒鳴り声が響いた。



「アーデル大将だと!」



 兵士がそちらへ振り向く。



 「馬鹿な、大将自らだと……!?」



 エリアスも一瞬だけ正面を見る。



 そして、そのまま歩いた。



 誰も追ってこなかった。



 正面では、大将一人に兵士たちの意識が集中している。



 エリアスは補給列から少し離れ、幕舎の並ぶ一角へ入る。



 警備そのものが消えているわけではない。



 ただ、全員が「これから出撃する」という巨大な作業に追われている。



 出入口を行き来する兵士。



 伝令。



 地図を抱えた士官。



 それらの隙間を縫って進む。



 やがて、一つだけ周囲より大きな幕舎が目に入った。



 指揮官用だろう。



 エリアスは物陰に身を寄せる。



 入口には兵士が二人。



 直接入るのは無理だ。



 そこで、幕舎の側面へ回った。



 布の隙間から、中の様子を見る。



 青年が誰かと話していた。



 二十歳前後。



 淡い金髪。



 細身の身体。



 鋭い目。



 机の上には地図が広げられている。



「東の街道を使う」



「ですが、反攻中止命令が……」



「知っている」



 青年は地図から目を離さない。



「大将の命令です」



「知っていると言った」



「ならば、なぜ出発を?」



 青年は少しだけ顔を上げた。



「ケーニヒスベルクが落ちた」



 周囲が黙る。



「ポズナンも落ちた」



 青年の指が地図上を移動する。



「敵はもう、こちらが想定していた位置にはいない」



 エリアスの息が止まる。



 エリアスは知らなかったが、皮肉なことに、軍会議でアーデルが言ったことと似ている。



 だが、結論が逆だった。



「だからこそ止まる理由がない」



 青年は言った。



「敵がここまで来ているのに、ここで待っている方が危険だ」



「しかし、命令は……」



「命令が正しいとは限らない」



 エリアスは眉をひそめた。



 青年は地図を畳み始める。



「東へ行く」



 それだけだった。



 エリアスは幕舎から少し離れた。



 大きく息を吸い、吐いた。



 まずい。



 知らせなければ。



 アーデルは正面にいる。



 シュタインも、まだここには来ていない。



 このまま第三機動部隊が出れば、もう止められない。



「……急がないと」



 エリアスは振り返った。



 もう一度、幕舎へ向かおうとする。



 だが、その瞬間だった。



「何の用かね?」



「――っ!」



 声がした。



 背後。



 エリアスは反射的に振り向いた。



 青年が立っていた。



 ほんの数歩先。



「……」



 エリアスは動けなかった。



 さっきまで、確かに幕舎の中にいた。



 いつ出た?



 どこから?



 足音は聞こえなかった。



 青年はエリアスを見つめている。



 その顔には、薄い笑み。



 だが、目は笑っていない。



 空気が一変した。



 エリアスの背中に冷たいものが走る。



 ――早い。



 いや。



 それだけではない。



 まるで最初から、ここに自分が来ることを知っていたような――。



「君は」



 青年がエリアスを見下ろす。



「帝国軍だな」



 彼の声が、エリアスの胸に重く突き刺さった。



 エリアスは拳を握る。



 逃げようと思えば、まだ逃げられる。



 だが、ここまで来た。



 そして何より、本人自身が逃げたくなかった。






【歴史断片・第三機動部隊】

第三機動部隊は、ドイツ帝国軍の中でも異色の部隊として知られている。


旧来の騎兵による機動戦と、装甲化された鉄製馬車による突破戦術を組み合わせることで、従来の歩兵中心の軍とは異なる運用を可能としていた。


第三機動部隊は対ロシア対策を踏まえて東部国境に配置され、東部方面軍の主力として見られている。

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