第1章 あばずれ娘、見出される 11-12
11
「ふはあああああっ!」
声にならない声と同時に大きく目を見開くと、母様の位置そのまま、私に覆い被さるようにして、じっと私を見つめている顔があった。
母様に負けず劣らず巨大でいかつく醜いその顔に、夢から覚めたはずがまだ悪夢の中にいたのかと、私はひゅっと息を吸い込んだまま、全く息ができなくなる。
と。私を見下ろしていたその顔が、にたり、と笑った。
その途端、呪縛から解き放たれたかのように、私の口から
「んぎゃあああああああああああっ!」
と、ものすごい悲鳴がほとばしり出る。
「うごおおおおおおおっ!」
同時に、相手も驚愕の大声を上げつつ跳びすさり、おかげで飛び起きた私も、トロルの顔に激しく頭をぶつけずにすんだ。
上体を起こしたまま、ぜいはあ激しく息をつく私。
その私に向かって、
「なんだいなんだい、眠りながら泣いてるようだったから心配して見ててやったのに、人の顔見ていきなり悲鳴なんか上げやがって!失礼にもほどがあるってもんだよ……」
と、この上なく不機嫌な顔のトロルがぶつくさとつぶやく。
「あ、ああ……ごめんよ。ちょっと、嫌な夢見ちゃってさ」
「嫌な夢だって?大丈夫かい?」
気遣わしげな表情となるトロルにむかって、こわばった頬を無理矢理引き延ばし、笑顔を向ける。
「ああ、うん。いつものことだから」
「そうかい。それじゃあ、そろそろ起きてもらおうかね」
笑顔を見せたことでほっとしたのか、トロルも頬をわずかにゆがめ、にやりと笑う。
「あ……それなんだけどさ。実は、昨日はなかなか寝付けなくて、ようやく寝入ったのが夜明け前ぐらいだったんだ。だからその、なんていうか、まだ眠気が抜けきってなくてさ。申し訳ないけど、もう少しだけゆっくりベッドで休めねえかな……」
どうせ今日中にはおいとまするつもりだし、それだったら多少はワガママ言ってもいいかと、思い切ってそう頼んでみたのだが……トロルはすげなく首を横に振った。
「アンタのその顔見りゃ、眠りが足りてねえのも、その眠り自体が満足なものじゃなかったのもよく分かる。だから、できることなら、もう少し朝寝坊させてやりたいんだけどね。残念ながら、そうはいかないのさ」
「え?」
「面会の予定が入っているんだよ、1時間後に」
「うそ!?聞いてないって!待ってもらえねえの?」
「もらえないね。なにせ、相手は騎士様だ」
「そんな偉い人が、あたしに何の用事があるんだよ!」
途方に暮れ、八つ当たり気味にそう叫ぶが、トロルのやつ、肩をすくめるだけだ。
「さてね。本人に聞いたらいいんじゃないか?」
ああ、そうですか。あたしの都合なんざ完全無視、偉い人の都合に合わせて動くように、というわけですね、とふてくされたものの……それを決めたのは辺境女伯様であって、このバケモノ三人組は言われたとおりに動いているだけなんだよな、と思い至って、ついに私はあきらめの吐息をついた。
「分かったよ。存分にやってくれ」
その言葉を聞くやいなや、待ってましたと言わんばかり、トロルもオーガもイエティも、一斉に私に向かって襲いかかってきたのだった。
1時間後。
品評会前の牛だって、これほどまでに磨き立てられはしないって勢いで徹底的に洗われ、整えられ、塗りたくられて飾られた私は、げっそりした顔で、客室にしつらえられた椅子に座っていた。
まあ、そのおかげで鏡に映った自分は到底ド底辺育ちのアバズレだとは思えず、一体どこから湧いて出たんだこの令嬢っぽい娘は、と二度見してしまうぐらいには、うまく化けさせてもらえている。
けれど、口元までしっかり化粧なんかされてしまったせいで、どうやってものを食べたらいいのか、さっぱりわからない。
一応目の前に軽食が並べられてはいたものの、お茶だのクッキーだのは、そのまま口に運べばべったり口紅をつけてしまいそうだ。そうしないで飲み食いするには……。
うん、お茶はきっと、カップに添えられたこのちっちゃいスプーンですくって飲むんだよな。クッキーは、たぶんお茶の上で手で割るかなんかして、ちっちゃくしてから口に運ぶ。うん、きっとそうだ!
しばらく難しい顔で考えた末、ようやくその結論に達し、私は晴れ晴れとした顔でティースプーンに手をのばした。
そこへ、扉をノックする音が響く。
「はい?どなた?」
私に代わって、トロルが無愛想な声で誰何。
普通ならばここで、扉を小さく開けた召使い、あるいは執事が「~さんがいらっしゃいました」と告げ、こちらに顔を向けたトロルに向かって私がうなずきかけると、「どうぞ、お入りください」と返答し、それでようやくお客様が入ってくる、という段取りになるはずだ(というか、磨き立てられてる最中、トロルからくどいほどそう聞かされていた)。
だが。
あにはからんや、執事代わりの秘書官様が「ハワー……」と声を上げたところで、早くも扉がばあんとものすごい勢いで開かれたかと思うと、なにやら白と金のカタマリのようなものが、ものすごい勢いで部屋に飛び込んできたのである。
「やあ、はじめまして!ボクはハワード・アップルトン!叔母様に頼まれて、君のメンターに任命されたものだよ!よろしくね!」
扉にほど近いテーブルにむかって座っていた私に背を向け、誰もいない天蓋つきベッドに向かってそう叫んだかと思うと、
「あ、まだ寝てるのかい?ほら、さっさと起きないと、お日様はもうかなり上まで登っちゃってるよお?さあ、起きた起きた!」
言うが早いか、ベッドにかがみ込んで、せっかく三人組がぴっちり整えてくれた上掛けをはぎ取り、にっこりと微笑んだのである。
いやアンタ、上掛けはぎ取って覗きこむって!ド下品な牧童だって、せいぜい端をそっとめくって入り込んでくるぐらいで、そこまでしたヤツはいなかったぞ……。
この上なく困惑した顔でなおも見守っていると、ヤツは、上掛けをめくったことにまるで罪悪感を感じていないかのような、天真爛漫な様子で、首をかしげる。
「……って、あれ?いないね?おかしいな、どこかな?」
首をひねりながらベッド周りを左右に見回すその青年を、私は無言で指さしつつ、困惑したままの顔をトロルへと向けた。
が、トロルは何もかも諦めたような顔で、左右に首を振るばかり。
あの表情からして、どうやらこの青年、これが通常運転であるらしい。
仕方なく、私は彼に向かって、おずおずと声をかけた。
「あの、すみません、こちらです……ハワード様」
と、ハワード様は慌てたように振り向くと、ようやく私を見つけ、にぱっと満面の笑みを浮かべ、すごい勢いで近づいてくる。そして、
「いやあ、もう起きて、こっちにいたんだね!初めまして、僕、ハワード!僕の初めてのメンティーがこんなに美人でかわいらしいお嬢さんで、すごくうれしいよ!」
言うが早いか、大きく広げた両手で抱きついてこようとしたのである。
とっさに席をけたてて立ち上がり、素早く身をかがめ、左手の下をかいくぐって、私はハワード様の背後に逃げ出した。
「ちょ、初対面の女子の部屋にいきなり入ってベッドの上掛けはいだかと思ったら、今度はいきなり抱きつこうとするって、なんなんだよ、アンタは!」
ふり返ってそう怒鳴りつけると、ハワード様ははっと目を見開き、続いてばつの悪そうな顔になった。
「あー、そうだったあ。姉様にも、ホットミルクにも言われてたんだよね、女の子にいきなり失礼な真似しちゃいけないって。つい忘れちゃってた、ごめんなさい!」
ビシッと直立不動になったかと思うと、ハワード様は深々と頭を下げ……それから、にへっと笑った。
その時になってようやく気づいたのだけど、この青年――というには少々幼い感じだけど――びっくりするほどの美形だった。
すらりとした長身で、輝くような金髪の巻き毛をあごまで垂らし、白蝋のように白くきめ細かい肌の顔には、長いまつげに彩られた真っ青な瞳と、形のよい鼻、そして、健康的な薄桃色の頬には、屈託のない――なさ過ぎる笑顔が宿っている。
その目でじっと見つめられ、おだやかに微笑みかけられたら、どんな娘でもイチコロで夢中になってしまいそうな、高貴で、たおやかで、それでいて精悍な、まさに神々のいたずらと言うべき他ないような造形に、百戦錬磨のアバズレだった私も、おもまず息を呑み、まじまじと見入ってしまう。
うわあ……すげえな。こんな整った顔の人、本当にいるんだ。おとぎ話の挿絵にしかいないもんだと思ってたよ。しかし、しかし惜しい!こんなに美形なのに、なんだよ、この憂いも悩みも全くない、あっけらかんとした笑顔は……。
と、その少年のような笑顔がふと曇らせ、ハワード様は小首をかしげた。
「それにしても、おかしいんだよね。ボクがシーツをめくったり抱きついたりした女の子は、みんな喜んでくれるのに、どうして二人はそんなことしちゃいけないって言うんだろう?」
なぜそれがいけないのか、本気で分からないらしいその姿から、この青年が、正真正銘少年の心のまま大人になってしまった人であること、そして、上流階級の娘さんたちの間でとんでもない人気を集めている人であることが、なんとなく分かってくる。
まあ、でも、だからって、あたしまでがちやほやしなくてもいいよな?てか、あたしみたいな下層の女になんか、ちょっとした遊び相手ぐらいにしか思ってねえんだろうし。
長年の下層暮らしで染みついた妬みそねみをあからさまに表に出しながら、
「それで?その、上流階級のお嬢様がたから大人気のハワード様が、あたしに一体どんな御用事なのさ?」
と、出身階級丸出しの言葉で尋ねる。
それを聞いて、ハワード様はにっこり笑った。
「だから、君のメンターになりに来たんだよ、メリッサおばさまに頼まれてね!」
「だからその、メンターってのはなんなんだよ!」
「え?あ、あれ?おばさまから聞いてないの?」
「聞いてねえよ!いきなり馬車に乗せられてこんなところまで連れてこられたと思ったら、あたしの顔見るなりちょっと時間をくれって、追っ払われて!その後は無理矢理洗われてこんな格好させられて!一体なにがどうなってるんだよ!」
これまでずっと、こっちの無知を知っていながらなにも教えず放っておかれた鬱憤が一気に爆発し、自分でもちょっと驚いてしまうほどのきつい言葉がほとばしり出る。
と、ハワード様は困ったような、ちょっとしょんぼりした表情になった。
「そっか、なにも聞かせられていなかったんだね。それは、不安だよねえ。ごめんね、僕、てっきり知っているものかと思って……」
ツナ様やメリッサ様と違い、相手があんまりにも素直に謝ってくれたものだから、私はなんだか悪いことをしたような気分になってしまった。
「いや、あたしこそごめん。ちょっと言いすぎたよ。ちょっとここに来てから分からないことだらけで、イライラしててさ。アンタのせいじゃないのに」
「いやあ、最初からちゃんと説明しなかったボクのせいだよ。ごめんね」
「もう、いいって。それで、一体なんなんだ、そのメンターって?ていうか、そもそもあたしはなんだってこんなところに呼ばれたんだ?」
ここで私は大きな失敗をした。これまで会話した時点で、ハワード様が素直すぎで単純すぎのオツムの持ち主だと分かっていたはずなのに、質問を二つ重ねて発してしまったのである。
ハワードは、途端に脂汗を流しはじめた。
それらの質問について、なにから先に、どこから答えてればいいのか、どのように答えれば正解なのか、必死でグルグル考えたあげく、
「あの、その、とにかくね、君には特別ななんかがあるかもなんだよ!」
と、言い逃れでもするかのように、必死で言葉をひねり出す。
「なんか?なんかってなんだ?あたしはただのしがない牧童だぞ?家畜の世話ならできるけど、それ以外のことなんざ……」
またしても多くの問いかけを投げかけてしまったせいで、ハワードはついに爆発した。「ああ、もう!言葉で説明するより、やってみせた方が早い!ちょっとごめんね!」
そう言うが早いか、いきなり私の頭を片手でわしづかみにして押さえつけると、片手を腰のベルトに当てたのである。
その瞬間、私の頭に閃光のようにいやな記憶が甦った。
ひげ面の野卑な男が、私の頭を乱暴に股間へと引き寄せ、「ほら、咥えろよ」といいながら、ズボンを下ろした中にある薄汚いモノを、顔にぎゅっと押しつけようと近づけてくる――そんな、思い出したくもない光景が。
「何しやがる、変態野郎!」
思わず叫び声を上げた私は、ぐっと右拳を固めると、ハワード様の――いや、ハワードの野郎の――急所めがけて、まっすぐに突き出していた。
私の必殺の一撃だ。
今まで私に手を出そうとしてきたゲス男たちで、これをかわすことのできた者は、誰一人いない。皆、油断しきったところへの強烈な衝撃を喰らわされ、局部を両手で押さえたまま悶絶するか、うめき声を上げながら地面をのたうち回る。そのみっともない姿を見下ろしながら、「このパットブル様に迂闊に手を出すから、はらわた食いちぎられるのさ。これからバカな真似をするときゃ、よくよく相手を選びな、このゲス野郎!」と啖呵を切り、意気揚々と立ち去るところまでが、お定まりのパターンだったのだ。
そのはずだったのだけど……。
ハワードの野郎、信じられないほど敏捷な動きで、やすやすとこぶしをかわし、
「ちょっとお~!いきなりなにをするのさ、危ないじゃないか~!」
と、突然の攻撃に対する驚きも怒りも全くない――ということは、私の攻撃に全く脅威を感じなかった、ということだ――ただ困惑だけがこもった、情けない声を出したのだ。
「てめえこそ、私に何させる気だったんだ、このゲス野郎!」
必殺の一撃を余裕綽々でかわされた屈辱ですっかり頭に血が上り、私はテーブルの上の燭台をひっつかむと、大声で雄叫びを上げつつ、何度も何度も突きを繰り出した。
が、ハワードは、必要最小限の動きでそれらの攻撃を全てかわしつつ、
「ねえ、どうしたの?いきなり、変だよ。お願いだから、落ち着いてよ……」
などと、少々困惑した顔で、ひたすらのんきな声を出すばかり。
バカにしやがって、このお坊ちゃんが!
ますます激昂し、せっかく綺麗に整えてもらった髪を振り乱し、上等なドレスを汗で台無しにして、相手を口汚くののしりながら、なおも十数度、突きを放ったのだが……全てなにごともないように躱されてしまう。
とうとう腕が上がらなくなり、私は、疲れ果ててその場に座り込んでしまった。
「ちきしょう……ちきしょう……!」
悔しさに、自然と涙が頬を伝い落ちる。
そんな私を気遣うように、ハワードは、そっと背後から私の肩に触れた。
「あの……なにか気に障ったようで、本当にごめんねえ。僕は、ただちょっと、やってみせようと思っただけなんだけど、あんなに怒るなんて、思ってもみなくて……」
「なにが確かめるだ!ちくしょう……!勝手に人の頭押さえつけて……男の考えることはみんな一緒だ、ちくしょう……!」
「え!?ええっ!ち、違うよ!そんなんじゃないよ!頭を押さえたのは、ただ……」
「好きにすればいいだろ!こんな賤しい女のカラダがほしいんなら、くれてやるよ!ほら!」
肩に置かれた手をつかみ、胸元にぎゅっと押しつけてやる(残念ながら、ちょっと押しつけただけで、すぐあばらにぶつかる程度の膨らみしかないのだけれど)。
と、驚いたことに、ハワードは、
「ひゃあああああ~~~!!!」
とものすごい悲鳴を上げると、大慌てで手を振りほどき、
「び、びっくりした!何するんだよう~!」
胸に触らせた方の手を自分の胸に押し当てながら、みるみる顔を真っ赤にしていく。
え……?なにこの反応……?
私が眉をひそめたところで、扉越しに声が響いてきた。
「ハワード様!すみません、遅れまして……って、なにしてたんです?」
濃厚に疑いが滲む声を出しつつ、じろりとハワードをにらみつけたのは、どこかツナ様と同じ雰囲気を漂わせた、半ズボン姿の少年だった。
途端にハワードはそわそわし始める。
「違うんだよう、ホットミルク!その、この子、なにも知らないみたいだからね、実際にみせたら早いかなって思ってちょっと頭押さえたら……」
「頭を押さえた!?」
「あ、うん、その、『エヴェレットの指』を使ってみせようかなって思って……」
「あなたって人は!いつも言ってるでしょう、初対面の女性に、それも若い娘さんに失礼な真似をしてはならないと!」
「え、だって、説明してくれって言うから……」
「それだったら、私が来るまで待てばいいでしょう!なんだってできもしないことをやろうとするんです!」
「できると思ったんだよう……」
「ああ、もう、ほんとに……」
話にならない、と言わんばかりに頭を左右に振ると、少年は改めて私に向き直り、深々と頭を下げる。
「すみません、パトリシアさん。主のハワード・アップルトンがとんだ失礼を働きまして。私は従僕のホットミルクと申します。主は悪い人間ではないのですが、少々頭のできが雑でして。いくら注意し、言ってきかせても、右から左へとその内容が抜けてしまうのです。どうか、しつけの悪い犬か何かにじゃれつかれたとでも思って、お許しいただけないでしょうか」
しつけの悪い犬って、従僕の割にはこの子も主のことたいがいムチャクチャ言うな、と思いながらもうなずくと、ホットミルク様はほっとしたように微笑んだ。
「お許しいただけるのですね、よかった。全くもう、ハワードときたら、ちょっと目を離すとなにをしでかすか、分かったもんじゃなくって。毎日ヒヤヒヤの連続なんですよ」
「いえ、その……あたしの方こそ昔のこと思い出して、やり過ぎちまった。申し訳ない」
「そうなんですか。それはさぞ、怖い思いをなさったでしょう。後でハワードにはよく言って聞かせますから」
「ごめんねえ、パトリシア」
頭を下げるハワードのあまりのしょぼくれように、思わず笑みがこぼれる。
「もういいって。あたしも悪かったんだ。それにしても、アンタたち仲がいいんだね。ホットミルク様は従僕っていうぐらいだから、アンタより身分低いんだろ?それなのに、まるで友達みたいだ」
「そりゃあそうだよ、だって、生まれた時から一緒だもの!」
と、ハワードが今までしょぼくれてたことなんですっかり忘れたかのように、にっかり笑う。
「そうなんだ。生まれた時からって、ホットミルク様が?」
「ううん、僕が、だよ!」
「……へ?」
おそらくその時の私は、ものすごく変な顔をしていたに違いない。
それはそうだ。だって、どう見たってホットミルク様はハワードより5歳、下手をすると10歳は年若い少年の姿なのだから。
なのに、ハワードが生まれた時から一緒?一体どういうことだ?
と、そこへホットミルク様が割って入った。
「パトリシアさん。どうか私のことは「ホットミルク」と呼び捨てになさってください。私はあくまで従僕ですから」
「え?でも、ハワードって貴族なんだろ?その貴族様の従僕なんだから、あたしなんかより身分がずっと高いんじゃ……」
「それは人間同士の取り決めです。私は単なる従僕ですから」
「え、でも、ホットミルクさ……」
うっかりまた「様」付けで呼びそうになったところ、すかさずホットミルクは困り果てたような顔を私に向けた。なので、慌てて言い直す。
「……ホットミルクは、ハワードと友達みたいに接しているし、やっぱりそれなりに敬意を払わないといけないんじゃ……」
「それは、彼と私が生まれた時からずっと一緒で、幼いころから友達づきあいをしていた、特別な関係だからです。お気になさらず、どうか呼び捨てにしてください」
「うん。そこまで言うなら……」
不承不承うなずくと、ホットミルクも、安心したようにうなずいた。
「さて、ご納得いただけたところで、とりあえずあちらに席を移しませんか?いつまでもこんなところで話をするのもおかしなものですし」
言われてようやく気がついたのだけど、私はずっと床に座り込んだまま、そしてハワードとホットミルクはその私の横に突っ立ったまま、ずっと話をしており……私は投げ出していた両脚を慌てて引っ込めたのだった。
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「……さて、ようやく少し落ち着きましたね」
トロルたちの用意し直してくれた紅茶をカップから上品にすすり――そういやあの人外三人組、ずっと部屋の中にいたくせに、あたしたちがもめてんのも知らん顔でただ突っ立ってやがった。上流階級のいざこざには首をつっこまないってことなんだろうけど、薄情なヤツらだ――ホットミルクは、にっこりと笑った。
「本来ならば主自ら自己紹介しなければならないところですが、なにしろ我が主はアレなもので、改まった挨拶やきちんとした礼儀の必要な場において、必ずなにかしらやらかしてくれます。ですので、ここは従僕の私が代わってご挨拶申し上げます。こちらはハワード・アップルトン。私の主にして、辺境女伯様よりパトリシアさんのメンターを命じられた者です。よろしくお願いします」
「そうそう、それだよ、そのメンターって……」
そう言いかけて、ホットミルクの優しいけれどなにか言いたげな表情に気づき……私は乗り出した上体を大慌てで元に戻した。
「丁寧なご紹介、あざす……ありがとうございます。あたしは、パトリシア・ブルフィンチ。ここからずっと北西、背骨山脈の麓あたりにあるさびれた牧場で、牧童やってました。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、ホットミルクはいかにも満足げにうなずき、
「それで、なにかお聞きになりたいことがおありなのですよね?」
と、ようやく許可を出してくれる。
ああ、やっぱり上流社会ってめんどくせェと思いつつ、改めて私は、テーブルに覆い被さらんばかりに身を乗り出した。
「あのさ、さっきからアンタたちがいってる「メンター」ってなんなの?」
「メンターというのは、社会や集団に新たに仲間入りする方に対し、技術的な指導を行うとと同時に精神的な支えとなる存在です。簡単に言えば、「弟子」に対する「師匠」あるいは「新人」に対する「先輩」といった存在になります」
ホットミルクの言葉に、ハワードがにこにこしながらうんうんうなずく。が、私はといえば、ますます混乱するばかりだった。
「先輩!?ハワードが?でもって、あたしが新人?一体なんの話だ?あたしがハワードからなにを指導されるっていうんだ?」
思い切り眉をしかめ、上ずった調子でそう尋ねる。
と。
「そりゃもちろん、騎士の心得でしょうね。こう見えて、我が主ハワード・アップルトンは、この国における数少ない精霊騎士の一人ですから」
ホットミルクは大真面目な顔できっぱりとそういったのである。
たっぷり一分間はぽかんと口を開け、まじまじと彼の顔を見つめた後で、ようやく私はつぶやいた。
「えと……冗談だよな?」
「いえ、それが冗談ではないのです。我が主が騎士だなど、信じられないのはよく分かります。ですが、ハワードは正真正銘、国王により叙任された正規の騎士でして」
「いやまあ、確かにそれも信じられないけど、でも、そうじゃなくて!あたしだよ?貴族でもなんでもない、場末の牧童に過ぎない、ド平民のあたしが、なんだって騎士様なんかに……」
「正確には騎士候補ですね。騎士として認められるには、国王陛下あるいはその代理の方から正式に叙任される必要がありますから」
「いや、候補でも逮捕でもなんでもいいよ!なんだってあたしが、あたしなんかがそんなものにされちゃったのかって聞いてるんだよ!」
知らないうちにものすごい陰謀に、それも人違いで巻き込まれてしまったかのような恐怖感を覚え、私はパニック寸前の大声を出した。
だが、ホットミルクもハワードもまるで動じない。大真面目な態度のままである。
「それは、パトリシアさん。あなたに、素晴らしい素質があるからです」
「素質って!貴族でもないあたしに何の素質があるって……」
「パトリシアさん、それは、むしろ逆なのです。貴族だから騎士になれる素質があるのではなくて、騎士になれる素質があり、騎士として叙任された者の中から功を上げた者が、貴族となるのです。他の国はともかく、このラマンデル聖王国においては貴族とはそういう者たちなのです。もっとも、代を重ねるうちに騎士としての能力をなくし、今現在では単なる国家の寄生虫のようになってしまった貴族たちも、数多く存在しますがね」
「そうなのかい?いや、そうなんだろうけど、それとあたしとどんな関係が?あたしなんかに素質なんか……」
「辺境女伯様におうかがいしましたが、あなたは、夢の中に広い牧場をお持ちだそうですね?」
「え?ああ、昔父様が牧場主やってたからね、その時の思い出が詰まった場所で……」
「その上、長く一緒に暮らし、世話をされた、仲のよかった動物たちがいらっしゃる――いらっしゃった」
「まあ、牧場だったしね。そりゃあ、いたよ。みんな死んじゃったけど」
「はい、それもお聞きしました」
「でも、それがどうかしたのかい?全部昔の話、夢の話だよ?」
「ええ、昔の話、夢の話です。それこそが、騎士に求められる大いなる素質なのです」
「……は?」
「夢とは異界への入り口であり、またこの世ならぬ者を含めたあらゆるものと触れ合う場でもあります。そこに場所を持ち、住まうべき者、住まうことを望む者をお持ちかもしれないこと。それこそが、騎士の素質と呼ばれるものなのです」
「でも……あたしがパットたちと別れたのは、もう10年も昔の話で、今さら……」
「実際にやって見せた方が早そうですね。パトリシアさん、ちょっとだけ、私を見てていただけますか?」
「いや、いわれなくても見てるじゃん」
「そうおっしゃらないで、どうか、じっと見ていてくださいね。……いきますよ」
「うん……え?」
言われたとおり、私はホットミルクをじっと見つめていたはずだった。だが、一瞬彼の姿がブレたように感じたかと思うと、彼の姿はかき消すようになくなり、その代わり、全身灰色の小柄な猫が、人間そっくりな格好で椅子に腰かけ、こちらを眺めていた。
「ええっ!」
驚きに目を丸くすると、ネコはどこか愉快そうに「にゃ」と一声鳴き、またその姿がブレたかと思うと、元の少年の――ホットミルクの姿となって、椅子に腰かけていたのである。
「おわかりですか?私はもともとハワードの――アップルトン家の飼い猫でした。それがこの世での生を全うした後に改めて召喚され、このような姿になって、今では彼の従僕を務めています。つまり私は、この世界で精霊と呼ばれる存在なのです」
精霊!
話には聞いたことがあった。
この世界にはそう呼ばれる存在がいて、貴族をはじめとした上流階級の人間には、その精霊を使役できるものがいると。
だが、そんな不思議な存在を使えるものなんてほんの一握りの、秘術を極めたものだろうし、自分のような芸のない、下層の人間には全く縁のない話だと聞き流していた。それがまさか、目の前に座っていた少年がそうだったなんて……。
「ホットミルクはね、ボクの唯一の精霊なんだよ!精霊騎士って、普通は三人ぐらい精霊を使えるんだけどね、ボク、才能なくって、一人だけなんだ!」
なにがうれしいのか、ハワードはにこにこしながら自分のダメさ加減を大きな声で教えてくれる。
「あ、あー……そうなんだ」
やっぱりね、とつけ加えそうになるのを大慌てでとどめ、私はなんとも中途半端な笑顔を浮かべた。
「でもね、メリッサおばさまはすごいんだよ!あ、おばさまっていても、本当は大叔母様なんだけどね、当代一の精霊使いって呼ばれてる。なんたって、9匹もの精霊を自在に使役できるんだ!すごいよねえ、そう思わない?」
「あ、はあ……」
きっとすごいことなんだろうけど、そもそも精霊の存在こそ知ってはいたものの、それが一体どんな役にたつのか――ホットミルクみたいに従僕をやってくれるのなら便利だけど、それなら普通の人間を雇ったっていいんだし、といぶかしく思っていると、ホットミルクが助け船を出してくれる。
「『九尾の魔猫』の異名を持つメリッサ・ブラックバーン様は、九匹の精霊を使役することで、相手がただの人間であるなら大隊規模――数千人の軍勢を、ものの数十分で殲滅できるといわれています。現にかの御方が王国の西方に陣取り、にらみを利かせているからこそ、ここ数年で急速に勢力を拡大し、ついに国境を接するようになった強大なテラシア帝国も、我が国に攻め込みあぐねているのです。そもそもかの御方が辺境女伯として、王国西方の広大な領地を治めることになったのも、その恐るべき戦闘力を先代辺境伯に見込まれ、その養女となったからでありまして。つまり、メリッサ様はその精霊使いとしての実力のみ、広大な領土と権力を手になさったのです」
そうなんだ。貴族の令嬢なんて、てっきり血筋と財産を受け継いだだけの、おっとりぼんやり育った人ばかりなんだろうと思っていたけど、そうじゃなくて、きな臭い、血なまぐさい人生を送ってきた人もいるんだ。道理でメリッサ様も、ナイフの扱いが手慣れていたわけだ、と私は大きくうなずく。
「そして、その類い希なる才能をお持ちのメリッサ様ご本人が見出され、「自分を優に凌駕する素質の持ち主であるかもしれない」とまでおっしゃっているのが、他ならぬあなたなのですよ、パトリシアさん」
「そうなんだ……あ、いやいやいやいや、そうじゃない、そこだけはどうも納得できないって!」
話の流れにのっかってうっかり納得しそうになりかけたのを、すんでのところでようやく押しとどめ、私は大きく首を振った。
「そりゃ、確かにあたしは夢でいつも行く場所があるよ?ずっと昔に死んじゃって、会いたいなっていつも思ってる動物たちだっていっぱいいる。でも、だからって、あたしなんかに精霊使いの素質なんか……」
「それが、あるのですよ。あなたが『夢の牧場』を所持していらっしゃるということ自体が、ものすごい素質を意味するのです」
「なんでよ!?」
「先ほど、ハワードは私一人だけしか精霊を従えられない、と言ったのを覚えてらっしゃいますか?」
「あ、うん。なんか、才能がないからとか……」
「その『才能』とは、夢の土地のことなのですよ。ハワードをはじめとするアップルトン家の方々は、どういうわけか、まさにネコの額ほどの――木を一本植えて、テーブルを一つ置いたらもういっぱいになってしまうぐらいの土地しか、夢の中で保持できないのです」
「うん、そうなんだよね!あははは……!」
と、本当に一体なにがおもしろいのか、ハワードがさも愉快そうな笑い声を立てる。
主の意味不明な反応にいらついているのか、ホットミルクは額に深いタテじわを刻みつつ、完全にその存在を無視し、先を続ける。
「私はメリッサ様の夢の土地を訪問させていただいたことがあります。さすが当代一の精霊使いの保持する場所だけあって、実に居心地のよい、温かく住みやすく、広いところでした。が、それとて、その場所――精霊騎士、精霊使いはその場所を『魂の庭』と呼んでいるのですが――その魂の庭の広さは、この城の中庭程度しかありません。それが、メリッサ様のお話によれば、あなたはびっくりするほど広大な、母屋や家畜小屋まで備えた牧場を保持しているというではありませんか!もしこれで、精霊騎士として必須の、もう一つの能力さえ持ち合わせていらっしゃれば――まあ、魂の土地を保持していらっしゃる方は、ほぼ例外なくその力をお持ちですから、たいがい大丈夫だとは思いますが――あなたは辺境女伯様その人をすら大きく凌駕する、信じられぬほどの素質の持ち主、ということになるのです!」
「はあ……そうなんだ」
「なんだか、反応が薄いですね」
「あ、いや、なんていうか、自分のことだっていう実感が全然ないんだよ。あんたらにしたら、夢の話も十分リアルなんだろうけどさ、騎士とか精霊とかに全然縁のない生活を送ってきたあたしみたいな庶民からすると、夢の話はただの夢の話!そんなふわふわしたことなんかより今日のメシを、明日の仕事をどうするかっていう、目の前にさし迫ったことばかり考えて生きてきたからさ、素質だ才能だって言われても、なんかどうもピンとこなくって……」
「あー、そういわれれば、そういうものかもしれませんね。夢も一つの現実として捉えるという感覚は、慣れないとなかなか難しいのかもしれません。まあ、今のところは、とりあえずあなたには皆が認める素質がありそうだ、ということだけご理解していただければ」
「あー……うん。まあ、分かったことにしとくよ。あたしに何かがなきゃ、あんた方みたいなお偉いさんがわざわざ名指しで、あたしをこんなものすごいお城まで連れてきたり、洗って着替えさせてくれたりしないだろうしさ」
「ええ、そういうことです。それで……ここからが本題というか、あなたにご理解いただきたいところなのですが」
ホットミルクが改めて姿勢を正し、ぐっと身を乗り出す。
「今現在、現役の精霊使い、精霊騎士として国に仕えている者は、ごくごく少数です。国全体の精霊騎士を束ね、実質国家守護の任を一手に担っておられる超実力者の辺境女伯様から、いまだ修行中の者まで含めても、全員で百名いるかいないか、といったところ。そのうち騎士として叙任された者が全体の7割から8割ですから、せいぜい80名ほどで、この国の防衛を担っているのです。ですから、騎士に叙任されれば、その職にある限り、国家からの手厚い手当が支給され、住居も衣服も食料に始まり、身の回りの世話をする人間の給与まで、生活に必要なものはなにもかも保証されます。ですが、その反面、百名足らずの者で外敵全てに対抗するのですから、席の温まるひまがないほどに忙しく、戦地での厳しい生活も多く、そして、武運つたなく死亡する可能性も、決して低くありません。騎士とは……平民の方が考えていらっしゃるほど、恵まれた仕事ではないのです」
なるほど。それはそうだろう。
牧童も、家畜泥棒をつかまえる時や、うっかり毒草をたべて狂った牛を捕らえなければならない時などは命がけだ。けど、それは決して「いつものこと」じゃない。けど、戦うのが仕事なのであれば、命がけなのが「いつものこと」になるのは、ある意味当然なのかもしれない。
「なぜ、こんなことを言うかと申しますと、あなたが真に騎士となるにふさわしいかどうか、もう一つの素質を確かめる前に、あなたの「本当のお気持ち」を聞かせていただきたいからです。先ほど申しましたとおり、『魂の庭』をお持ちの方なら、おそらくもう一つの素質も当然持っているはずです。ですが、それは一応、確かめてみなければ分かりません。そして、確かめた上「間違いなく素質あり」となれば、あなたは半強制的に、騎士となるための数年に及ぶ厳しい修行を受けていただき、そして、騎士に叙任された後も、人生の大半を戦地で過ごしていただかねばならなくなります。もちろん、大いなる素質を持ったあなたが戦力として新たに騎士となってくださるのならば、私たちは大いに助かります。辺境女伯様やその従者の方々からも、是非ともあなたを騎士見習いにさせてほしい、そのように説得せよと、強く言われてもおります。ですが、おいしいエサで釣って騎士見習いになっていただいたところで、その実質が思っていたものと違っていれば、修行にも職務にも身が入るはずがありません。ですから、今のうちにお聞きしたいのです。今ならまだ、残念ながら素質はなかったと報告することが可能です。あなたは元の通り牧童として、豊かではないにしろ安定した、自らの死を常に意識しなくともよい生活を続けていけます」
丁寧に丁寧に、噛んで含めるように説明してくれたおかげで、私にも彼の言わんとするところは、はっきりと伝わってきた。
要は、高い報酬と引き換えに、命をマトにして生きていくか、それとも、安全の上にあぐらをかいて――まあ、女に飢えた下劣な男だらけの場末の牧童生活がそこまで安全かどうかは少々あやしいけれど――生きていきたいか、ということだ。
私は、うつむいて、じっと考えこんだ。
「望み」か。普通の人間なら、少しでも自分が幸せになれるようにって、将来について考えるはずだ。でも……私はどうだ?私は――青白くぐちゃぐちゃに崩れた母様の顔が、ふと脳裏をよぎる――不幸にならなきゃいけない。速やかに死を与えてくれるだろう道を、私は常に選ばなきゃいけない。
それが、私の定められた運命ってヤツのはずだ。
だよね、母様。
十分に考える時間をくれた上で、ホットミルクは改めて、私に尋ねた。
「パトリシアさん。私の言ったことを全てご理解いただけましたか?その上で、それでも精霊使いになることを望みますか?」
私はぐっと顔を上げ、真剣な目で彼を見つめた。
「……あたしは騎士見習いになるよ」
「それで、いいのですね?」
気遣わしげな表情を浮かべながら、ホットミルクが念を押す。
私は、ゆっくりとうなずいた。
「辛いですよ?」
「分かってる。でも、あたしは安穏とした道じゃなくて、いつでも死が身近にある道を選ばなくちゃいけないから」
「勇敢で、献身的な、素晴らしい心構えですね。ですが……」
「ううん、違うんだ。人のためとか、国のためとか、そういうんじゃなくて、とにかくあたしは、そうしなくちゃならないんだよ」
どこまでもかたくなな私の顔を、しばらくじっと見つめた後で、ホットミルクは深々とため息をついた。
「分かりました。それでは、あなたには騎士見習いとなる意志があると見なし、これより最後の素質を確かめたいと思います。ハワード?」
「えあ、え、う、ん!?なに、呼んだかい、ホットミルク?」
どぎまぎとあちこち視線を動かした後で、ハワードはややおどおどした様子で、硬い笑顔を浮かべた(私たちの話に飽きて、なにか全く違うことを考えていたのがありありと分かる態度だ)。
ホットミルクは――先ほどの、私に向けたそれとは込められた心情が全く違う――深いため息をついた後で、再び口を開く(心なしか、やや投げやりな口調だった)。
「ハワード。『エヴェレットの指』を、パトリシアさんに見せてくれますか?」
「エヴェレットの指?ああ、うん、分かった!それじゃあ、話ついたんだね、よかった!」
ああ、やっぱりコイツ、なんにも聞いてなかったんだ。なんともまあ、頼りになるメンターさんだよ、などと私はあきれていたのだが、そんなことなどどこ吹く風という様子で――もちろん、ホットミルクの失望だって歯牙にもかけず――ハワードはいそいそと腰のベルトに下げたポーチを探り、にっこり笑ってなにかを取り出した。
「はい!これが、『エヴェレットの指』だよ!」
それは、わずかに青く光る金属に、精緻で優美な線刻が施された櫛のような器具だった。
おそらく髪をとかすのに使うのだろうが、ただの櫛にしては握りの部分がいやにふくらみ、その先にガラス瓶がねじ込めるようになっている。
「これは……櫛かい?すごくきれいなもんだね」
「はい、もちろん櫛としても使うことができるのですが、それだけはありません。これは、ある特殊な用途に使う器具なのです。これから、この器具であなたの髪をくしけずらせていただきたいのです」
「ああ、それは構わないけど……それで、なにか分かるのかい?」
「ええ。それこそが、あなたに騎士としての必須のもう一つの能力があるかどうかを確かめる方法なのです」
「そうなんだ、そんなことで分かるんだね……」
と、そこまで言ったところで、突然、私の頭に理解が訪れた。
「ハワード!さっきあんたがあたしの頭を押さえたのって、ひょっとして……」
「あ、うん、そうだよ!これをあてがって、資質を確認したかったんだ!」
にっこり笑う脳天気な青年に向かって、私はあわあわしながら、思い切り頭を下げた。
「ごめん!完全にあたしの早とちりだった!いきなり頭を押さえつけるもんだから、てっきりあんたがよからぬことをするつもりなのかと思って、思い切り攻撃しちまって……」
「大丈夫だよう、怪我もしなかったし、気にしないで!」
大仰に両手を振りながら、ハワードはぶんぶんと頭を振る。
「そうですよ。きちんと説明もせず、いきなり若い娘さんの頭を押さえつけるのが悪いんです。全くもう、いくつになっても最低限の礼儀作法すら身につかないんですから。あまり無作法ばかりしてると、お姉様に言いつけますよ?」
「ホットミルク、それだけは許してよう!」
「だったら、いつも言ってるように、なにかをする前に一度立ち止まって、よく考えるようにしてくださいね!」
「はい!」
「はい!」
ハワードに続き、思わずわたしも大きな声で返事をする。
けげんそうな顔でこちらを見る二人に、私はばつの悪い顔となった。
「あ、いや、なんか、あたしも母様からよく同じこと言われてたから、つい……」
「あー……なんだか分かる気がします。パトリシアさんも、騎士見習いとなるからには、軽率な行動は慎むようにしてくださいね」
「はい、重々胸に刻みます」
次からは、いきなり頭を押さえつけられたとしても、相手がベルトをはずそうとするまでは燭台をひっつかんだりしないようにしよう。
「さて、では、パトリシアさん。少々頭を下げていただけますか?……はい、それで結構です。ハワード、『エヴェレットの指』をこちらに。はい、ありがとう。では、いきますよ……」
今までずっと、髪の毛なんて生えていればいいとばかりずっとひっつめたまま、ろくに洗いもせずに過ごしてきた私にとって、それはなかなかドキドキする体験だった。
昨日今日と例の三人組に頭皮がすりむけるんじゃないかってほどの勢いで頭を洗われ、馬のブラッシングもかくやという勢いでブラシがけされたおかげで、長いことカチコチだった髪の毛がようやくほどけた、その頭頂部近くに冷たいくしの歯がそっとあてがわれ、そのまま髪の毛に沿って滑り降りていく感触は、なんというか、自分が宝物にでもなったかのように、大切に大切に扱われているという実感を与えてくれたのだ。
うわあ……なんだかいいな、これ……。
柄にもなくうっとりしている私の髪に、二度、三度と丹念に櫛を通したところで、ホットミルクは手を止めた。
「では、確認しましょうか。もしあなたに素質があれば、ここに『フェアリーティアーズ』と呼ばれる青い液体がたまっているはずなのですが……」
右手を差し上げ、握っていた柄をからそっと手のひらを離し、指先だけで『エヴェレットの指』を支える形にして、ホットミルクはガラス瓶の底にほんのわずかたまった液体を、そっと皆に示す。
その液体は、やや黒みを帯びて見えるほどに真っ赤な色をしていた。
しばらくの間、誰もなにも言わず、ただその液体をじっと見つめ……それから私が、深々とため息をついた。
「あーあ、青どころか、真っ赤じゃん。なんだろ、これ、あたしの血かな?頭にあった傷をこするかなんかした?ごめんね、こんだけいろいろ世話かけさせたのに、あたしやっぱり素質がなかったみたいだ……」
そこまで言いかけたところで、ハワードが素っ頓狂な大声を上げた。
「『ドラゴンブラッド』!た、た、た、大変だよ!」
「ええ、こ、これは本当にえらいことになりました!」
「え、な、なにが……」
「ど、どうしよ、ホットミルク!」
「と、とにかく報告です!まずはメリッサ様か、その従者に!」
「そ、そうだね!行こう!」
「あ、あの一体……」
私の呼びかけなど一切耳に入らないほどの剣幕で叫び合うと、二人はそのまま、ものすごい勢いで部屋から走り出ていってしまった……呆然とした表情の私を残して。
私はゆっくりと首を回し、押し黙ったまま壁際に行儀よく立って一部始終を見ていたトロルたちに困惑し切った視線を向けつつ、ハワードたちが飛びだしていった扉を指さした。
が、先ほどと変わらず、三人はそれぞれ肩をすくめ、ゆっくり首を左右に振るばかり。
こうして私は、この日もまた、なにも分からないまま城へ逗留し続けることになったのだった。




