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5話 プロシア軍入城

五月一日。


 

 焼いたパンの香りと、温めたスープの匂いだった。



 朝の光が、ブレスラウの古い街並みをゆっくりと照らし始めていた。



 窓から差し込む光が部屋の床を細長く照らしている。街の外では避難民の声や荷車の音が未だ聞こえていたが、宿舎の一室だけは不思議なほど静かだった。



 エリアスは眠っていた。



 深い眠りではない。身体が疲れ切っているせいで意識が沈んでいるだけの、浅い眠りだった。



 エリアスは眉を寄せ、ゆっくりと目を開けた。



 天井が見える。



 

 母の姿も、銃声も、遠ざかっていくブリュンハルトも、すべて昨日のまま頭の中に残っている。



 その時だった。



「……起きた?」



 扉の向こうから声がした。



 エリアスが上半身を起こす。



「クレール?」



「そう」



 扉が少し開く。



 そこからクレールが顔を出した。



「朝ご飯、できたけど」



「は?」



 エリアスはしばらく固まった。



「朝ご飯?」



「何、その顔」



「いや……」



 エリアスは部屋を見渡した。



「ここ、軍宿舎だろ?」



「そうだけど」



「どうして君が朝ご飯を作ってるんだ?」



「だって、私が作るしかないじゃん」



 あまりにも当然のように答えられ、エリアスは何も言えなくなった。



「早く来て。冷めるから」



「……分かった」



 エリアスは寝台から降りた。


 

 寝台の隣部屋にはテーブルと、椅子が二つ。



 その隣に台所があるだけの、簡素な部屋だった。



 そこにはクレールがもう座っていた。



 机の上にはパンとスープ、それから小さな皿が並べられている。



 エリアスは椅子に腰を下ろした。



 目の前の朝食を見る。



 どこにでもある簡単な食事だった。



 それなのに、なぜか胸の奥が苦しくなった。



 母が作っていた朝食を思い出したからだ。



 料理の匂い。



 食器の音。



 朝の光。



 一昨日までなら当たり前だったものが、今はもうない。



「どうしたの?」



 クレールが聞いた。



「いや……」



 エリアスはスープに視線を落とす。



「こういうの、久しぶりだなと思って」



「何が?」



「朝、誰かがご飯を作ってくれてるの」



 クレールの手が止まった。



 彼女は少しだけ目を伏せる。



「……そうだね」



 それ以上は何も言わなかった。



 二人の間に、短い沈黙が落ちる。



 気まずい。



 今までなら、幼馴染なのだからこんな沈黙は気にしなかっただろう。



 しかし今は違う。



 家がなくなって、二人きりで同じ場所にいる。



 エリアスは何となく視線を逸らした。



「……ところで」



「何?」



「何で僕たち、同じ部屋で暮らしてるんだろうね」



「知らないわよ」



 クレールが顔を上げる。



 「いや、宿舎だから仕方ないんだけど」



「じゃあ聞かないで」



 また沈黙。



 エリアスはパンをちぎった。



 クレールは何も食べていない。 



 「君は食べないのか?」



 「……作る時間なかった」



 「そうか」



 再び沈黙。



 だが少しして、クレールが立ち上がった。




 彼女は廊下の隅に置いてあった小さな鏡の前へ行った。



 そして椅子に座り、髪をとかし始める。



 乱れていた黒髪を櫛で丁寧に整えていく。



 エリアスは何気なくその姿を見ていた。



「……」



「……何?」



 鏡越しにクレールと目が合う。



「いや」



 エリアスは少し考えた。



「髪、そうやってちゃんと整えるんだなと思って」



 クレールの手が止まった。



「……え?」



「昨日まではそんなに気にしてなかった気がする」



「……」



 クレールは鏡を見つめたまま黙り込んだ。



 やがて耳まで赤くなっていく。



「な、何よ……」



「何が?」



「何でもない!」



「いや、顔赤くない?」



「赤くない!」



 クレールは慌てて鏡から目を逸らし、そのまま櫛を机の上へ置いた。



「朝ご飯食べて!」



「もう食べてるけど」



「もっと食べて!」



「何で?」



「知らない!」



 エリアスは首を傾げた。



 クレールはその反応を見て、さらに顔を赤くした。



 しかし、そんな小さなやり取りも長くは続かなかった。



 エリアスはふと表情を変えた。



「……そういえば」



「何?」



「昨日の女のこと、覚えてる?」



 クレールの表情が戻る。



「帰り話してくれた、ズラータって人?」



「うん」



 エリアスはパンを持ったまま考え込んだ。




「あの人、ロシア軍だったんだよな」



「そう言ってたね」



「でも……」



 エリアスは昨日の森を思い出す。



 ズラータは農民に紛れていた。



 そしてエリアスたちを森へ誘い込んだ。



 ユリウスとも、イリヤとも、まったく問題なくドイツ語で会話していた。



「どうして、あんなにドイツ語が上手いんだ?」



 クレールも少し考える。



「ドイツ人とロシア人なら、会話できないんじゃないの」



「でも、少尉と問題なく会話できてたよ?」



「戦場なのに、普通に話してたんだ……」



「外国人が覚えた言葉って感じじゃなかった」



 エリアスは昨日の会話を思い返した。



 イントネーション。



 言葉の選び方。



 農民を装う時の口調。



 軍人として話す時の口調。



「……まるで、最初からドイツ人みたいだった」



 クレールが黙った。



「だったら、どうしてロシア軍にいるの?」



「分からない」



 エリアスは窓の外を見る。



 ブレスラウの街並みの向こうには、東へ続く街道がある。



 そこにはまだ、自分の故郷がある。



「……あの女、何者なんだろう」



 呟いた声は、誰に向けたものでもなかった。






 ーーー





 同じ頃。



 ブレスラウの東門では、別の異変が起きていた。



 朝靄の向こうから、軍旗を掲げた部隊が姿を現したのである。



 黒と白を基調とした旗。



 その列は整然としていた。



 先頭には騎兵。



 その後ろには歩兵と砲兵。



 さらにその後ろを、鉄製馬車が続いている。



 アーデル麾下の兵士たちが道の端へ寄る。



 残った住民たちも不安そうにその軍勢を眺めていた。



「……プロシア軍の連中だ」



「助けに来てくれたんだ……」



 誰かが呟く。



 その言葉が周囲へ広がっていく。



 敗走していたドイツ軍とは明らかに違った。



 兵士たちは疲弊しているようには見えない。



 隊列も崩れていない。



 何より、彼らは西へ逃げていなかった。



 東へ向かうために、ブレスラウへ入ってきた。



 やがてその一部が、アーデルの臨時司令部へ向かう。



 司令部の中では、アーデルが窓の前に立っていた。



 外を眺めながら、朝の街を静かに見下ろしている。



 その前にはファルケがいた。



 ファルケは長いテーブルの椅子に座り、脚を組んだまま腕を組んでいる。



 扉が開いた。



 複数の士官が入ってくる。



 軍服の仕立ても、徽章も、どこか他のドイツ軍とは違っていた。



 「帝国軍の将校です。アーデル大将にお目通りを」



 一人がそう言った。



 ファルケは背後のアーデルを見やる。



 アーデルは何も言わず、ただ外を眺めていた。



 「今は仕事中であられます」



「ただ黄昏ているだけではないか」



「これも仕事のうちです」



「しかし急ぎのーー」



「それでも駄目です」



 ファルケは動じず、ただ座っていた。



 将校らは顔をしかめた。



 彼らから見れば、「誰も通さない」という不動の意志、攻略すべき難攻不落の要塞と捉えられても無理はなかったかもしれない。



 しかし先頭にいる男だけは表情を変えなかった。



 三十代後半ほど。



 淡い髪を短く整え、顎の線も鋭い。



 眼差しにも無駄がない。



 彼はファルケを気にせずに、窓際のアーデルを見た。



「アーデル大将」



 ファルケが立ち上がる。



「何の用ですか」



「閣下と話がある」



「その用件を私に」



「貴様には関係ない」



 ファルケの眉が動いた。



「なら、閣下への面会は認めません」



「……失せろ下衆が!」



 ファルケが固まった。



「……は?」



 部屋の空気が一瞬で変わる。



 ファルケは完全に面食らった。



 そしてようやくアーデルが振り返り、手を軽く上げた。



「ファルケ」



「しかし――」



「いい」



 ファルケは渋々口を閉じた。



 アーデルが振り返る。



「久しぶりだな、シュタイン中将」



 男――ヴィルヘルム・フォン・シュタイン中将は、アーデルをまっすぐ見つめた。



「話が早くて助かります、アーデル大将」



「それで?」



「反撃作戦への参加を要求します」



 アーデルは一瞬だけ黙った。



「これはこれは、ずいぶん急だな」



「急ぐ必要があるからです」



 シュタインは机の上へ地図を広げた。



 その地図には、東プロイセンからシュレージェンにかけて、いくつもの赤い印が描かれている。



「ロシア軍は現在、北と東プロイセン全域で攻勢を展開しています」



 シュタインが指で北方をなぞる。



「しかし、進撃が速すぎた。そのため各部隊間の距離が開いている」



 次に南側を指す。



「北方軍と南方軍の間には、明らかな隙間があります」



 アーデルが地図を見る。



「それで、こちらの戦力は?」



「我々プロシアの軍です」



 シュタインが答えた。



「今まで我々が後退していたのは、敗北ではありません」



 ファルケが眉を上げた。



「……偽装だったと?」



「左様」



 シュタインの声には自信があった。



「ロシア軍を前進させるため、あえて後退した。戦線を広げさせ、部隊を分散させる。そして――」



 シュタインの指が、ある地点を叩く。



「ここで叩く」



 アーデルは地図をしばらく見つめた。



「兵力は?」



「我々の部隊で約七千」



「敵は?」



「近辺にいるロシア兵だけで、最低三万」



 ファルケが思わず口を挟んだ。



「三万だと?」



 シュタインは頷いた。



「しかし、問題ありません」



 彼の口元に自信が浮かぶ。



「第三機動部隊があります」



 部屋にいた士官たちが頷く。



「確かに、ドイツの鉄製馬車とまともにやり合えるのはパリの十字砲兵だけだという評判だが……」



ファルケが顎に手をやる。



「我々プロシアが誇る精鋭です。鉄製馬車による突破力なら、ロシア軍三万といえど耐えられないでしょう」



 アーデルは窓の外へ視線を戻した。



 街の向こうでは、今もかつてのプロシア王国の旗が風に揺れている。



「……プロシアが誇る、か」



 アーデルが呟いた。



 シュタインが眉を寄せる。



「何か?」



「いや」



 アーデルは振り返った。



「第三機動部隊は、プロシアが誇る部隊ではない」



 シュタインが黙る。



「ドイツ軍が誇る部隊だ」



 短い沈黙。



 シュタインは少しだけ口元を上げた。



「左様」



 その声には、別の意味が込められていた。



「ならばこそ、ハプスブルクのあなたも派兵するべきでは?」



 ファルケの表情が固くなる。



 アーデルは笑った。



「なるほど。そう来たか」



「帝国軍の誇る大将が、プロシアの七千だけを戦わせるおつもりですか?」



「そんなつもりはない」



「ならば、兵を」



 アーデルは椅子へ腰を下ろした。



 地図へ視線を戻す。



「……七千対三万」



「敵は分断されています」



「だとしても三万だ」



「第三機動部隊があります」



「それでも三万だ」



 シュタインが少し苛立ったように息を吐く。



「閣下は我々の機動部隊を信用しておられないのですか?」



 アーデルは顔を上げた。



「逆だ」



 その一言に、部屋が静まる。



「信用しているからこそ、そんな簡単に三万を消し去れるとは思っていない」



 シュタインは答えなかった。



 アーデルは地図の上へ指を置く。



「敵が分断されている。それは確かに好機だ」



 指が北方の印を辿る。



「しかし、敵が三万いることも事実だ。ここで第三機動部隊を投入して失敗すれば、何が残る?」



 誰も答えない。



「東方の主力を失うんだぞ」



 その言葉に、シュタインの顔が少しだけ険しくなった。



「だからこそ、今なのです」



「……?」



「ロシア軍は今、我々を侮っている」



 シュタインは地図の上へ身を乗り出した。



「彼らはドイツ軍が敗走を続けると思っている。だから、今なら予想外の反撃ができる」



 アーデルは黙って聞いていた。



 理屈だけなら、理解できる。



 敵は伸びている。



 ドイツ軍は兵力を集中させている。



 第三機動部隊もある。



 そして、プロシア軍は今まで後退していた。



 奇襲という条件だけなら、これ以上ない。



 ただし――。



 アーデルは窓の外を見た。



 街には、昨日まで東へ逃げていた人々がいる。



 そのすぐ横を、今度は東へ向かう兵士たちが通り過ぎていく。



 逃げる者と戦う者。



 同じ街の中に、その二つが並んでいた。



「……勝てる気がしないな」



 アーデルがぽつりと呟いた。



 シュタインは目を細める。



「それでも、行かなければ勝てません」



 アーデルは少しだけ笑った。



「それはそうだ」



 そして、地図へ視線を戻す。



 その表情から、いつもの気の抜けた雰囲気が少しずつ消えていった。



「では、話を続けよう」



 部屋の空気が変わる。



 反撃作戦の議論が、始まった。






【歴史断片・2070年】



2070年4月――ロシア帝国軍、東プロイセンへの大規模侵攻を開始。


ドイツ側は各領邦軍の動員に時間を要し、初動で統一された指揮系統を構築できなかった。


プロシア軍は各地で後退し、一部部隊は実際に敗北。


しかし同時に、主力部隊の一部ではロシア軍を内陸へ誘導するための計画的後退も行われていた。


ロシア軍は進撃に成功した一方、補給線と各軍団の間隔を急速に拡大させていった。

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