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4話 再会

数年前。



 帝国陸軍士官学校。



 まだ今より幼かったエリアスが、廊下の壁際に立っていた。



 目の前には数人の先輩士官候補生がいた。



「お前の親父、オランダ陸軍ごときにやられたんだろ?」



 笑い声が上がった。



「しかもお前が生まれてすぐだったらしいじゃないか」



「帝国軍人の恥だな」



 エリアスは何も言い返せなかった。



 父の顔を、ほとんど覚えていないからだ。



 オランダ継承戦争で戦死したという事実だけが残っている。



 だからこそ、あの言葉だけが妙に心に残った。



 ――また、信じてしまった。



 ブリュンハルトでもそうだった。



 噂を信じ、敵の存在に怯え、何をすればいいのか分からないまま時間だけが過ぎていった。



 そして昨日は、母を失った。



 まだその事実さえ、まともに受け止められていないのに、また誰かの言葉を信じた。



 その結果、目の前では一人の兵士が倒れている。



 エリアスは一度だけ後ろを振り返った。



 兵士は動かない。



 その名前さえ知らない。



 どこの村の出身なのかも分からない。



 それなのに、その存在だけが妙に重く感じられた。



「お前……」



 ユリウスの声が森に響いた。



 ユリウスは少し離れた場所に立ち、ズラータを見つめていた。



 いつもの柔らかな表情は消えていた。



 眉間にはわずかに皺が寄り、口元も固く結ばれている。



 怒鳴っているわけではない。



 むしろ声は低く、落ち着いている。



 それがかえってエリアスには怖かった。



「俺たちをここへ誘い込んだのか」



 ズラータは答えなかった。


 

 彼女はただ、ユリウスを見返している。


 

 その目に大きな動揺はなかった。



 ユリウスが一歩前へ出て、ズラータは一歩だけ後ろへ下がる。



 そこでユリウスが止まった。



「その服も、話も、全部偽装だったということか」



ズラータは黙っている。



「答えろ」



 

 エリアスは二人を見比べた。



 ユリウスの感情が少しずつ強くなっている。



 一方のズラータは、ユリウスが何を考えているのか観察しているように見えた。


 

 「……私はロシア軍狙撃大隊の兵士だ」


 

 ユリウスはそれを無視し、さらに一歩進む。



 その瞬間、ズラータの視線が一度だけ腰へ落ちた。



 ほんの一瞬だった。



 しかし、ユリウスはそれを見逃さなかった。



「……動くな」



 ユリウスが右手を少し上げた。



 ズラータが止まる。



 ユリウスは彼女から目を離さないまま、腰のあたりを指で示した。



「そこに何がある」



「……何も」



 ユリウスの目が細くなる。



 エリアスも目を凝らした。



 農民服の布の下に、ごく小さな膨らみがある。



「銃か」



 ズラータの表情が変わった。



 彼女の右手が腰へ伸びる。



 だが、手が銃に届くより早く、ユリウスが足元へ視線を落とした。



 そこには小石が転がっていた。



 ユリウスは腰を屈めることさえせず、足先で小石を跳ね上げる。



 右手で拾い上げると、ほとんど間を置かずに投げた。



 小石がズラータの手に当たる。



「っ……!」



 ズラータが反射的に手を引いた。



 その拍子に、隠していた銃が地面へ落ちる。



 金属が石に触れ、小さな音を立てた。



「待ってください!」



 エリアスが叫ぶ。



 しかし、ユリウスはすでに動いていた。



 地面へ落ちた銃をズラータが拾う前に、ユリウスが彼女との距離を一気に詰める。



 ズラータが横へ逃げるが、ユリウスも同じ方向へ踏み込んだ。



 彼女が逆へ身体を向ける先に、ユリウスが回り込み、逃げ道を塞いだ。



 ズラータは腕を伸ばしてユリウスに殴りかかる。



 だがユリウスはその腕を掴み、動きを止めた。



「ロシアの兵なのか。なら初めから罠だったんだろ」



 ユリウスの言葉に怒気が混ざる。



 エリアスには、朝の彼とはまるで違って見えた。



 人当たりがよく、初対面のエリアスにも気さくに話しかけてきた。



 今は、その面影がほとんどない。



「少尉……」



 エリアスが声をかける。



 しかしユリウスは振り返らなかった。



「仲間を殺されて、黙っていられるほど俺は出来た人間じゃない」



 ズラータが身体をひねり、ユリウスの手から抜けようとする。



 ユリウスは腕を引き戻した。



 「あなた、思っていたより強いのね」



 ズラータが口を開いた。




 「今さら気づいたのか」




 「ええ。だから正面から相手をするのはやめる」



 その瞬間、彼女が左足を蹴り上げた。



 ユリウスは咄嗟に下がるが、ズラータはその一瞬の隙を逃さなかった。



 ズラータが木の根元へ移動し、周囲を確認する。



 その視線が一度、森の奥へ向いた。



 エリアスはそれを見た。



 そして同時に、嫌な予感がした。



「少尉、狙撃兵がまだ――」



 言い終わる前に、ズラータが突然叫んだ。



「こっちよ!」



 その言葉に反応して、ユリウスが振り返り、身体がわずかに動いた。



 その瞬間だった。



 森の奥から、一発の銃声が響いた。



 乾いた音が木々の間を走る。



 ユリウスがその場で身体を揺らした。



「少尉!」



 エリアスが駆け寄ろうとする。



 しかしユリウスは片膝をつき、片手を地面について自分の身体を支えた。



「来るな」



「でも!」



 ユリウスの腹から、ドクドクと血があふれていた。



 それは軍服に紅の染みを作っていく。



「来るな……」



 ユリウスの声が響く。



 背中を撃たれ、弾丸が胴体を貫通したのだ。



 その間にズラータが落ちた銃を拾い上げた。



 彼女は数歩後ろへ下がり、エリアスへ銃口を向ける。



「動かないで」



 エリアスの脚が止まった。



 視線が銃口に釘付けになる。



「あなた方を捕虜にする」



「……僕を?」



「そう」



「どうして?」



「知ってる情報を吐いてもらう」



 ズラータの声は冷静だった。



 エリアスは答えられなかった。



 自分は昨日、母を置いて逃げた。



 そして今度は、ユリウスを置いて逃げろと言われている。



 怖い。



 逃げたい。



 そう思うのは、何も変わらない。



『帝国軍人の恥だな』



 父は弱かったのか。



 帝国の恥だったのか。



 もしそうなら、自分はどうなのだろう。



 母を置いて逃げた。



 そして今も、ユリウスを置いて逃げようとしている。



「……逃げろ」



 ユリウスが言った。



 エリアスは顔を上げる。



「少尉?」



「俺のことはいい」



 ユリウスは苦しそうに息を整えながら、エリアスを見る。



「西へ行け。ここに残っても、お前まで捕まるだけだ」



 エリアスの胸が締めつけられた。



 その言葉は、昨日聞いたものと同じだった。



 ――あなたは逃げなさい。



 母の声。



 まただ。



 また、自分だけ逃げろと言われている。



 エリアスはゆっくりと首を横に振った。



「……嫌です」



「何?」



「もう、逃げたくありません」



「エリアス」



「昨日も、僕は逃げました」



 声が震える。



 それでも、エリアスは言葉を止めなかった。



「母さんを残して、自分だけ助かろうとしました」



 ユリウスが黙って聞いている。



「だから、ここでも同じことをしたら、僕はきっとまた後悔する」



 エリアスは周囲を見る。



 ズラータ。



 ユリウス。



 森。



 そして地面に倒れている兵士。



 戦わなければ、どうなるのかは分かっている。



 エリアスは深く息を吸った。



「……僕は逃げません。捕虜にもなりません」



 ズラータが目を細める。



「どうするつもり?」



 エリアスは答えなかった。



 代わりに、周囲を見回した。



 ユリウスが撃たれたのは背中側。



 銃声は北東方向。



 森の中は木々が密集している。



 狙撃兵はかなり遠くにいるわけではない。



 そして、さっきから銃声は一発だけ。



 エリアスは足元の土を見た。



 森の地面には細い枝が大量に落ちている。



 遠くから近づいてくる人間がいれば、完全に音を消すのは難しい。



 なら――。



 エリアスはズラータを見た。



「君、そこから動かないでくれ」



「命令するつもり?」



「北東から狙われている」




 ズラータが一瞬だけ周囲を見る。



 エリアスは少し横へ移動した。



 ズラータも銃口を動かす。



 エリアスはさらに一歩ずれる。



 やがて、北東側から見れば、ズラータの身体がエリアスとの間に入る位置になっ

た。



「……あなた」



「君を盾にする」



 ズラータの表情が変わる。



「卑怯ね」



「うん」



 エリアスは否定しなかった。



「でも、僕も死にたくない」



 二人の間に沈黙が落ちた。



 遠くで鳥が鳴いた。



 風が木々を揺らした。



 「馬鹿じゃない、私が撃ったらどうするの?」



 ズラータはフッと笑う。



 そんなことはどうでもいい。



 これで少しは時間を稼げる。



 少なくとも、狙撃兵は簡単には撃てない。



 戦い方は、きっとあるはずだ。



 そう思った瞬間だった。



 森の奥から、枝を踏む音が聞こえた。



 エリアスの表情が固まる。



 音は前方からだった。



 しかし同時に、背後からも別の足音がする。



「……囲まれた」



 ズラータも後ろを見る。



 「イリヤ中尉…」



 エリアスは奥を見やる。



 木々の隙間から、一人の男が姿を現した。



 黒い軍服。



 短く整えた淡い髪。



 肩から銃を下げている。



 イリヤと呼ばれた男は数歩進んだところで立ち止まった。



 そして、静かに銃を構える。



「動くな」



 エリアスの喉が鳴った。



 こいつだ。



 ユリウスを撃った男。



 イリヤはエリアスの方へ照準を合わせた。



「その女から離れろ」



 エリアスは動けなかった。



 男が銃口をわずかに動かす。



 その瞬間、エリアスは地面を蹴った。



 身体を横へ投げる。



 一発の銃声。



 弾はエリアスのすぐ近くを抜けて、木の幹へ当たった。



「っ!」



 エリアスは地面へ転がった。



 受け身をとり、急いで起き上がろうとする。



 しかし靴が落ち葉に引っかかり、身体がもう一度傾いた。



 エリアスは片手を地面について何とか止まる。



 だが、イリヤの銃口がこちらを向いている。



 頭の中が真っ白になった。



 その時だった。



「そこまでだ!」



 森の背後から、大きな声が響いた。



 複数の馬の足音が近づいてくる。



 エリアスが振り返る。



 木々の間を抜け、十人ほどの騎兵が姿を現した。



 先頭にいたのはファルケだった。



「少尉!」



 ファルケはユリウスを見つけると、すぐに馬を降りた。



「難民の避難は嘘だと分かった」



 ファルケが短く息を整える。



「情報提供者を調べていたら話に矛盾が見つかった。だから罠かもしれんと思い、森を回ってきた」



 兵士たちが周囲に散らばり、それぞれが武器を構える。



 イリヤが周囲を見る。



 短い時間で状況を整理しているのが、遠目にも分かった。



「撤退する」



 イリヤが言った。



 ズラータが彼を見る。



「でも、彼を――」



「今は無理だ」



 イリヤは短く答える。



 ズラータは一瞬だけエリアスを見た。



 その目には、先ほどまでにはなかった複雑な感情が浮かんでいた。



 しかし、すぐに表情を戻した。



 「銀閃飛刀ぎんせんひとう



 ファルケの眼が光り、地面を蹴った。



  数歩しかない距離を一気に詰め、右腕を腰にやり、すぐに抜く。小型のナイフが鋭く振り抜かれ、ズラータは反射的に顔を横へ向けた。



 「っ!」


 

 飛刀は頬をかすめて幹に刺さり、髪が数本舞った。


 

 ズラータは足を止め、驚いたように頬へ手を当てる。



  その前へ、イリヤが滑り込んだ。



 「下がれ」



 「だが…」



 イリヤは無視し、ファルケの前に立つ。



 ファルケは追撃しなかったが、一歩だけ踏み込む。



 イリヤも銃を構え、二人の間に沈黙が落ちた。



 (近接戦闘もできる狙撃兵、いかにするべきか…)



 ファルケは右ではなく、左から踏み込む。



 イリヤが銃を構え直す。



 ファルケの飛刀が再び投げられる。



 イリヤは反射的に銃身を横へ立てた。



 硬い音が森に響いた。



 飛刀が銃身に当たり防がれ、ファルケの動きが止まる。



 イリヤはその隙に一歩後ろへ下がった。



 再び距離が開く。



 ズラータがイリヤの横へ戻った。



 二人はファルケたちを見ながら、少しずつ後退する。



 ファルケも追撃しようとはしなかった。



 銃口と飛刀。



 互いにあと一歩踏み込めば戦闘が始まる距離。



 それでも、どちらも先に決定的な動きを取らない。



 しばらくして、イリヤが低い声で言った。



「……今日は退く」



 ズラータも黙って頷く。



 二人がゆっくりと森の奥へ下がっていく。



 ファルケはその背中を睨みながら、右手をわずかに構えたまま立っていた。



 やがて木々の向こうへ二人の姿が消える。



 ファルケは追わなかった。



「……厄介な連中だな」



 そう呟いたがすぐに気持ちを切り替え、ユリウスへ駆け寄った。



「少尉」



「……ファルケ中佐」



 ユリウスは顔を上げた。



「迎えに来た」



 ファルケはユリウスの腕を肩に回し、身体を支える。



「立てるか」



「……何とか」



 ユリウスが立ち上がり、ユリウスを連れていく。



 エリアスはその背中を見送り、それから地面へ視線を落とした。



 少し離れた場所に、あの兵士が倒れている。



 誰も名前を呼ばない。



 ファルケもユリウスも騎兵も、今は自分たちが戻ることで精一杯だ。



 エリアスはゆっくり近づいた。



 しゃがみ込み、兵士の身体を確かめる。



 もう動かない。



 エリアスは一度目を閉じた。



「……この人も連れて帰ります」



 ファルケが振り返る。



 短い沈黙の後、



「分かった」



 と答えた。



 エリアスは兵士を抱え上げた。



 思っていた以上に重い。



 足を踏み出すたびに腕へ負担がかかる。



 それでも、一度抱えた身体を地面へ戻す気にはならなかった。



 森を抜け、昼間の光が少しずつ強くなっていく。



 エリアスは何も話さなかった。



 ただ歩きながら、昔の言葉を思い出していた。



『オランダ陸軍ごときにやられた』



『帝国の恥だ』



 父の顔は覚えていない。



 だから、その死について自分が語れることも少ない。



 けれど、今日初めて分かった気がした。



 戦場で誰かが死ぬということは、ただ「死者が一人増える」ということではない。



 だからこそ、名前の分からない一人の兵士でも、何もなかったことにはしたくなかった。



 それが正しいのかどうかは、エリアスにはまだ分からない。



 やがて、前方にブレスラウの城壁が見えてきた。



 エリアスはその中を歩いた。



 検問所が近づいてくる。



 エリアスは顔を上げた。



 その時だった。



 道端に、一人の少女が座っているのが見えた。



 石壁にもたれ、膝を抱えている。



 服は泥で汚れ、髪も乱れていた。



 エリアスは最初、その少女を避難民の一人だと思った。



 しかし、歩みを進めるにつれて、その横顔に見覚えがあることに気づいた。



 足が止まる。



「……クレール?」



 少女がゆっくり顔を上げる。



 黒い髪。



 見慣れた目。



 昨日まで村にいたはずの幼馴染。



 クレールの目が大きく開いた。



「……エリアス?」



 エリアスは答えられなかった。



 生きていた。



 それだけで胸がいっぱいになる。



 しかし同時に、別の思いが押し寄せてきた。



 村に残った人たちは。



 クレールは何を見たのか。



 そして――自分は、何を伝えなければならないのか。



 エリアスは背負っていた兵士の身体を、ゆっくり地面へ下ろした。



 そしてクレールを見る。



 クレールもまた、何かを察したように表情を変えた。



「……お母さんは?」



 その言葉を聞いた瞬間、エリアスの胸が詰まった。



 答えようとして、口を開く。



 しかし、声が出ない。



 クレールはエリアスの顔を見つめていた。



 その目の奥に、少しずつ不安が広がっていく。



 エリアスは視線を逸らせなかった。



 昨日、自分は逃げた。



 けれど今度は、目の前にいる人から逃げたくなかった。



 だから何かを言おうとした。



 それでも、最初に出てきたのは言葉ではなく、小さな息だった。



 戦争を知って二日目。



 エリアスはようやく理解し始めていた。



 逃げることだけが怖いのではない。



 誰かを失った後、その人間がもう帰ってこないことを、自分の言葉で誰かに伝えることもまた、戦争なのだ。



【歴史断片・2054年】


政府トップ、オラニエ家の断絶によりドイツ、フランス両国がオランダ政治に介入した戦争をオランダ継承戦争という。ドイツ軍は最終的に撤退し、ハーグ休戦協定でブルボン朝オランダ大連邦の建国が認められた。

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