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あばずれ娘、救国の英雄になる  作者: 柴野独楽


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第1章 あばずれ娘、見出される 13-14

     13

 昨日と同じく、なにもすることのないまま何度も風呂に入れられ、その合間にナイフやフォークと格闘していただけなのに、なぜか時間はあっという間に流れていく。

 気がつけば、既に寝間着とやらを着せられ、

「それでは、今日はこれで失礼させていただきます。おやすみなさいまし」

と、トロルたちから昨日と打って変わった丁寧な挨拶をされて――昨日はただの「平民の訪問客」だったからざっくばらんな口調でよかったが、仮にも騎士見習い候補さまでいらっしゃるなら話は別、貴族の方々にゃそれなりの礼儀を尽くさねえといけねえからと、どれだけ頼んでも、堅苦しい口調をやめてくれなかったのだ――自室に一人取り残されていた。

 ふっかふかのベッドに横たわり、眠気がやってくるのを今か今かと待ち受けていたのだが、体も心もそんなに疲れていないせいで――それともちろん、眠ったらまたあの夢を見てしまうのではないかという恐怖のせいで――なかなか寝付けず、私はどよんとした目でベッドの天蓋を眺めたまま、ため息ばかりついていた。

 なんだかなあ……一体あたし、どうなるんだろう……。

 起きていれば起きていたで、先の見えない漠然とした不安がもやもやとまとわりつき、どうにも落ち着かない。読書とかレース編みとかカードとか、一人でできる暇つぶしのネタがあればよかったのだろうが、あいにく当時の私ときたら札付きのアバズレだから、そういった「室内遊び」にはとんと縁がないときてる。

 仕方なく、そのうち眠くなるだろうとばかり、あっちへごろごろ、こっちへごろごろと寝返りばかり打っていたのだが……そこへ、思ってもみないことが起こった。

 ほとほとと遠慮がちに扉をノックする音が聞こえてきたのだ。

 なんだ?こんな夜更けに?気のせいか?

 けげんな顔で耳をすますと、再び、今度はもう少し強く、コトコトと扉が音を立てる。

 私はむくりと起き上がると、扉のすぐ横にまでそっと歩いて行った。

「……誰?……ですか?」

 そういやこの城には偉い人がたくさんいるんだったと、あわててとってつけたような「ですか」を言い添える。

 と。

「私です。ツナです。辺境女伯様の秘書官の」

 音量を抑えたやや早口のささやき声が聞こえてくる。

「ああ、ツナ様。こんな時間に、一体なんの……」

そう言いかけたところで、ツナ様はかぶせるように、さらにささやき声を続けた。

「実は、ご相談がありまして。あなたの将来にも関わるお話です」

「将来って……あたしが騎士候補になるとかいう?」

「ええ、そうです!そのことで、重大な話し合いを行わなければならないのです!」

 やけに切羽詰まった口調だな、といぶかしみながらも、まあ、そこまで言うのならと扉を細く開ける。

 と、ツナ様がほっとしたような笑顔を見せた。

「ああ、よかった。きっとまだ起きていらっしゃるでしょうと思っていたのですが、思ったとおりでした。それでは、こちらへ」

 言うが早いか、先に立ってどこかへ行こうとする。

「え、ツナ様、こんな時間に一体どこへ……」

「屋根裏です。ここでは少々具合が悪いので、そちらでお話させていただきたいのです」

「あの、こんな時間だし、明日の朝では……」

「ことは急を要します。どうか私を信じて、ついてきてください。お願いします」

 そう言われても、今までアンタを信じてろくなことがなかったんだけど……とそれでもまだためらっていると、

「今までの私の態度がお気に召さないのは分かります。そのことについてはお詫びいたしますので、どうか、どうかお願いいたします!」

と、ツナ様は私の手を取り、土下座せんばかりの勢いで懇願する。

 こうまで言われちゃ、仕方ないか。

 私はため息一つつくと、うなずいた。

「分かりました。あなたについて行けばいいんですね?」

「はい!どうかお静かに、後ろをついてきてください……」

と、いかにもうれしそうにツナ様は急ぎ足で歩き出す。

 私はもう一度ため息をついてから、室内履き越しでもはっきりその冷たさが分かる石造りの廊下を、彼について歩き始めたのだった。


 「ハワード殿からお聞きしました。『エヴェレットの指』で髪をとかしたところ、残念な結果に終わったと」

「ええと……なんか二人して大変だ、と叫び合って出て行っちゃったんだけど、あれってやっぱりダメだったってことなの?」

「ええ、ええ。精霊騎士となるには少々困った状況ですね」

「ああ、そうなんだ。ごめんなさい、役に立てなくて」

 肩をすぼめて頭を下げると、ツナ様は「いえいえ、お気になさらず」と、大仰な仕草を見せた。

 「ここなら誰もきませんから」とツナ様に案内されて入ったその部屋は、どうやら元は誰かの研究室か何かであったらしい。

 円形をした――その部屋は、塔の最上階にあったのだ――壁の半分を占める書棚に、分厚い本がずらりと並べられ、残り半分を占める棚には、にょろにょろしたチューブが一杯くっついた、変な形のガラス瓶や、火にかけてもいないのにボコボコと泡立っている不気味な液体、周りにハエのようなものがぐるぐる回っている球体とか、なにに使うのかさっぱり分からないものがごしゃごしゃと詰め込まれている。

 その上、部屋の中央には巨大なテーブルが置かれ、そのテーブルに負けず劣らず大きなデスクまでもしつらえてある(よくもまあ、これだけ巨大な家具を塔のてっぺんにまで運んだものだ)。

 ということで、そもそもはかなり広いはずなのだが、これだけものがあるせいで、なんだかせせこましい印象で、しかも長い間誰も使っていなかったらしく、やたらほこりっぽい。

 私はその部屋のテーブルに向かい、古びているが頑丈そうな椅子に腰かけ、ツナ様はその反対側に腰を下ろし、向き合っていたのである。

「ところでその、一つ興味を惹かれることがあってですね、つまりその、あなたから抽出されたという、赤い液体のことなのですが……」

と、前置き的な会話が終わったところで、軽く咳払いをすると、ツナ様はそう切り出してきた。

「なにしろ、フェアリーティアーズ以外のものが精霊使いから採取できるなんて、めったにないことですから。是非ともそれを入手して研究してみたいものだと、このように思ったのです」

 切羽詰まっているかのようなのに、反面ひどくもったいぶった、なんだかちぐはぐな口調である。

 私はやや警戒し、

「はあ、そうなんですか」

と、無難な答えを返した。

 するとツナ様は、一気に身を乗り出し、ぐっと顔を突き出してくる。

「それでですね、いかがでしょう、ちょっと取引いたしませんか?」

「取引?」

「はい!その、あの、あなた、精霊使いとしての素質は大いにあると思うのです。ですが、その精霊を呼び出すためには『フェアリーティアーズ』が必須。それが自らあがなえないとなると、これはもう、精霊騎士としては働けません。ですが、実のところ、騎士にならないのでしたら、精霊を呼び出してさえしまえば、それほどフェアリーティアーズの出番はないのです」

「そういうものなの?……なんですか?」

「ええ、そういうものなんです。そこで、取引です。この国では、騎士階級と貴族階級以外、精霊を使役するのは禁じられています。ですがもしあなたさえよければ、私の手持ちのフェアリーティアーズを使って、あなたの精霊を呼び出して差し上げます。その代わり、あなたのその、赤い液体ですね、研究用にほんの少し……そうですね、エヴェレットの指で採取できる1日分だけで結構ですから、私にいただけないでしょうか?」

「え、いいんですか?」

 傷からにじんだあたしの血なんか手に入れて、一体どうするつもりなのかとひどく驚きながらそう問い返すと、ツナ様は途端に狼狽した表情となった。

「え、いや、本当はよくないですよ?なにしろ国法で禁じられているのですから!ですが、どうにもあなたの素質は惜しいですし、それに私、赤い液体への興味が抑えきれなくて。ですから、あえてお願いしているのです。なに、転生したての精霊など、生きた動物と大して変わりません。素質なしということで城を辞する時にどこかに隠して連れて行ってしまえば、絶対にばれることはありません。ええ、ありませんとも!ですから、ぜひ……」

「あ、いや、そうじゃないんです。いいんですか、っていうのは、そんな条件でお願いしてしまっていいのかっていうことで……」

「あ、ああ!ああ、そういうことでしたか!そりゃもう、もちろんですとも!ええ、もちろんこれは私にとってかなり不利な取引なんですよ?ですが、他ならぬあなたのためですから!ええ、せっかくここまでお連れしたのですからね、それぐらいのことはして差し上げてもいいのではないかと、そう思ってるんです!」

「ははあ……」

 旅の道中からずっと、あたしを小馬鹿にして見下してたってのに、一体どう言う風の吹き回しなんだろ?あたしのためを強調してるけど、本当にそうなのか?

 そんな疑念は、もちろん頭に思い浮かんだ。

 だが……断るには、私の切望が大きすぎた。

 一頭でもいい、あの幸せな時間をともに過ごした誰かが甦り、少しの間でもまた一緒に過ごしてくれるなら、少々危ない橋であっても、渡る価値はある。たとえことが露見し捕まったところで、どーせ今までとたいして生活も変わらないだろし。

 そう思うと、怖いことなどなにひとつない。そもそも、夢の中の約束なんていう頼りないものに引きずられて、こんなところまでやってきたのだ。今さらその実現をためらう理由なんて、私にはなにもない。召喚の代わりにとツナ様が出した条件が、寿命を十年分いただくとか、片腕をよこせとか、そういったものであっても、きっと私は喜んで承諾していたに違いない。

 それが、ほんのちょっと頭を梳(くしけず)るだけでいいってんなら、願ったり叶ったりだよ。そうだろ、パトリシア。

 心を決めると、私は正面からまっすぐに、ツナ様を見つめた。

「分かりました。その取引、お願いします」

 するとツナ様は、心のそこからほっと安心した、という笑顔を浮かべた。

「そうですか、よかった!それではもうあまり時間もないことですし、早速始めましょうか」

「はい、お願いします」

 ぺこりと私が頭を下げると、ツナ様もうなずき……それから、とてつもなく意外なことを口にした。

「では、着ているものを全て脱いで、この台の上に横たわってください」


 察するに、ツナ様は精霊だ。だから、服を脱げという言葉に他意はないことは分かる。だが、それでも、一応まだ若く年頃の娘だから、ということで、私はいつでも手近な燭台に手を伸ばせるように身構えた。

 と、そんな私を見て、ツナ様は鼻で笑ったのだ。

「おかしな誤解をしないでください。もういい加減分かっておいででしょうが、私は精霊です。その私にとって、人間の女性の裸体など、目にしたところでおもしろくもなんともない、単なる物体としての意味しかありません。そうではなくて、精霊を呼び出すためには、あなたの地肌に直接、契約紋と精霊紋を描かなくてはならないのです」

 うら若き乙女の生まれたままの姿が――しかも、昨日までと違って、トロルたちの手でピカピカに磨き立てられている!――机やポットと同じぐらいの意味しか持たないと言われ、ほっとすると同時になんだか腑に落ちない感じを味わいながらも、私は言われたとおり、おとなしく服を――「寝間着」全て脱ぎ捨て、「さあこい」と言わんばかりにテーブルの上にうつ伏せになったのである。

 ……それから二時間。私はずうっとすっぽんぽんのまま、テーブルに寝そべり続けていた。

 ツナ様は、目の前に立てかけた分厚い本と首っ引きで、私の腹のあたりにかがみ込み、慎重に慎重に、複雑な紋様を描いている。

 身じろぎして模様が崩れれば元も子もないから、決して動かず、静かにしているようにといわれているのだけど、細いペン先でコリコリと肌を引っかかれるのは、狂おしいほどむずがゆい。それに加えて、ツナ様ときたら、極度に集中しているせいか、やたらふごふごと呼吸が荒く、その息がを吐き出されるたび産毛がそよいで、くすぐったくてたまらない。

 それでも、背中に「契約紋」を描いている間は、どうにかこうにか我慢できた。

 が、次に仰向けとなり、背中よりずっと敏感な腹に紋様を描くとなると、むずがゆさとくすぐったさに加え、一応見た目若い男性が目の前にいるというのに、生まれたままの姿でいるのがどうにも恥ずかしく――「どうかお気になさらず。私は単なる精霊に過ぎないのですから」とツナ様は当然のようにいうけれど、そういう問題じゃないのだ――思わず身じろぎしそうになってしまう。

 そのたび、イライラした表情を浮かべ、とがめるような視線を送られて……私はすっかり恐縮し、動かないように必死で――あまりにも我慢しすぎて、頭がくらくらし、体中に鳥肌が立つぐらい必死で――苦行に耐え続けていた。

 無限に続くんじゃないかと思われる時間が過ぎたところで、ようやく、

「書き上がりましたよ。これでいいはずです」

 ツナ様の天からの声が響き、私は慌てて跳ね起きた。

 手近にあった服でとりあえず股間を隠し、同時に、おそるおそる腹を眺める。と、そこには、丸で囲まれた中に、細く繊細な筆致でびっしりと細かい図形や文字が書き込まれた『紋章』が、くっきりと浮かび上がっている(紋章全体が青いのは、ツナ様が小瓶に入れて大事そうに持ってきた『フェアリーティアーズ』で書かれているからだろう)。

 じっと見てるとめがくらくらしそうで、あたしはあわててそれから目を離し、ツナ様を見た。

「あの……これで、完成ですか?」

「ええ」

「これで、精霊を呼び出せるのですよね?」

「ええ。そうですよ」

 参照していた本を閉じて書棚へ戻し、ペン先を綺麗に洗って拭いと、てきぱき後片付けをしながら、ツナ様は、馬車の中で見たのと全く同じ、素っ気ない態度で答える。

 その冷たさに心がつぶされそうになりながらも、

「あの……ではその、早速呼びたいんだけど……」

と、私はおそるおそるお伺いを立てる。

「明日ではいけませんか?今日はもう遅いですし」

 面倒臭そうな表情となるツナ様に、私はきっぱりと首をふる。

「いえ、今日中にお願いします。よからぬことに手を染めたのなら、さっさと終わらせた方がいいですから」

 牧場での生活でいやというほど身についた処世訓の一つを口にすると、ツナ様は大きくため息をついた。

「仕方ありませんね。その代わり、無事召喚が終わったら、赤い液体をお忘れなきよう、くれぐれもお願いいたします。いいですね?」

 私がこっくりとうなずくと、ツナ様はもう一度ため息をつく。

「本来ならば、教本を手渡し、そこに描いてある呪文を唱えなさい、とだけ言うところですが、あなたに古代文字が読みこなせるとも思えません。私の後について、私のいうとおりに唱えてください」

 そう言うと、秘書官様はやにわにうつむき、胸に右手を当てた。

「古き盟約と新しき契約により、混沌より生まれし秩序に従い乞う」

 慌てて私も、股間から服が滑り落ち、再びすっぽんぽんになるのも構わず、右手を胸の谷間に――右の胸と左の胸の間にある、ちょっとしたくぼ地に――右手を当てる。

「ふ、古き盟約と新しき契約により、コントン?より生まれしチツジ、ジョに従い乞う」

「信頼と絆を橋となし、彼の地より再び我の元へその姿を顕現せよ」

「信頼とキ、キズナをハシとなし、蚊の血よりふたたび割れのもとえケンケン?あ、いや、ケンゲンせよ」

「とく来たれ、なになによ!」

「とくきたれ、なになによ!」

 と、ツナ様が心底情けなさそうな顔で、じろっと私を見た。

「名前!名前をいうんです!」

「名前!名前をいうんです!」

「だから、そうじゃなくて!」

「だから、そうじゃなくて!」

「違う!とく来たれ、といった後で、呼び出したい精霊の名前を唱えるんです!」

 ここまで言われてようやく秘書官様のいいたいことが、私の頭にすっぽりと入った。

 慌てて、

「とく来たれ、パトリック!」

 そう唱える。

 が、何も起こらない。

 あれ、やっぱりちょっと間違いすぎたかな、もう一度唱え直し?とか思った、その瞬間。胸に描かれた紋章から、真っ青な光がほとばしり、次いで、ゆっくりと回り出した(あまりにつたない呪言だったせいで、精霊界の神様かなにかも、どうしたものかと頭をひねった末、おまけで、魔法を発動することにしてくれたらしい)。

 紋章の回転が速まるに従い、光もどんどん強くなり、ついに、満月をいくつも並べたほどの光が部屋中にあふれ……ふっと消える。

 その直後、私は、ものすごい勢いでテーブルの上に押し倒されていた。

「うおっ!わぷっ!な、なに……うぷっ!」

 柔らかくて湿ったピンク色の何かが幾度も幾度も私の顔を下から上へと移動していく。

 それが、舌だとようやく気づいて、私ははっと息を呑んだ。

「パット……?パットなの!?」

 くうんと甘え鳴きする声が聞こえたかと思うと、より激しく相手が顔中をべろべろとなめはじめる。おかげで、私は唾液でべしょべしょになってしまったが……それでも構わず両手で目の前の頭をしっかりと抱きかかえた。

 ごわごわした固い、しっかりした薄灰色の上毛の下に、柔らかくてなめらかな手触りの下毛。やや吻は短いけれど整った顔だち。そして、炯々と光を発する両目は、アクアマリンのような薄い水色。

 間違いない。牧場で一緒に育った、私のパットだ。

 満面の笑顔で私を見つめつつ、ふぁさふぁさと左右に尻尾を振る彼の姿を見ているうち、いつの間にか、両目からはどっと涙があふれてた。

 と、それを見たパットが、心配そうに、後から後から触れる涙をペロペロとなめとってくれる。

 昔と同じだ。私が畜舎でいたずらし、父さんに怒られて、牧場の隅で一人泣いていると、パットは決まってかたわらに寄り添い、こうして、ペロペロと涙をなめてくれた。 

「パット……会いたかった……会いたかったよ……」

 あの頃に戻ったように、パットの首を思い切り胸に抱き、そのたくましい胸に顔をうずめると、懐かしい枯れ草のような匂いが、鼻孔一杯に広がり……私は、涙で彼の胸の毛をぐしょぐしょに濡らしながら、顔全体を笑顔にして、にっこりと微笑んでいたのだった。



     14

 と、そこへ、せっかくの再会に思い切り水をぶっかけるような高慢な声が響いた。

「これはまあ、なんともはや。犬でしたか。てっきり私は、同じ猫かと思っていたんですが、まさか犬とはね」

 全く失望した、と言わんばかりの声でつぶやくと、ツナ様は大きなため息をついた。

「子猫ならば、懐に抱いて隠せばよかったのに、まさか犬とは。それもこんな大型の、獰猛な顔つきをした獣臭いヤツだったとは。やはり主人が主人ならば、従者も従者であるということですか。ま、いいでしょう。犬ならば、牧場で飼っていたものが勝手に後をついてきたとかなんとか、まだ言い訳もできますからね。これがブタとかウシなら、全く言い抜けられないところでしたよ」

 やれやれ全く、と肩をすくめるツナ様に向かい、それまでこの上なくうれしそうな顔でこちらを向いていたパットが、不意に尻尾を振るのをやめると、ざわりと背中の毛を逆立てた。

 あ……これはまずいんじゃ……。

 だが、この雰囲気の変化を感じているのかいないのか、ツナ様は完全にこちらを見下した態度のままだ。

「さあさあ、用事は済んだのですから、早くその貧弱な体をしまって、ここから出て行ってください。あ、くれぐれも約束をお忘れなく。それと、召喚されたその犬ころですが、これが猫であるなら、適切な訓練を行えば二月ほどで私のように人語を理解し、立って歩けるようにもなれるのですがね。あなたが精霊の訓練法をご存じだとは思えませんし、なにしろ犬ですからね。少なくとも半年ほどは訓練する必要があるかと思います。その後、自分が精霊として召喚したことを自覚すると、私のように人の形を取ることが可能になりますが、最初は生まれたままの姿となるので、それまでは屋敷の中で過ごすことをおすすめいたします。さもないと、道ばたでいきなり、素っ裸の男があなたに寄り添っている、なんてことになりますからね。しかしまあ、犬とはね。訓練したところで精霊としてものの役に立つようになれるかどうか。ま、まずは獣の姿のまま、立って歩く訓練から……」

などなど、相変わらずの調子でペラペラと気持ちよさげにまくし立てていた、その時。

 パットが、長々と大きなため息をついたかと思うと、後ろ足でひょいと立ち上がり、しぶい低音でいきなり話し出したのである。

「このタゴールの形から訓練をはじめるってのは正しいな。それから、アヌビス型逆アヌ型と進み、完全な人間形態を取れるようになったら、次は両手両脚、片手片足、胴体のみなど、部分だけを自在に変えられるようにしていく。それらを瞬時に、状況に合わせて自在に変えられるようになれば、とりあえずは訓練終了だ。そうだな?」

 言葉に合わせて獣身人面、人面獣身、下半身のみ犬、上半身犬、右手のみ犬にしたかと思えばその逆に右手のみ人間、次は左手右足左足胴体と、目まぐるしく姿を変えたかと思うと、最後の最後に、パットは黒銀の髪を短く刈り込み、苦みばしった頬に不敵な笑顔を浮かべた、いかつい中年男に姿を変え――しかも、素っ裸どころか、その身を上から下まで真っ黒な革鎧に包み、ついでに腰に長剣を佩いた姿で――仁王立ちに立っていたのである。

「え……あ……あの……」

 あまりに意外な展開だったのか、ツナ様は――そしてもちろん私も――見る者全てにただならぬ威圧感を与える偉丈夫と化したパットを、あんぐり口を開けたまま、ただ見つめることしかできない。

 偉ぶっていた相手のその姿を目にして、パットはにやりと笑うと、すたすたと無造作に秘書官様に近づいていく。

 ここでようやくツナ様は私のパットのただならぬ雰囲気に気がついたのか、素早く腰に提げた小ぶりの革カバンに手を突っ込み、1枚の羊皮紙を取り出して、目の前にかざした――はずだった。

 が、確かにツナ様が目の前にかざした紋様の刻まれた羊皮紙は、その一瞬後には彼の指先から消え失せていた。

「にゃにゃにゃ……あれ?」

 顔だけ猫の姿となり、ネコ語で何やらつぶやこうとしたところで、ツナ様は指先にあったはずのものがかき消えていることに気がつき、あわてて人間の顔に戻って――いや、元はネコの顔の方なんだろうけど、見慣れているのはこちらなので、つい、「戻った」ように感じてしまうのだ――いぶかしげに指先を見つめた。

「ほお、火炎魔法か。いけねえな、こんな狭い部屋でいきなり火球なんぞ撃ち出したら、部屋中丸焼けになるぜ。ここはやはり、樹魔法だろうよ。ま、そもそもこの状況で魔法戦に持ちこもうと考えること自体が大間違いなんだがな」

 いつの間にツナ様の手から奪い取ったのか、パットは手にした羊皮紙をひらひらとためつすがめつした後、ひらりと背後に投げ捨てた。

 あわててツナ様は、再びカバンに手を突っ込んで羊皮紙を取り出そうとした。

 が、それよりずっと速く、パットは胸のホルダーに挿してあったナイフを引き抜くと、カミソリのように鋭利な切っ先を、秀でた額に押し当てる。

 たちまち、額から真っ赤な鮮血が一筋つうっと流れ落ち、ツナ様の動きがぴたりと停止した。

「何度やっても無駄だ。この距離じゃ、どれほど優秀な唱え手でも、ナイフの速さにかないやしねえ。それが魔法の限界だ。魔法ってヤツは、確かに凄まじい威力を秘めた便利な技術だがな、こと戦闘じゃ、基本的に遠距離戦専用、こういった狭い場所じゃ、てんで役に立ちゃしないのさ。今までも何度かそう言って教えさとしてきてやったのに、階級派の猫どもときたら聞きゃしねえ――あ、一応確認するが、お前さん、階級派だろ?こうまで他種出身の精霊や、その主を見下した態度をとる猫と言えば、階級派に決まってるからな」

「え、は、あの……」

 大きく見開いた目で、額のど真ん中に刺さったナイフの蒼い刃を見つめながら、ツナ様はいつの間にか、びっしりと顔中に冷や汗をかいている。

 だが、パットは、先ほどまでのツナ様同様、相手の様子などまるで目に入っていないかのような、おだやかで朗らかな口調のままだ。

「なんで猫族の内輪の話にそんなに詳しいかって?そりゃあ、仲間に猫がいるからさ。お前さんと違って、ものの道理をよくわきまえたヤツらがな。ついでに、物知らずなお前さんに教えておいてやるとな、転生の回数が10回、20回を超えてくると、素っ裸で召喚されるやつなんざ、誰一人いなくなる。いくさでそれなりの手柄を立てりゃ、精霊界から持ち込める衣服やら得物やらをもらえるんでな。今俺が身につけているものは、服も得物も皆、そうやって手に入れたもんばかりだ。って、そこまで言やあ、いくら鈍くても分かるだろうが、今お前さんの額に突き立ってるナイフは、精霊鉄製だ。つまり、そんじょそこらの武器とは違って、精霊であるお前さんの身体を傷つけ、命を刈り取ることも可能だってことだ――っと、さすがにこれは無礼だったか、現にお前さんの額にめり込み、血が流れ出てる時点で、こいつがどういったシロモノか、お前さんにもよく分かったはずだしな」

 ナイフの切っ先を額から外し、くつろいだ格好になると、パットは思い切り笑い声を立てた。

 その声に誘われるように、ツナ様も、

「は……はい……は、ははは……」

と、こわばった笑い声を小さく立てる。

 すると、ここでいきなり、パットが拭き取ったかのように笑顔をかき消し、冷徹きわまりない目つきになった。

「さて、それでだ。ひとつ言っておく」

そう言うが早いか、手にしたナイフをツナ様の頭頂部のほんの数ミリ上の壁に「がずん!」と突き立てた(大して力を込めたようにも見えなかったのに、ナイフの刀身の半分近くまでが壁にめり込み、あまりの勢いに、一瞬、部屋全体がぐらっと震えた)。

「に゛ゃっ!」

 研ぎ澄まされた白刃が凄まじい勢いでいきなり自分に襲いかかり、真ん中分けにしたつややかな頭頂部の毛髪が一瞬で長さ二センチほどに切り詰められる。

 ぶわっと宙に舞った髪の切れ端がふぁさふぁさと舞い落ちるのを目にして、ツナ様は体中の毛を逆立て、すくみ上がった。

 そこへ。

「いいか。今後、俺はともかく、我が主に少しでもナメた言葉を吐いたり、コケにした態度を取ってみろ。このナイフで、お前の頭をミリ単位でそぎ切りにし、魔界ガエルのエサにしてやる!」

 どこにも遊びやゆるみのない、一から十まで本気で言っていると確信できる口調だ。対するツナ様はといえば、体中をぶるぶる震わせながら、これ以上は不可能というほどに大きく目を見開き、針の先ほどに小さくなった瞳で、じっとパットを見つめながら、かくかく細かくうなずくだけ。

 そして……なんとも気の毒なことに、ナイフを突き立てられた瞬間から、彼の股間には黒々とした染みができてしまっていた。そしてその後も染みは、高価そうなズボンの内股全体を覆い尽くすほどに広がって……猫特有の、きついおしっこの匂いが、部屋中に充満したのだった。

 

 この一連の出来事の最中、私はひたすらパットの迫力に飲まれ、呆然とことの成り行きを見守ることしかできなかった。

 圧倒的な力でもって相手を屈服させるその行動は、端から見ているだけでも魂が消え入りそうになるほどに怖ろしい光景であったけれど……同時にそれは、私にとってこの上なく懐かしい光景でもあった。

 そうだ、そうだった。パットは昔からこういうヤツだったよね……。

 牧場で一緒に暮らしていたころ、普段のパットは穏やかで、少々無邪気なところのある、遊び好きな犬だった。

 だが、牧場に害をなすと思われる生き物が近づいてきたり、あるいは、牧童さんたちを含め、牧場の動物たちが自分を少しでも侮り、礼儀知らずな行動を取ったりしようものなら、その態度は一変する。

 相手が何者だろうと、体中に怒気をみなぎらせ、圧倒的な身体能力でもってあっという間にねじ伏せ、手ひどいお仕置きを加えるのである。

 私にとってはこの上なく優しく、愉快で、辛抱強い兄貴分にして「第2の父親」だったけれど、牧場の他の動物たちにとっては、自分たちの上に君臨する帝王であり、そして、その生き物を狙う狐やオオカミ、ヒグマ、家畜泥棒などにとっては――人狼の群れに襲われるあの日まで――あらゆる外敵を完膚なきまでに退ける、圧倒的な守護神だったのだ。


 精霊になっても、一瞬で相手を屈服させる凄みは変わらない――いや、余計に迫力が増してるかも。それにしても、相手は秘書官様だってのに、ちょっとやり過ぎなんじゃ……。

 私のそんな心配をよそに、ツナ様の自尊心を粉々に砕いたことを確信したのか、パットはようやく満足げな顔になると、壁のナイフをひょいと引き抜いた。

「分かってくれりゃ、それでいい。これから同じ精霊同士、仲良くやろうぜ。なあ?」

「は、はい!はい、それは、はい!で、では、私はこれで……」

 できうる限り体を縮め、この恐ろしい男の――生きていた頃のパットの迫力を知っている私でさえ恐ろしく思うぐらいなのだ。ツナ様は、生まれてこの方味わったこともないほどの恐怖を感じたに違いない――鎮座する部屋から出て行こうと扉へ向かった(扉のノブに手をかける直前、「落ち武者カット」にされてしまった髪を振り乱しつつふり返った彼は、この上ない恨みのこもった――この借りは必ず返す、いいか絶対だ、その時になって後悔してももう遅いぞ、せいぜい今のところはいい気になっているんだな、などなど、悪役の捨て台詞にありそうな文句がそっくりそのまま込められた――目で、パットをねめつけた。それで私は、彼が不倶戴天の敵になってしまったことをはっきり理解し、近い将来、パット共々、きっとひどい目に遭わされることを予感したのだった)。

 が、残念なことにというか、ありがたいことにというか、私のその予感は、全く的中しなかった(私の「女の勘」は、実に当てにならない)。

 パットが、たとえどれほどわずかなものであるとはいえ、自分に向けられた敵意や殺意を察知しないわけがなかったのだ。

 つまり……ツナ様がいそいそと扉を開けたその瞬間、パットは再び、声をかけたのである。

「おっと。そうだ、一つ忘れてた」

 ツナ様は「ひっ」と、その場ですくみ上がると、おそるおそる振り向く。

「お前さん、さっき確か、我が主に向かって『約束』がどうとかいってたよな?ありゃ一体、なんのことだ?」

 ネズミをいたぶる猫のように――猫をいたぶる犬のように?――パットが、ゆっくり優しげに問いかける。途端に、再びツナ様の額にぶわっと冷や汗が浮かんだ。

「あ、いえ、あれは、べつに、その、なんでもない、つまらない約束でして、そう!あの、この後のお食事のことで、ちょっと……」

「この真夜中に食事?ふざけるな。ま、お前さんのような階級派が、なんの得にもならねえのに、進んで紋章描きを申し出るとは思えねえしな。何らかの取引はあったんだろうが……」

「いえ、ですからその、ほんのちょっとした……はい……」

 慌てふためいてなんとか言いつくろおうとする相手、冷たく鋭い目でにらみ据えて黙らせると、パットは不意に視線を私の方へ向けた。

「なあ、パトリ。お前さん、こいつになに言われた?」

「え?なにって、だから……」

 と言いかけたところで、慌ててツナ様が口を挟む。

「何でもないですよね?本当につまらない約束……」

 その途端。

「我が主の言葉を遮るな!その無礼な口をなで切りにして、魔界鳥に食わせるぞ!!」

 さきほどの怒号に勝るとも劣らない声で、パットがびしりと怒鳴りつける。

「ひ、ひゃい……!」

 これ以上ないというほどに縮めていた体を、どうやってかさらに小さくし、股間から、さっきよりもっと濃厚なおしっこの匂いを漂わせながら――どうやら、もう一度、さっきより盛大にもらしてしまったらしい――ツナ様は泣きそうな顔でその場に立ちすくむ。

 その彼をひとくさりにらみつけた後で、再びパットは、私に向き直った。

「で……なに言われたんだ?」

「え、だから……フェアリーティアーズが採れない私は精霊騎士として失格だって。でも、それじゃせっかくここまできたのに気の毒だから、内緒で精霊を召喚してやるって。その代わり、私の体から採れる液体を寄越せって。だから、私……」

「ほう、ほう。で、お前さんから採れた液体ってのは、どんなシロモノだった?」

「ええとね、多分、櫛の歯で頭の古傷をひっかくかなんかしちゃったじゃないのかな、血が……」

「違うな。『エヴェレットの指』でいくら頭を梳ったところで、傷なんか一つもつきゃしねえよ」

「え、でも、全然青くなくて、血と同じ真っ赤な……」

と、私がそう言いかけた途端、ツナ様は、ものすごい素早さで扉を開け、脱兎のごとく――脱猫のごとく?――逃げだそうとした。

 が、その一瞬前に、

「動くな!!!!」

 パットの咆吼が、塔をびりびりと震わすくらいの大音声で響き渡り……哀れ秘書官様は、その場にへなへなと座り込んでしまう。

 それを確認したところで、パットは再び私に向き直った。

 その頬に、剣呑な笑みが浮かんでいる。

「なあるほど、血のように真っ赤な液体ね。読めてきたぜ。お前さん、そいつの名前を聞かなかったか?」

「え?名前?」

「ああ。『ドラゴンブラッド』って言うんだがな」

「あ、うん!そうそう!そういえば、ハワードが、ガラス瓶の中を見るなりそんなこと叫んでた!」

「うんうん、そうだよな。それからしばらくして、コイツがこっそりやってきたと」

「え、うん……」

「でもって、取引を持ちかけられたんだな。その液体には全然価値なんかねえが、特別に紋章を描いてやるから、そいつを寄越せ、とかなんとか」

「すごい!なんで分かるの!?アンタ、どっかに隠れて見てたの?」

 パットがあまり性格にツナ様とのやりとりを再現してみせたことにすっかり感心し、そう問いかけたのだが……パットはただ、渋い笑みだけを返しただけだった。

 そして、くるりときびすを返したかと思うと、いつの間にか再びホルダーから引き抜いていたナイフを片手でもてあそびながら、扉の前にへたり込んだままのツナ様に、ゆっくり近づいていったのである。

「階級派の猫ときたら!高慢で自信過剰で、ちょっと目を離すと、決まって勝手なことをし始める。うぬぼれが強くて、自分よりも賢いものはないと思い上がり、この世の全ては自分の思い通りになると思い込んで、とんでもなくヤバい橋を渡っているとも気がつかず、取り返しの付かないことをしでかす。全く、本当に手に負えない!」

 ため息交じりにつぶやきながら――だが、どことなく楽しそうな様子で――パットはツナ様の背後に立つと、その頭に、そっとナイフをあてがった。

「あの……どうか……」

 辺境女伯の若き秘書官様は、今にも泣き出しそうな声を出すが、パットは全く取り合わない。

「不利な取引だと?なるほど、ものはいいようだな。確かに、こんなヤバい取引に手をつけたと知れたら、お前さんの身はとてつもなく危なくなる。なにしろドラゴンブラッドっていやあ、あまりに貴重過ぎて、国王や領主の手によって、厳重な上にも厳重に管理されているシロモノだからな」

 一言一言、相手に言い聞かせるように言葉を発しつつ、ゆっくりとナイフを動かし、パットは、哀れなほど短くなったツナ様の頭頂部の頭髪を、さらにするするとそり落としていく(ナイフの切れ味ときたら恐ろしいほどで、髪の毛にあてがった途端、毛が自らの意志でそうしているかのように、頭からはらりと落ちていくのだ)。

「精霊界じゃ、もっとあからさまだ。ドラゴンブラッド一瓶ありゃ、俺が身につけている装備も服も、一式そっくり手に入り、さらにおつりが来る。精霊王その人への献上しか認められてないから、はっきりとした相場があるわけじゃねえが、その価値でいえば、まあ、ドラゴンブラッド一瓶で、フェアリーティアーズ一万瓶、ってところか。それを、紋章をただの二つ描いただけで、ドラゴンブラッドを寄越せ?えらく足下を見たよな、おい?」

「あの、それはその、ですから……」

 ただただ震えるだけで、ろくに言葉を発することもできないツナ様。そんな彼の様子に一切構わず、パットはナイフを動かし続け……彼の頭は、先ほどの「落ち武者カット」から、頭頂部あたりだけがツルツルになった、見事な「カッパ頭」と化してしまっている(せっかくの美少年が台無しもいいところだ)。

 やがて、自分の「作品」に満足したのか、パットは、ツナ様のツルツルの頭頂部をぴしゃぴしゃと何度か軽く叩くと、そっとささやく。

「さて、いいカンバスができあがったことだし、刻みつけるとするか――『ハスケルの烙印』をな」

「お願いです……それだけはどうか、どうか……!」

 ツナは、とうとう本当に泣き出してしまった。けれど、パットは上機嫌な表情のまま、追求の手をゆるめようとしない。

「主の命令でもないのに、無知な人間をたばかり我欲を貪ろうとしたんだろ?俺には、烙印を押すにふさわしく思えるんだがな」

「烙印を刻まれたら、二度と仲間の元に帰れなくなってしまいます!さげすまれ、嘲笑され、忌み嫌われて、たった一人で人目を避けて生きていかなければ……」

「それだけのことをしでかそうとしたんだからな。仕方ねえだろ?」

「お願いでございます!ちょっとした、本当にちょっとした出来心だったのです!やむを得ぬ理由がございまして、それで、つい……」

「ほう。でもまあ、理由がなんであれ、無垢なる我が主を導こうともせず、食い物にしようとしたことには変わりないしな」

 引き抜いたナイフで、ちくり、とツナ様の頭のてっぺんあたりを刺すと、泣き声が一段と激しくなった。

「おねが、お願いでございます!どうか、どうか!なんでもいたします!なんでもさせていただきます!ですから、どうか、どうか……!」

「……なんでもするんだな?」

「はい!もちろん、我が主の不利益にならぬ限り、あなた様のご命令通り、なんなりと!」

「心を入れ替えるってのか?」

「は、はい!今後一切、精霊にあるまじきことに手を染めたりはいたしません!」

「へええ。悪事がばれた途端に改心するって?なんとも都合のいいことだな、おい?」

「本当でございます!どうか、どうか信じてくださいませ!」

「ふうん。でもよ、何もなしで改心したかどうか信じるってわけにはなあ……」

「それならば!なんでもお言いつけください!あなた様のために、このわたくし、どんなことであろうと……」

「俺のため、だと?」

 また、パットの声に剣呑な響きが混じり、ナイフを持つ手にほんの少し力が入ったのか、ツナ様の頭の皮膚がぷつりと裂け、血が一筋、つうっと流れ落ちた。

「た、大変失礼いたしました!あなた様と、あなた様の主でいらっしゃるパトリシア様のために、なんなりと……」

 ツナ様が慌てふためいてそう口にした途端、パットは再び、陽気で上機嫌な口調に戻った。

「そうかい!そこまでいってくれるってのかい!いや、実はな、お前さんにちょっとした頼みがあってな」

 それを聞いて、ツナ様も、ここが勝負所と、

「はい!私にできることならなんなりと!」

 精一杯へりくだり、哀れな声を出す。

 その姿を見て、パットは満足そうにうなずいた。

「そうかいそうかい。そりゃありがたい。いや、なに、そんなに難しいことじゃねえよ。我が主の体に、もう一つ、召喚紋を描いてほしくてな。俺は、そういうチマチマした作業がどうも苦手でよ」

「ええ、ええ、お安いご用でございます!喜んで、描かせていただきます!」

 話がもりがっている二人を尻目に、私はただただあきれていた。ツナ様の変わり身の早さ、調子の良さにもあきれたけど、それよりも、私の忠実なパットが――いつも私のそばにいて、私に寄り添っていたあの優しいパットが、実はこんなに食えないオッサンだったことに、ものすごい衝撃を受けていたのだ。

(なんだ、こいつ……純情無垢な狼犬だと思ってたのに、とんでもない!実は、純腹黒なタヌキオヤジだったのかよ……)

 無二の親友のように肩を組み、笑い合う――ただし、パットはどこか威圧的で、ツナ様はこびへつらうような笑いだ――ふたり。そこへ、ふと、ツナ様が真顔になり、

「あ、あの……一つだけ、お願いがあるのですが」

 おそるおそる、そう切り出した。

 パットが問いかけるような表情になると、ツナ様は困ったような、情けないような顔で、

「作業にかかる前に、ちょっとだけ、お時間をいただきたいのです。その……ズボンを履き替えてくる間だけ」

そう言ったのだった(ああ、気の毒に……)。



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