第1章 あばずれ娘、見出される 15-16
15
「ねえ、パット。あんたって、昔からそんなだったっけ?」
研究室のテーブルの上に、再び素っ裸で横たわりながら、私は、目の前の椅子にゆったりと座るおじさま――に見える犬の精霊――に、そう尋ねた。
「なんのことだ?」
パットは、目をこらして刃先を見つめながら、手にした砥石でナイフを研いでいる。
「なにって、あんたのその性格。そりゃ、昔からふてぶてしいところはあったけど、さっきみたく、横暴というか、煮ても焼いても食えない感じじゃなかったと思うんだけど」
「いや、こんなもんだったぜ?ただ、犬の姿だと、人間に言葉が通じねえからな。吠え声や仕草をいいように受け取って、なんとなく「素直で純粋」とか思ってくれてたんじゃねえか?驚くだろうな、俺や、俺の部下どもが、牧場でなにをしゃべっていたか知ったらよ」
こいつら一体、あたしのことをどんなふうに言ってたんだろ?まあ、大体想像はつくけど……。
「まあ、今さらそれはいいけどさ。それにしたって、さっきのあの態度はないんじゃね?あの人、ちょっといやなことばっかりいうけど、私が牧場で殺されかかってたのを助け出してくれた恩人なんだぜ、一応」
とがめるようにいうと、パットはやれやれといわんばかりにため息をつき、砥石とナイフを置いて、私をじっと見つめ……ふっと微笑んだ。
「お前さんは、あの頃とちっとも変わらないな。困ってたり、いじめられているものを見捨てておけない、優しい女の子のままだ」
「いや、そんなことねえよ。今の私は、すれっからしの流れの牧童だ。その私から見ても、あの扱いは、ちょっとひどいんじゃねえかって思ってさ。私を救ってくれただけじゃなくて、あんたを呼び出す手伝いだって……」
「その辺はな、精霊界での立場やらしがらみやら、いろいろあるのさ。というか、俺はこれでも、まだまだ甘い方なんだぜ?本当にきついのは、俺よりむしろ……」
パットがそう言いかけたところで、
「あの……精霊紋、描き終わりました……」
ツナ様が、おそるおそる声をかけてきた。
今の今まで、私の腰から尻にかけてのあたり――女らしくない、薄い尻。私の体の数多いコンプレックスのうちの一つだ――にかがみ込み、新たな精霊紋を描いてくれていたのである(ちなみに、ズボンは真新しいものに履き替え、床についた染みもモップで自らせっせと拭き取っていたのだが、部屋の中はいまだ、ネコのおしっこ臭かった)。
「おう、できあがったか。ご苦労さん。それじゃ、早速呼び出すとするか。なあ?」
嬉しそうに身を起こしたパットの呼びかけにうなずきで答え、私は、先ほど習い覚えたばかりの呪文を、もう一度――今度もつっかえつっかえ――唱える。
と。
目の前に、全身真っ黒のややほっそりとした大型犬が、忽然と現れた。
喜びを抑えきれない、と言わんばかりに舌を出してはっはっと呼吸をはずませつつ、うるんだ目でじっと私を見つめる相手に、思わずわたしもにっこりと顔中を笑みにして呼びかける。
「アニー!」
その途端、アニーは満面の笑顔を浮かべ――犬だって笑うのだ、もちろん――ものすごい勢いで机に飛び乗ると、そのまま私に飛びつき、目といわず鼻といわず口といわず頬といわず、長い舌でべろべろとなめまくりはじめた。
たちまち私の顔は彼女の唾液まみれとなる。
「ちょっ、こら、アニー!アニーってば!」
叱責の言葉を口にするが、その言葉の調子から「本気で怒ってないどころか、喜びが多分に混じっている」と判断したのだろう。アニーはなめるのをやめるどころか、ますます調子に乗り、全体重をかけて私を押し倒して覆い被さり、きゅうきゅう鼻声を出しながら、甘噛みまでし始める。
「あ、こら!アニー痛い!痛いったら!いい加減にしないと本気で怒るよ!」
悲鳴混じりの声を上げたところで、ようやく我に返った、と言わんばかりにはっとした顔になると、アニーはひょいと床に飛び降り、たちまち優雅な黒のロングドレスを身にまとった長身の女性に変身した。
「これはお嬢様、大変失礼いたしました。10年ぶりに我が主に再会できました喜びで我を忘れ、つい夢中で……」
さっと片膝をついたかと思うと、漆黒の瞳を伏せ、アニーはねっとりとした低い声で白々しいささやきを口にする。
またアンタはそんな風にしらばっくれて。分かってるんだよ、沈着冷静で我の強いアンタがそうそう我を忘れるはずないじゃん。今のは絶対分かっててやったんでしょ。
そういわんばかりの目でじっと見つめてやったが、アニーはただただ涼しい顔をするばかり(やや目尻の上がった大きな目、真っ黒な瞳、すっと細く整った鼻、そして肉感的な唇。人間の姿となったアニーは――パットのパートナーなのだから、もういい年のおばちゃんのはずなのに――むせるほどの色気が漂う妖艶な美女だった。その美女がいかにも子どもっぽい表情で知らんぷりを決め込むのだから、そのアンバランスなかわいさといったら、同性ながら思わずキュンとしてしまう)。
アニーは、うちの牧場のアルファメスとして隅々にまで目を配り、実質動物たち全てを統括していた、この上なく頼りになる実務家だった。けど、その反面、ほんとは誰よりも甘えんぼでくっつくのが好きで、あたりの他のコがいないとなると、途端に身をすり寄せてデレデレじゃれまくってくる、なんともカワイイ犬だった。
それは精霊になっても変わらないようで、
「ああ、なんという幸福な一瞬だったことでしょう!お嬢様を存分になめ回し、昔と変わらぬ甘くてちょっと森の香りにするお味と香りを思う存分堪能したばかりか、頬の柔らかな感触までこの口で愛でることができるなんて……」
私の顔を一瞥した後、アニーはおもむろににっこり笑うと、身もだえしながらこの上なくうれしそうにそんなことをのたまった。
「え、あたし、まだそんなに臭う?この城に来てから、毎日何回も洗われたおかげで、すっかり匂いも落ちたと思ってたんだけど」
「人間には分かりませんわ。でも、私どもにははっきり分かります。すっきりとした石けんと清水の香りの奥に、今も昔も変わらぬ、優しさと森と野原の雰囲気をたたえた、お嬢様独自の匂いが確かに香っております……ああ、再びこの香りに包まれる幸福に恵まれるとは……」
再びアニーが天上に響く音楽でも耳にしているかのような、恍惚とした表情になったところで、
「やれやれ、妬けるねえ。長年一緒にいるってのに、俺にはついぞ、甘えてさえくれねえってのに」
と、冷やかすような、からかうような声音が響く。
見ると、パットが書棚に寄りかかりつつ、ニヤニヤと薄笑いを浮かべている。
「あら、それはいつも一緒にいるからこそですわ。それにあなたときたら私にいつも無理難題ばかりふっかけて。おちおち甘い顔なんてしてられるはずないじゃありませんか」
と、アニーもアニーでわざと唇をとがらせ、すねたような表情を浮かべると、優雅な足どりで自分の連れ合いの方へと歩いていく。
そして、待ちかまえていたパットの腕の中にすっぽり収まると、そのまま顔を上げ、ゆっくりと唇を合わせた。
そのちゅーときたら、それはそれは濃厚で、はたでぼけっとみている私にまで「ぶっちゅうううううう……」という音が聞こえてきそうなほどの愛情がこもったものだった。
いきなり目の前に現れた「大人のラブシーン」に私は柄にもなく赤面して、不自然に顔をそらす(そういった行為は自分でも結構な場数ふんできているはずなのに、心からの「愛情」がこもった行為を見ると、いまだ気恥ずかしくてたまらないのである)。
数分間もの間、しつこく唇を交わし、ようやく体を離したところで、
「あなたが精霊紋を描いてくださったの?この種の細かい作業は苦手かと思ってましたのに」
妖艶な流し目でパットを見つめながら、アニーがねっとりと尋ねた。
「いや、俺がやってもよかったんだがな。ちょうどいい人材がいたんで、そいつに頼んでやってもらったのさ」
パットがあごで指し示した先にいたツナ様を一目見るなり、アニーの顔から、ふっと笑みが抜け落ち、完全な無表情になった(美人から表情を取り去ると、あんなに冷酷で無慈悲な顔になるんだと、私はぞっと背筋が寒くなった)。
「あら……そう。あなたが」
「は、はい!ツナと申します、以後、お見知りおきを……」
「ええ、よろしく」
かわいそうにツナ様は、組み合わせた両手を胸の前でもじもじと動かし、少々肌寒いくらいの室温だとおいうのに、額に大粒の汗を浮かべている。
「あ、あの、用事は済んだようですし、それでは、私はこれで……」
上体をかがめ、気の毒なほど卑屈な態度で、ツナ様が扉へと向かったところで、
「お待ちなさい」
氷のような声が、彼の足を床に縫い止めた。
「匂いで分かるわ。あなた、猫ね」
「は、はいっ!」
「今すぐ白状なさいな。あなた、ひきかえになにを要求したの?」
「は……え?」
「我ら精霊は、主のためにのみ在り、働くもの。その精霊の端くれで――まして猫であるあなたが、何の代償も求めずに労働を提供するがありません。早く言いなさい。あなたは我が主に、一体どのようなことを要求したの?」
無表情な仮面を通して、内に激しい怒りがつのりつつあるのが、透けて見える(圧倒的でわかりやすいパットの怒りとは対照的な、冷たくて無機的で、とりつく島のない怒りだ)。かわいそうにツナ様は、アニーの怒りの不気味さ、怖ろしさにすくみ上がり、ろくに口をきくことすらできず、ひたすら「あの……その……」と繰り返すばかり(かくいう私も、アニーの内部で沸き立つ怒りの怖ろしさに心底震え上がり、彼女が私の忠実な友で――怒りの矛先が私に向けられたのではなくて、本当によかったと、早鐘を打つ胸をそっとなで下ろしていた)。
「なに、たいしたことじゃない。こいつ、我らが主が所持なさっているドラゴンブラッドを手に入れようとしてやがったのさ」
ツナ様の答えを待っていたのでは、いつまで経ってもらちがあかないと思ったのか、パットが横から口を差し挟む。
それを聞いた途端、アニーの目が、きりきりとつり上がった。
「まあ……ドラゴンブラッドを?」
「そうだ。それも驚いたことに、契約紋一つに精霊紋一つを描いた、そのひきかえにな。不当というのもおこがましい取引だろ?だから俺は『ハスケルの烙印』を刻んでやろうと思って、こうして頭のてっぺんを剃ってやったのさ。だが、いざ刻もうって時に、こいつが泣いて頼むんで……」
「まあ、あなた!『ハスケルの烙印』ですって!?」
アニーが責めるような目でパットをきっとにらむ。途端に、パットは叱られた子犬のような表情になり、肩をすくめた(その一方で、ツナは、地獄で救世主に出会った、といわんばかりのキラキラした、希望に満ちた目で、アニーを見つめていた)。
「ああ……まずかったかな?」
「当たり前です!いいですか、あなた!一度でも悪事に手を染めた猫など、さっさとその存在を消滅させなければならないと、あれほど言ったではありませんか!」
この一言でツナ様は呆然とした表情となり、希望に輝いていたその目は、あっという間に輝きを失った。無理もない。横で聞いていた私だって「え、そっち?どうしてもっときつい罰を下さなかったって、そのことを怒ってるの?」と驚いたのだ。罰せられる当人にすれば、地獄で救世主に出会ったと思っていたら、実は相手が大魔王で、さらなる地獄の底に突き落とされたかのような気分だったに違いない。
「あなたったら、あまりにも優しすぎです!確かに、鷹揚さと寛大さは、人の上に立つ者として素晴らしい資質です!けれどそればかりでは、下の者に示しがつかないではありませんか!」
「いやあ、すまねえすまねえ。その辺は、ほら、お前がうまくやってくれてたからさ」
「もう、そうやって、私にばかりいやな役を押しつけるんですから!」
ツナ様の絶望を――そして、私のあきれた視線も――全く気にする素振りも見せず、パットとアニーはひとしきりイチャイチャとじゃれ合う。その隙に逃げ出そうと思ったのか――それともヤケクソだったのか――ツナ様が突然、扉へ向かって駆け出した。
が、もちろん、アニーが逃走を許すはずもない。
「お待ちなさい!」
鋭い声を発したかと思うと、目にもとまらぬ早さで懐から抜き出した細長いなにかを、手裏剣のように放る。
ねらい違わず、その細長い物体は、扉のノブに手をかけていたツナ様の、先ほどつるつるにされたばかりの頭頂部に、ぴし、と音を立てて突き刺さった。
「痛っ!なにをする……あ、痛い!痛い!に゛ゃあああああああああっ!痛いいいいいいいっ」
ツナ様の頭に刺さった細長い小さな物体は、たちまちにょきにょきと二つに、四つに枝分かれし、緑の葉を茂らせながら、さらにどんどん成長していく。
「に゛ゃあああああああああああああっ!く、苦しい!痛ああああああいいいいいいっ!取って!取ってくださあああああああいいいいい!」
どれほどの激しい激痛なのか、ツナ様は頭を抱え、地面をのたうち、転げ回る。と、先ほど着替えたばかりの服の股間に、またしても黒い染みが広がり、ネコ特有の濃厚なおしっこの匂いが、またしても研究室内に充満した。
もはや、絶叫する気力も絶えたのか、ツナ様は、あうあう言いながら涙を流し、小便まみれになることも構わず、研究室の床に転がって、体をひくつかせている。アニーは彼にゆっくり近づくと、ピンヒールを履いた足で、その頭をぐっと踏みつけた。
「魔界樹の一つ、吸精樹を植え付けました。知っているでしょうが、吸精樹は精霊の源である魂にとりつき、絶大な痛みを与えつつ根を張り、その精を吸収しつつ、徐々に成長していきます。このまま放っておけば、あなた程度の位階の精霊なら、そうですね……一週間ほどで、跡形もなく消滅するでしょうね」
「取って……ください……お願い……」
涙で顔をぐちゃぐちゃにし、再び股間に大きな染みを作りながら――一体どれほど強烈な痛みなんだろう――なんとかツナはしわがれ声を絞り出す。と、アニーは、天上の妙なる調べを耳にしたかのように、うっとりとした笑顔を浮かべ、ヒールのかかとに全体重をかける勢いで、ぐりぐりと彼の顔を踏みにじった。
再び、絶叫。
その絶叫がひいひいというすすり泣きに変わったところで、アニーは再び口を開いた。
「先ほどもいいましたが、悪事の味を覚えた猫など、百害あって一利なし。この世に存在してしまったことを心底後悔させつつ、魂のかけら一つさえ残さず消し去ってしまうべき、というのが私の持論です」
「そ、そんな……」
「消滅させられるのがいやなら、自らの能力を私に示しなさい。自分はこの世に在り続けるだけの価値があるのだと、証明しなさい。その結果が満足すべきものであるならば……」
「お、仰せのままに!何でもいたします!いたしますから、どうか……」
ツナの言葉に、アニーは再び、にったりと笑ったかと思うと、すっとツナの頭から足を上げ、コツコツと足音高く、大机に向かって歩き出し――その途中で身をかがめ、床の落ちていたローブを拾い上げると、いまだ全裸で机の上にあぐらをかいていた私に、そっと羽織らせてくれた。
「いとしいお嬢様。しばらくの間、あちらでご休憩なさっていただけますか?軽くなにかをつまみ、生理的欲求を済ませなどして、英気を養っていてくださいませ」
そう言いながら、優しい手つきで私を机の上から下ろし、椅子に座らせる。そして、身につけていた服をするすると無造作に脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿となって――服の上からは目立たなかったが、全裸になった彼女の体型ときたら、形よく張りのある乳房に、きゅっと引き締まったウエスト、そして、見事なまでに半球形をした柔らかそうなお尻と、まさに完璧。同じ女でありながらこうも違うものかと、思わずうっとり見惚れてしまった――先ほどまで私が横たわっていた場所に、長々と寝そべる。
「何をしているの?さっさと始めなさい」
私への、情愛に満ちた声音とは対照的な、氷のように冷たい声で、そっぽを向いたまま促すと、ツナ様ははじかれたように立ち上がり、必死で痛みをこらえながら、筆を取った。
「あの、奥様。あなた様のお体に、契約紋と、精霊紋をお書きするのでしょうか?」
「それ以外に、あなたの前に全裸で横たわる意味があるとでも?いちいち全て説明してあげないとなにもできないのですか」
「いえ、そんな!しかし……」
「黙りなさい。あなたはやるべきことを黙って、速やかに実行すればいいのです。それとも、そんなに吸精樹に精を吸われ尽くされたいのですか?」
「と、とんでもございません!直ちに取りかからせていただきます!」
恐怖と焦りにうわずった声で返事を返すと、ツナ様は、絶え間なく激痛に顔をしかめ、脂汗を流しながら、ものすごい早さで筆を動かし始めたのだった。
16
その後15分で、ツナ様はアニーの体に召喚紋と精霊紋を二つ、描き上げた。
私に契約紋とパットの精霊紋を描いた時には、たっぷり二時間はかかったのだから、それに比べると、信じられない早さだ。
だが。
「我が力を振り絞りました。い……いかがでしょうか?」
やや誇らしげにツナ様は声をかけたのだが、アニーは全く興味なさそうな表情のまま、
「ふうん。この程度なのですね」
一言、そうつぶやいただけだった。
「お、奥様!お言葉ですが、これほどの速度と正確さで魔章紋を描けるものなど、精霊界広しといえども、そうはいないのではないかと思いますが!」
必死の形相で食い下がるツナ様を、汚いものでも見る目つきで一瞥すると、
「ずいぶん自信を持っているのですね。では、あなたのその自信が妥当なのかどうか、問いただしてみるとしましょうか」
そう言い放つと、アニーはとろけるように優しい目を私に向けた。
「お嬢様。大変長らくお待たせしてしまい、誠に申し訳ありません。これより少々お手を煩わすことになってしまうのですが、よろしいでしょうか?」
「え、うん、いいけど、なにをすればいいの?」
「はい。今このぶしつけな猫の手により、我が身体に契約紋と精霊紋を描かせました。通常、精霊紋は主様ご本人の身体に刻まぬ限り、その効果を発揮いたしません。ですので、召喚できる精霊の数は、体表面に精霊紋が描けるぎりぎり限界の数、すなわち七体までと決まっているのです。ま、それも、呼び出した精霊を養えるだけの精をその身に帯びている方に限られるのですが」
なるほど、だから精霊騎士様でも、従えている精霊の数はせいぜい三体だけって、ハワードは言ってたのか。
ふんふんとうなずいたところで、ん?と私は顔をしかめた。
「それは分かったよ。けどさアニー、聞いた話なんだけど、なんでもあたしをこの城に呼んでくれた辺境女伯様は、9体もの精霊を従えていらっしゃるとか。それって、呼び出せる限界の数を超えてない?」
そう言うと、アニーはその顔に花のような大輪の笑みを咲かし、全裸のまますっと近寄って、思い切り私の頭をぎゅっと抱きしめた。
「まあ、私の愛しいお嬢様!早くも精霊使いとして必要な知識を少しずつ身につけたいらっしゃるのですね!なんて誇らしい!それでこそ私のお嬢様ですわ!」
思いもよらないほどの力でぎゅうっと押さえつけられたのと、形がいいだけでそれほどリュームはないともっていたアニーの胸が、思いがけないほどにふくよかだったせいで、私の鼻と口はすっかりふさがれ、いきなり呼吸ができなくなった驚きで、私は腕を振り回しながらもがもがとくぐもった悲鳴を上げる羽目になった。
「おいおいアニー、喜ぶのは分かるが、たいがいにしとかねえと、パトリが悶絶するぞ?」
パットがそう声をかけてくれたおかげで、ようやく腕の力がゆるみ、わずかに空いたすき間から、私は思いきり空気を吸い込み、息をついた。
「あら……私としたことが申し訳ございません、お嬢様。ですが、あまりにお嬢様が聡明でいらっしゃるので、ついうれしくなってしまって……」
本気でしょんぼりとなるアニーにむかって、私は肩で息をしながら、あわてて首を振る。
「いや、大丈夫。アニーが本気でうれしがってくれてるのは伝わってきたし。でも、ちょっと教えてもらっただけなのに、そんなにうれしいものなの?」
と、アニーはあごが胸に憑くほどの勢いで、大きくうなずいた。
「はい、それはもう。なにしろかつてのお嬢様ときたら、大のお勉強嫌いで、五分と机に向かうことすらおできにならなかったのですから。それが、早くも知識を吸収し始めてくださっているのですから……」
あーね。今だって、決してそんなに勉強好きってわけじゃないけど、昔のあたしときたら、まさに野生児そのものだったもんね……と憮然としながら、
「ああ、うん、それで、9匹の精霊は……」
と話を戻す。
「ああ、そうでございました、その話をしていたのでございましたね。通常の精霊使いは、先ほど申し上げたとおり、七体の精霊を呼び出すのが精一杯です。ですが、主様と精霊のとの間に特別強い絆が結ばれている場合に限って、その精霊の身体に契約紋と精霊紋を描くことにより、さらに多くの精霊を召喚することができるのです」
「そっか。じゃあ、辺境女伯様は、きっと何匹かの猫と強い絆を結んだんだね」
「まあ、猫と?それはきっと、とび抜けて猫に好かれ、猫を愛する方なのでしょうね。なにしろ猫族の者は独立心が強く、いかに相手が主様といえど、一定の距離を保った付き合いしかしないのが普通ですから」
「ええ、我が主メリッサ・ブラックバーン辺境女伯様は、それはそれは高潔で優雅で、しかもこの上なき優しさまで備えた、お仕え申し上げること自体が喜びである方で……」
「お黙りなさい。あなたに私とお嬢様の会話に口をはさむ権利を与えた覚えはありません。あなたは命令ある時まで黙ってそこにいればいいのです。全く、せっかくの楽しい会話に水を差して、この上なき素晴らしい時間に染みがついてしまったではありませんか!」
アニーの憎しみに燃える目でにらみつけられ、ツナ様は怯えた顔でうつむく。その様子が見ていられなくて、私はあわてて口をはさんだ。
「えーと、それで、あたしも辺境女伯様と一緒で、7体より多くの精霊を呼び出せるのかな?」
と、再びアニーの顔に大輪の花が咲く。
「ええ、もちろんでございます!覚えていらっしゃいますか、10年前までの、あの幸福な日々を。あの時牧場の主力として働いていた、私たち二頭をはじめとした七頭の犬を」
「もちろんだよ!」
「私たち七頭は、お嬢様一家から、格別の信頼と愛情を与えられたことを、皆誇りに思っておりました。そしてあの日、力及ばず自らの命よりも大切なご主人と奥様を何者かに殺められたことを、そしてその後、行方知れずとなってしまわれた最愛のお嬢様をお守りできなかったことを、皆深く悔いております。そして、この先その機会あれば必ず精霊として転生し、今度こそお嬢様をお守りし、そして必ずや仇敵を討ち滅ぼすと、皆で誓い合ったのです」
「ま、みんなそれだけお前さんを深く慕い、心より仕えたいと熱望してるのさ。つまり、俺たち七頭全員、みんなお前さんと深い絆で結ばれているってわけだ」
と、パットが肩をすくめながらつけ加える。
「え、じゃあ……」
「ええ。お嬢様も、その辺境女伯様と同じく――と申しますか、それ以上に多くの精霊を従えることがおできになるはずです」
「それじゃあ……あんたたちだけでなくて……」
「ええ。牧場で仲良しだった動物のほとんどを、精霊として呼び出せると思います」
私は思わず、アニーに負けず劣らずの満面の笑みを浮かべていた。
私ととびきり仲よくしてくれていたあの七頭に会えるだけでもうれしいのに、それ以外の、皆それぞれ個性的で楽しく愉快だった皆にまで会えるのだと思うと、体中が喜びではち切れそうになってしまったのだ。
だが、その笑顔もすぐに困惑に取って代わった。
「でも、あんたたちが協力してくれたとしても、あたしにそんだけの数の精霊さんを養えるだけの精?がなけりゃ、結局呼び出せないんだよね?そんなものすごい素質があたしにあるの?」
「お嬢様、ご自身の素質を過小評価してはなりません。お嬢様は、あのお父上とお母上の血を引く方なのですよ?」
「え?二人とも、動物の扱い方はものすごく丁寧でうまかったけど、それ以外は普通の人だったじゃん」
「いえいえ、とんでもない!あのお二方の発していた素質ときたら、まさにまぶしいほどでございました。実は私たち――お父上の牧場に暮らしていた動物の主だった者たちは、我が夫であるこのパトリックの掲げた旗の下に集った、精霊界でも名の知れた集団なのですが……」
「へ!?そうなのか?いや、そりゃ確かにみんなすごくいいコたちばかりだったけど、でもみんな、牧場に来た時期も違うし、牧場で産まれたコだっていたし……」
「ええ、そうなんですが、実はそれも、全てはこちらで取り計らせていただいたのです」
「……どういうこと?」
頭上にいくつもの不思議マークを浮かべ、眉間に思い切りタテ皺を寄せた私がじっと見つめると、アニーはおもむろに表情を正し、こほん、と咳払いをした。
「私たち精霊は、少なくとも数百年に一度、元の動物の姿で現実世界に転生し、主と定めた方との絆を結んでその精を受けなければ、存在し続けられません。ですが、転生してよい主に巡り会えるかどうかは全くの運任せとなります。ですので、私たちは時間の余裕がある時になるべく頻繁に転生し、「素質があり、動物の扱いに長けた、よい主捜し」にいそしむのです」
「そうなんだ」
精霊も、年経てくると人間をうまく利用し、自分たちの延命を図るようになる、ということだろう。動物だった時はともかく、転生を果たしたパットやアニーのこのふてぶてしさから考えると、それくらい当然のようにしでかすよね、と私はひそかに納得する。
「ですが、その転生も数えきれぬほどとなり、それなりに知恵や知識を蓄えるようになりますと、どのような人間に巡り会っても、なかなか「主にふさわしい」と思えなくなってきます。ことに昨今では純真な心と心底からの思いやりを持った人間が減りつつあり、何度転生をくり返したしたところで、全てハズレ、「このくらいの人間で手を打っておくか」程度にしか思えぬ相手と仕方なく絆を結ぶことがほとんどです。ことに、我が夫、パトリックの「主グルメ」ぶりといったら、それはそれはひどいもので、相当の魅力を持った方に巡り会っても、あそこがダメ、ここがダメと文句ばかりつけてはそそくさと転生を終了させ、精霊界でのうのうと暮らしてばかりいる有様。特にこの千年紀に入ってからというもの、転生自体をいやがるようにまでなって……」
「おい、アニー、アニーさん?我が主に我々の事情を説明するのはいいが、お前さん、なんだかだんだん俺の悪口になってきてねえか?」
と、しぶい顔になるパットに、アニーは「あら、ごめんあそばせ」といわんばかりの「華の笑み」を向ける。
苦り切った表情のまま、パットが再び黙ったところで、アニーは再び私へと向き直った。
「……ところがです。その「ワガママ主グルメ大魔王」の夫が、とある事情からいやいや転生していったかと思いきや、間もなく興奮しきった様子で連絡をしてきたのです。『おい、お前らよく聞けよ、ついに俺は最高の主と出会った。この感動は、俺が精霊として生まれ変わるきっかけを与えてくれた最初の主に出会った時以来だ。あの人間――あいつとなら、人間と動物の垣根を越えて、本当の友情を育めると、俺は確信している。いやあ、まさかあれほどのヤツに出会えるとはな。長く生きてみるもんだぜ……』その興奮しきった口調から、精霊界に残っていた我らは、夫が嘘偽りのない本音を吐露しているのだと、すぐに悟りました。まさかあの「超絶ワガママイチャモングルメヤロー」が、ここまで手放しで褒め称える人間がいるとはと、私たちは俄然、興味を持ちました。ちょうどその頃、皆夫と同じ理由で早期に転生をしなければならなかったこともあり、まずは私を含む数人が転生を果たし、迷い犬や捨て猫、野生馬や野良牛のフリをして、できたばかりの牧場を訪れました」
「……だいぶ不自然な集まり方をしたんだね」
「ええ、まあ、夫が私たちをかついでいるんじゃないかっていう思いがありましたので、いつでもいなくなれるようにと」
「なるほど」
それで父様は、「うちの牧場は自然と動物をひきつけるフェロモンを出してたんだぞ」とか、よくわかんないことを言ってたのか。それにしても、そこまで仲間たちから疑われるパットっていったい……。
「それで、新たに訪れた私たちも、夫の言ってたことがまさに真実だったと、身をもって理解いたしました。これは皆で来ない手はないと、あるものはやっぱり迷い込んだふりをして、あるものはよそで誕生した後、夫に無理矢理連れてこられた主に買い取られる形で、またあるものは牧場の動物の腹に宿って、あるものはいつの間にか巣を作ってと、次々と主様の元へ集ったのです」
「そっか、それがうちの父様だったんだ」
「ええ。お嬢様のお父上とお母上、そして、お嬢様ご本人でございました」
「え、あたしもなの!?」
「もちろんでございますわ!お父上……スティーブン様の動物に対する深い理解と思いやり、お母上エレナ様の、細やかな愛情と心遣いもさることながら、お二人の血を受けたお嬢様の開けっぴろげな愛情と、その身にまとう豊かな精ときたら、当時からまぶしいほどでございました。この方が成人なさったら、きっとこの国、いいえ、この大地が始まって以来のものすごい精霊使いとなる。その従者となることができたら、どれほど誇らしく思うだろうと、当時の私たちは、そんな話ばかりしておりました。ですから、ご安心ください。海千山千の私たちでさえ惚れ惚れするほどの豊かな精をもつお嬢様なら、私どもの身体に描ける限りの精霊を召喚するなど、極めてたやすくおできになるはずです」
「そう、なんだ……まあ、アニーがそう言うんならきっとそうだよね」
「ええ、もちろんです!それで、大変恐縮なのですが……」
ずっと微笑をたたえっぱなしだった顔を不意に曇らせると、アニーはこの上なく申し訳なさそうな表情となった。
「精霊を呼び出すには、たとえそれが私の身体に描かれた精霊紋であっても、精霊の存在を保持する精を発するご本人――すなわち、主様でいらっしゃるお嬢様ご本人による呪文詠唱が必要なのです。ですから、申し訳ないのですが……」
「あ、うん、分かった。私がまたあの呪文を唱えればいいんだね?それで一体どのコを呼びだすの?」
私が意気込んでそう言うと、アニーは先ほどとはちょっと違う、不思議な迫力のある微笑を、その頬に浮かべた。
「お嬢様。私は夫のパトリックが率いる集団――戦士団の副長であると同時に、集団全体を滞りなく運営する役割を司っております。つまり、集団を陰で支える文官たち――猫たちの上官なのです……」




