第1章 あばずれ娘、見出される 5-7
5
「……それにしても驚きましたよ。まさか、目を覚ますなり、縛り上げたあの牧場主たちに襲いかかり、頭を思い切り蹴り上げるなんてね」
立派な服装をした若者が、あきれたように頭を左右に振る。
「いえ、あの、だってですね、いきなりわけも分からず拷問されそうになったから、つい……」
首をすくめ、ぼそぼそと口をとがらせてそういうと、若者は訳知り顔にうなずく。
「まあ、そのお気持ちは分かります。いくら雇い主であるとはいえ、若い女性の顔に消えない傷を刻もうとするのは、少々やり過ぎであると私も思いますから。ですから、馬車に乗り込む前に少々時間を差し上げたのです。縛り上げられたかの牧場主と牧童頭のお二人に「いいたいこと」があるなら存分にどうぞ、という意味合いでね。それがまさか、二人を思いきり蹴り上げた上、ナイフであんな暴挙にでるとは……。さすが、パットブルの異名をつけられることはありますね」
「はあ、すいません」
褒められているのかけなされているのか分からない物言いに、私は中途半端に頭を下げ、とりあえずぼそぼそと謝罪のようなことを口にのぼせる。
いいたいことだけいうと満足したのか、目の前に座る端整な顔だちの若者は、押し黙って窓外を眺めはじめ……仕方なく私も、この気まずい雰囲気のまま、あと三日間も過ごさなきゃいけないのか、と内心かなりうんざりしながら、窓外のさびれた光景に目を向ける。
今でもよく覚えているが、その時の馬車は、ひどく揺れた。
見慣れた荷馬車や辻馬車と違い、車輪が木製ではなく金属製だったり、窓や扉にも金属の縁取りがあったり、立派な制服を着た御者がいたりと、どこをどう見ても大商人かお貴族様が外出に使う、立派な――私なんかが一生乗ることはない、と思っていた――馬車に乗っているにもかかわらず、ものすごく揺れた。
というのも、その時馬車がたどっていた、やがて北方街道にぶつかる名もなき道は、当時王国内でもかなり貧しい地域を走るものであり、財政的に余裕がないせいでろくに整備もされず、荒れ放題になっていたのである。
私の住むこの国、ラマンデル聖王国は、東西をヘドニア共和国、オルガニア帝国という有力な国家に挟まれ、北を波濤荒ぶるサーペント海、南を岩礁連なるハイドラ海によって区切られた、地峡のような部分に位置する。
版図自体はそこそこ広いのだが、その大部分はサーペント海沿いにそびえ立つ「背骨山脈」と、そこから別れてハイドラ海に伸びる四本の険しい「肋骨高地」が占めており、利用できる土地といえば、東方の平地と、肋骨高地の狭間に広がる低地、そして、南北の海沿いの狭い土地しかない。
しかも、背骨山脈のさらに北、サーペント海沿いの土地は、平地がごくごく少ない上に気候が厳しく、かろうじて漁業を生業とする寒村が点在するだけ。自然、王国はまず、南のハイドラ海沿いに東西をつなぐラマンデル街道を中心として、開発が進められることになった。
そして、ラマンデル沿いのめぼしい土地が全て農地や牧草地として開発されると、次に肋骨高地の間にあるそれぞれの狭間を北へと向かう街道が作られ、そこに面した土地が、東から順に開発されていく(というのも、肋骨高地は西へ行くほど険しく、東へ行くほどなだらかで、その間の土地も、肋骨高地自体も開発しやすかったのだ)。やがて、ラマンデル街道とそれぞれ北へと向かう街道の合流地点は、王国の主要都市となり、さらに、東の国境にはジュブラリア、西の国境にはストマリーという街が作られる。
こうしてこの国はラマンデル街道を大動脈として、成長し、人口を増やしていったのだが……その中で唯一の例外が王都ハルティアラントだった。
この都市だけは、流通や輸送の便利さからというより、王族の権威と威光、そして安全を守るために整備されたため、ラマンデルか街道から北上する街道の一本、その名も「王都街道」と呼ばれる道の北の終着点に作られた。
そのハルティアラントのさらに北の端、山の麓から這い上るようにしてそびえる王城の、さらに奥まった一室に王は鎮座し、その高所から王国全体を見守っている、という体をとっていたのである(もちろん、当時の私にはこんな知識はなく、ただ言われるがままに馬車に乗せられ、どこへ行くとも何しに行くとも知らぬまま、ただ必死で足を踏ん張り、馬車の揺れに耐えていたのだけれど)。
ちなみに、その当時私が生きていた――「暮らしていた」とはいいたくない。あそこの生活は「暮らし」なんていいものじゃなかった――牧場は、王国の北西、背骨山脈の麓にひろがる広大な森と原野、そして、その原野を切り開いて作られた小さな牧場や農場が点在するあたり――「西辺境地方」のさらに外れ、町はおろか、ろくに商店すらないような田舎にあった。
前にも言ったが、そのあたりは、王国でももっとも貧しい人々ばかりが集まる地方であり、ために開拓も遅々として進まず、そしてせっかく開発された土地も、あまりの生活の厳しさで見捨てられ、荒れ放題になることが多いようなところだった(もっとも、この国において貧しいのは西辺境地方だけに限らず、王族や貴族たちの生活する主要都市周辺以外の土地は、どこもかしこも生きていくだけで精一杯な人たちがほとんどを占めていたのだが)。そのため、道の整備もほぼなされず、そこここに石ころや穴ぼこが放置されている。それで、せっかくのよい馬車だというのにろくにスピードも出せず、揺れに揺れたのである。
名もなき悪路を幾本も乗り継ぎ、走破し、どうにか北方街道へと合流したあたりで、既に日は落ちかけ、赤い光が一面にさしかかっていた。
その日の「旅」はそこで終了。
道がやや広くなった場所に数軒、長年風雨にさらされた家が建っているだけの「宿場」。その1軒に宿を取ると、黒パンにシチューに水という粗末な食事を取り――それでも、納屋の片隅でカチコチに固くなったパンをかじるのが「いつもの食事」だった当時の私にとって、十分なご馳走だったのだけれど――狭い部屋に用意された桶の水とボロ布で汗と汚れをぬぐい、わらのベッドに倒れ込んだところで、いろいろ異な事が一時にいっぺんに怒りすぎ、よほど疲れていたのだろうか、そのままなにも分からなくなった。
こんな風に、不安とか緊張とかで気持ちが揺れている時――牧場暮らしでは、そんな状態が日常だったのだけれど――私はたいがい、母様の夢を見る――見てしまう。
8歳に戻った私は、あの襲撃の晩、隠れていた木のうろの中に戻り、何もすることができずにただただ震えている。そこへ、異様に長い手足をぶらりぶらりと揺らしながら、母様がのたりのたりと近づいてくるのだ。
脚の長さが伸びた分だけ背丈も伸びて、今や母様の顔は、木の枝の間にできたうろにいる私より高い位置にある。
目のあるはずの部分に空いたうつろな空洞を――それでもなぜか見えているのか――あちらこちらへと向け、そぎ落とされてこちらも二つの穴だけになった鼻の下、一本の歯すらない、頬の付け根まで裂けた口を大きく開けた、恐ろしい笑顔を浮かべ、ひょろ長い手で枝をがさがさとかき分け、子供が隠れられそうなところを、一つ一つのぞき込んでは、「ちがあう」「いなあい」とつぶやき、また次を探して……次第に私の隠れている木へと近づいてくるのだ。
やがて……ついにその時がやってくる。
「いたああ……」
うろの中で身を縮こまらせ、樹上を見上げていた私に覆い被さるように、母さんはぐうっと顔を近づけ、食いしばった歯の隙間から、かすれた笑い声を立てる。
「わたしがこんな姿でさまよっているのに、お前は、ぬくぬくと眠っているのか?なにごともなく生きているのか?」
母さんの言葉に胸を切り刻まれ、私は、たちまち大声で泣き始める。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「許さない……ゆるさなあああああい……!」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
両目から止めどなく涙があふれ、頬を伝って流れ落ちてゆく。
「だああああめだ、ゆるさなあああい……なぜお前は生きている?早く死ねええええ……速やかに、望まぬ死を遂げるのだああああ……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
そうだ、私には、生きている権利など、安楽な生活を送る権利などない。ベッドで眠り、湯気を立てたおいしい食事をお腹いっぱい詰め込むなどということは、私には許されない。枯れ果てた野を巡り、寒さに震えながら、生き急ぎ、速やかな死を甘んじて受け入れなければならない。
「早くこちらへ来いいいい……早く命を落とすのだああああああ……」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私は精一杯の誠意を込めて、何度も何度もうなずく。
わかっています、急ぎます、奈落の底で口を開けている死へ向かい、全速力で駆け下ります……。
そこで、私ははじけるように飛び起きる。
現実の私はあと半年ほどで18歳になる17歳で、もう木のうろに隠れていられるほど幼くも、小さくもない。けれど、あの頃と同じように無力で弱く、そして、あの時と同じように涙で顔をぐしゃぐしゃにし、傷だらけの心をさらに傷つけられ、身を縮め、震えている。
その震える両手でぎゅっと体を抱きかかえると、いつものように私は誓いを立てた。
ええ、母様。分かっています。私向かう先は、死あるのみ。死地を自ら選び、そこで非業の死を遂げることこそ、私の定められた運命です……。
6
二日目も、馬車の中は相変わらず気まずい雰囲気だった。
早朝にそそくさと食事をすまし、おそるおそる馬車に乗り込もうとする。と、既に先に乗り込んでいた若者が私の顔を見るなり鼻をひくつかせたかと思うと、次の瞬間、この上なくしぶい表情になり、顔をそむけた。
ああ……よほどひどい臭いをさせてるのかな。寝る前にしっかり体を拭いたつもりなんだけど。思えば昔も母様から「どうしてあなたはきちんと身だしなみが整えられないのでしょうね」とため息をつかれながら、とかしたはずの髪をもう一度しっかりとかされたり、しっかり洗ったはずの体を隅々まで洗い直されたりしてたっけ……。
そこまで考えたところで、ふと昨晩の夢が鮮やかに甦りそうになり、私はあわてて頭をぶるぶると振ると、向き合った席の窓際に座る若者からなるべく離れたところに、なるべく体を縮めるようにして腰を下ろす。
それを合図にしずしずと馬車は動き出し、やがて、軽快に走り出した。
思えばあれは――あの辺境女伯様のお屋敷へと向かう三日間の馬車での移動は、私の人生における初めての「旅」だった。
この日以降、私は人生のかなりの時間を旅に費やすことになる。が、これより前の私はというと、余裕を持った移動などには、とんと縁がなかった。
あの崩壊の日――襲撃の日以前の私は、ずっと父様の牧場で過ごしていた。その後、5年の記憶の空白期間を経て、牧童として働くようになってからは、あちこち流れ歩きはしたものの、それはほとんど餓死の恐怖と闘いながらの放浪で、周囲の光景を楽しむなどもってのほか。闇にひそむ見えない敵に怯え、冷たい雨に打たれて冷え切った体を引きずり、泥水をすすりながら、目についたものなら何でも口に入れて生き延びるというものだった。
死の危険を意識することなく、体が冷え切って指の感覚がなくなることもなく、ゆっくりと窓の外の光景に目をやり、ぼんやりともの思いにもふけることのできる「旅」をしたことなど、一度もなかったのである。
これで、共に行くのが気の置けない仲間あったならば、きっと初めての体験を心ゆくまで楽しめたに違いない。が、同乗者はこちらから何か言わない限り、じっと黙ったまま。おまけに、一体自分がどこに向かっているのか、行く手になにが待ちかまえているかさえ、さっぱり分からないときている。
北方街道は、さすが王国の主要道であるだけのことはあり、昨日走った名もなき道とは違って、くぼみもぬかるみもでかい石ころもなく、よく整備されている。おかげで馬車もそれほど揺れることなく、スムーズに走ってくれる分、快適だ。
だが、よくなったのはそれだけ。目的も目的地も分からないまま、無口な同乗者とひたすら移動し続けるだけとあっては、「旅を楽しむ」余裕など皆無。緊張しながら座席の固さと退屈にひたすら耐え続けるだけで精一杯だった。
それでも、こちらがおそるおそる尋ねたことに対し、同乗者も、時折は返事を返してくれることもあって……。
「そういえば、あの、牧場では助けていただいてありがとうございました」
ふと、そういえばあの時についての言い訳は口にしたけれど、まだきちんとお礼を言っていなかったよ思いだし、私は目の前に座る青年――昨日着ていたのとよく似た真っ白なシャツにクラバットを結び、揃いの上着と半ズボンを身につけた青年に向かい、深々と頭を下げた。
と、青年は手にした書類から目を離しもせず、
「礼には及びません。あそこであなたが殺されたり傷つけられたりしたら、主人の命令を遵守できなくなるところでしたから。必要に応じて助けたまでです。そうでなければ、魔法まで使ってあなたなどを助けたりしませんよ」
と、はっきり言い切る。
あなた「など」って、なんだかものすごく見下されてる気がする、でもまあ、身分や財産の違いを考えたら仕方ないんだろうけど。現に、この人は昨日と違うシャツを着て、体中から石けんのいい匂いをさせてるのに、私は昨日と同じ――というか、ひと月前と同じ服をずっと着てるんだから……。
考えれば考えるほど気が滅入り、鬱々とした気分になるが、せっかく会話が成り立ったのだから、としいて自分を励まし、さらに言葉をつむぐ。
「あの、今、魔法っておっしゃいましたか?ひょっとしてそれって、あの時私を助けた不思議な術、いきなり地面からツルが生えて、あたしたちをグルグル巻きにした……」
「ええ、あれが魔法です。かなり初級のものですけどね。少しでも魔法の素養があれば、簡単に防げる程度の」
「あ……そうなんですね。すみません、魔法って、見るのも初めてだったんで」
「え!?今、なんと?」
「あ、ですから、魔法って初めてだったんです。上流階級の方々はそういうものを使ったりすることがあると、話には聞いていたんですが。ああいうものだったんですね」
あの時の驚愕を再びかみしめつつ、感慨深くそう言うと、ツナ様はゆっくり首を左右に振り、ため息をついた。
「やれやれ。あなたは正真正銘、辺境のそのまた奥の草深い土地で成長した方のようですね。そんなあなたを、なぜこの私が直々に迎えに来なければならなかったのか、ますます分からなくなりましたよ!」
「え、あの、なんかすいません……」
なぜ相手がいらついているのかよく分からなかったが、とりあえず謝っとけばいいかと、頭を下げる。
「なぜあなたが謝るのです?あなたにはまるで関係のないことでしょうに」
「いや、でも、迷惑をおかけしてるみたいですし」
「迷惑、ですか。まあ確かに、本来の業務の大いなる妨げにはなっておりますね。おかげで、このように馬車にまで書類を持ちこまなければならない始末です」
「あー、すいません、あたしなんかのために、貴重な時間を使わせてしまって。えと……」
そこで私ははたと言葉に詰まってしまった。
相手に正式謝罪するとなれば、きちんとその名前で呼びかけるのが当然の礼儀なのだが……もう二日間ずっと顔を合わせているのに、いまだ青年の名前を聞いていなかったことに、今さらながら気づいたのである。
額に皺を寄せ、脂汗を流しながら、あーうー困り果てている私を見て、青年は、なんとも言えぬやるせなさそうな顔になると、先ほどよりも深く長いため息をついた。
「ツナ、といいます。それと、重ねていいますが、あなたからの謝罪もお礼も一切無用です。全ては職務により行ったことですから」
「あ、はい……」
「おわかりいただけましたか?」
やや強い調子で念を押され、私は身をすくめた。
「はい……」
「よろしい」
相手が鷹揚にうなずいたところで、私は再び口を開く。
「ツナ様、といおっしゃるのですね」
「ええ」
「そうですか。それで家名は……」
いいご家庭に生まれた者は、当然家名を持つ。身なりとその職務からして、ツナ様も当然、上流の生まれに違いないと思い、そう聞いたのだ。
が、ツナ様はゆっくりと首を左右に振る。
「家名はありません。というか、ツナという呼称自体が家名でもあり名前でもあるのです」
「そうなんですか」
よく分からない。呼び名が家名で名前ってどういうことだろう?
例えば牧童仲間たちは「ガス」「ヘンリー」「トム」といったふうに、ほとんどの者は名前を持つだけで、家名を持つものはいなかった(同じ名前の者がいる時には「のっぽのトム」「チビのトム」とか「レイクサイド牧場のジム」「スピー農場のジム」なんていう風に、見た目や働く場所からあだ名をつけて呼んでいた)。さすがに牧場主くらいになると、「レイクサイド」とか「ドッドソン」なんて家名を持つけど、それは自分たちの牧場を他の牧場と区別するため、本人が勝手につけた「屋号」と呼ばれるものに近いものだ。
下層階級で私のようにそれなりに由緒のありそうな家名を持つものは本当に稀で、牧童たちは、それを知ると皆おしなべてしぶい顔となり、生意気だの偉そうだのと、文句をつけてきたものだ。
あれ?じゃあ、ツナ様も下層階級の出身で、まだ家名をつけてないってこと?
気になったので、その旨おそるおそる尋ねてみると、
「いえ、そういうことではありません。正式な名前もあるにはあるのですが、あまりに仰々しく呼びにくいので、ツナ、と呼ばれるようになったということです。ですから、いうならば「あだ名」というものに近いですね。とはいえ、今は「ツナ」というのが正式な名前なのですがね」
こともなげにそう答えてくれたのだが……やっぱりよく分からない。
「どういうこと?立派で正式な名前があるのにそれを捨てて、ツナなんてあまり人の名前らしくない、変なあだ名を正式な名前にするって……」
首をひねりひねり夢中で考えていたせいか、思わずその考えている内容が、口をついて出てしまっていたらしい。
「……人名らしくないですか。ええ、確かにそうかもしれませんね。ツナ――まぐろなんて、確かに人の名前としては珍しいですよね。でもまあ、私は満足してますから。主様につけていただいた、大切な名前ですからね、ええ」
はっとツナ様を見つめると、それまでわずかにゆるんでいた口元が引き締まり、とりつく島のないかたくなな無表情の仮面が、その顔にはりついている。
どうやら、変わった名前であることを、ツナ様本人も気にしていたらしい。
やべえ、機嫌をそこねるようなこといっちゃったよ、せっかくほんの少しだけ雰囲気が柔らかくなってきてたのに……とあせりつつ、私は慌てて話題を変えた。
「あの、それでツナ様は、どんなお仕事を……」
「仕事ですか?まだあなたにお伝えしておりませんでしたか、これは失礼。私は秘書官です」
と、今度はたちまち機嫌が直り、とくとくとした様子をみせる(名前とは裏腹に、自分の仕事についてはかなり自慢に思っているらしい)。
「秘書官様、ですか」
「ええ、辺境女伯様付きの秘書官です」
と、ツナ様はますます胸をはったのだが……私は途方に暮れた。
なにしろ子どもの頃から徹底した勉強嫌いで、机に座って本を読まされそうになるたびに逃げだし、木に登っては猫と遊び、牧場を駆け回っては犬と戯れていたのだ。加えて、牧場勤めを始めてからは毎日が重労働の連続。勉強する暇も気も、まったくなかった。そのせいで、この当時の私の知識の幅と言えば、牧場と家畜のことのみにほぼ限られており……秘書官というのがどんな仕事か、どれほど偉いのか、全く分からなかったのである。
「ええと……ごめんなさい。多分、秘書官様ってすごいお仕事だと思いますし、偉いんだろなとも思うんですけど、今までそういう人が身近にいなくて、どういう仕事なのか、あたし、全然分からなくて……」
恥ずかしさに身をすくませつつ、思い切ってそう告白すると、ツナ様はぽかんと口を開け、しばらくの間、外国からきた珍奇な動物でも見るような目でまじまじと私を見つめた後、またも深々とため息をついた。
「やれやれ。あなたには本当に驚かされます。まさか、秘書官をご存じないとは。いいでしょう、では説明して差し上げます。秘書官とは……」
秘書官とは、主人のそば近くに仕え、スケジュール管理から出先でのお茶や食事の手配に至る日常生活の補助や仕事の補助をしたり、主人に代わって遠い土地を巡察したり、時にはその地に赴任して代官を務めたりと、ありとあらゆる仕事をこなすプロフェッショナルであるらしい。
「ああ……えっと、なんでもできるお手伝いさんみたいな感じですか?」
「……まあ、そうですね。その表現はあまり気に入りませんが」
むっつりと不機嫌そうな表情で答えるツナ様に不思議そうな視線を送りつつ――当時の私は、なぜ秘書官様がいらついているのか、本気で分からなかったのだ――さらに問いを重ねる。
「それでその、ツナ様のご主人の、辺境女伯様という方は、一体どういう……」
と、そこまで言いかけたところで、ツナ様は「はあっ!?」と大声を上げた。
ビクッとして、思わず目の前の小太り青年をまじまじと見つめると、その当の相手も、さらにびっくりした様子で、身じろぎもせず私を注視している。
「あなた……まさか、辺境女伯様がどのような方か、ご存じではなかったのですか?」
「え、あの、お偉い方だとは思うんですけど……」
「この馬車に見覚えは?」
「いえ、ないです。高そうな馬車だな、とは思ってましたけど」
「馬車についた紋章は?見たことありませんか?」
「いえ、あの、普段はずっと動物の世話ばかりしてたので……」
なんだか答えるたびに申し訳ない気持ちがふくらみ、いたたまれなくなって、私は肩を落とし、うつむいていく。
その私を、なおもしげしげとしばらく見つめた後で、ツナ様は先ほどよりもさらに深々とため息をついた。
「全く、あなたには驚かされてばかりですね。一体なぜ、あなたのような人と私が今現在同じ馬車に乗っているのか、これはまさに、一つの驚異、奇蹟の巡り合わせとしか思えませんよ」
「え、あ、はあ、すいません」
「いいですか、我が主であるメリッサ・ブラックバーン辺境女伯様は、王国西方の広大な土地を治める大領主様です。あなたが働いていたあの小汚い牧場も、そこからここまで走ってきた道沿いの土地も、これから先向かう土地の大部分も、そしてそれらの土地に住まう領民も、家畜も、都市もなにもかも、全ては辺境女伯様の所有物であり、我がご主人様の一存でどうにでもできる「私物」です。辺境女伯様とは、そういった広大な権力を保持した、あなたから見ればまさに雲の上にいらっしゃるほど高貴な立場の方なのです」
「はあ……そうなんですか」
「かくいう私も、普段は王国最西端の街、ストマリーの代官を務めております」
「はあはあ」
「このたび我が主様は、西方巡察の旅にお出かけにあり、その途中私が治めるストマリーへと立ち寄られ、今回の、あなたを探しだすという使命を与えられたのです――って、あなた、私のいっていること、理解してらっしゃいますか?」
あまりに私の反応が薄かったせいか、ますますいらついた様子で、ツナ様がうろんな目を向けてくる。
「はあ……いえ、あの、すごいんだろうなとは思うんです。思うんですけど、なんかケタが違いすぎてよく分からないっていうか、ぴんとこなくって……あの、まあ、とにかく、辺境女伯様もツナ様も、牧場主なんかより、ずっと偉いってことだけは分かりました」
「比べる相手、そこですか、全く……。よく分かりました、あなたにはなにを言っても無駄ですね。私は仕事がありますので、あなたはおとなしく外の景色でも見ててください」
そう言うとツナ様は、かたわらに置いていた書類を再び手に取ったかと思うと、それ以降は私がなにを言いかけても完全に無視。時折なにやらブツブツつぶやきながらペンでいろいろとメモを取りつつ、ひたすら「仕事」とやらに意識を集中し続ける。
聞きたいことはまだまだたくさんあったのでけど、とりつく島のまったくないその態度に、私は口をつぐまざるを得ず――まあ、これまでの数々の失礼を思えば、ツナ様のこの態度も当然なのだけど――言われたとおり、その日はそれ以降ずっと、窓の外を眺めていたのだった。
7
三日目。
この日も早朝からひたすら南下する馬車に揺られることになった。
ツナ様は、これまで以上に冷淡で、私が向かいの席に腰かけていることすら全く忘れ去っているかのような態度。当然、話しかけるきっかけなどつかめるはずもなく、ずうっと窓から外を眺めている羽目となったのだが……意外なことに、その光景は、ちっとも私を飽きさせなかった。
街道をここまで下ってきたせいで、見える景色も、かなり違ってきたのである。
牧場や農場が連なっているのは相変わらずなのだが、その間に広がっていた荒野がなくなり、人間の手が入った土地が連続して現れるようになる。
さらにその柵も、私の見慣れた田舎のものとは違い、どこかが折れていたり、割れたりしているということもなく、全ての杭、全ての桟がきちんと整っている。農具小屋だって、半分つぶれかけていたりはせず、母屋並みに立派なものが幾棟も堂々と立っている。
昔暮らしてた、父様の牧場みたいだ。それに農場だって、土が黒々としてる。きちんと手入れをされてる証拠だ。こういうところなら、牧童も農夫も働きがいがあるんだろうな……。
その気はなかったのに、つい無力感に苛まれながら毎日あくせくと家畜の世話をしている自分と引き比べてしまい、うらやましさがどっと湧き出してくる。
あ、牛さん!……丸々肥えて、お乳もよく張ってる。毛並みもつやつやして……なんて幸福そうなんだろう……!牧草がいいのもあるんだろうけど、それだけじゃない、すごく手をかけてもらっている。ここらの牧場主や牧童たちは、本当に牛を愛しているんだ……。
エサの絶対量が少ないせいで、いくら世話をしてもガリガリのヒョロヒョロ、幽鬼のように放牧場をさまよっている牛さんたちが脳裏に思い浮かび、申し訳なさで思わず顔がゆがむ。
いいなあ。ああいう風に牛を育てられたら最高なんだけどなあ……。
角はもう切ってしまっているのか、尻尾の様子はどうか、鼻面はきれいな色をしているか、目の光はどうか……やや遠方に固まっている牛たちの、さらに細かいところを見たくて、私は、馬車の窓の貼り付くようにして、必死で目をこらした。
と、そこへ。
「そんなことをしてていいんですか?」
夢中になっている私に思い切り冷や水を浴びせかけるかのような、思い切りあきれ果てた声が、背後から響いた。
これまでずっと、完全に存在を無視していたくせに、私が他のことに集中し始めると、邪魔するように話しかけてくるって……。
全くもってネコみたいに自分勝手な人だ、上流階級の人は皆こんな感じなのかな、などとややあきれつつ、困惑顔をツナ様の方へと向ける。
「えと、あの……気に障ったのならすみません。でも、どうしても牛の様子が気になって……」
うるせえこと言わず、外ぐらい好きに眺めさせろ、と啖呵を切りたいところだったが、なにせ相手は雲の上の人である上、命の恩人だ。むかっ腹が立つのをぐっと我慢し、できる限り丁寧な口調を心がける。
が、ツナ様はそんな様子を全く気にかけることなく、あからさまにバカにした目でじっと私を注視した。
「ま、牧畜に従事するものとして、このあたりの模範的な牧場の様子が気になるのは分かりますがね。今はそれよりもっと他のことを気にするべきではないですかね。こういったよく整備された場所が増えてきたということがなにを意味するか、あなた、分かってますか?」
「え……だから、どんどん土地が開けてきてるってことですよね?」
「ええ。土地が開けているということはつまり、街が、都市が近づいているということです。このたびの目的地であるパイロブルグがね」
「ああ!私たちは、パイロブルグに向かってたんですね。名前だけは聞いたことあります。なんでも、このあたりでは一番の大きな町だとか」
「ええ、大きな街ですよ。なにしろ、辺境女伯様の本拠地であり、その居城のある街ですからね」
「そうなんですね。私、街って初めてなんで、見るのが楽しみです」
「ああ、いえ、今回は街の方には行きませんよ。そこではなくて、町からちょっと外れたところにありますのでね」
「なにがですか?」
「なにがって……目的地ですよ」
「そうなんですね」
「そうなんですねって……あなた、自分が何のためにここまでやってきたか、分かってますか?」
「あ、いえ。全然」
「……え?」
「だって、説明してくんなかったじゃないですか」
私は軽く顔をしかめたのだが……ツナ様はただただ、あってはならない異物を見たかのような目で、じっと私を凝視する。
「説明もなにも、分かりませんか?言いましたよね、私は辺境女伯様付きの秘書官ですよ?その私が直々迎えに来たのです!」
「ええ、はい、ありがとうございます」
「そして、この馬車!これは、辺境女伯様ご自身が特に愛用なさっているものです!」
「ああ、道理で、そこらの馬車とは全然違う、凝った造りだと思ってました」
「いや、ですから!秘書官が直々に主人愛用の馬車でお迎えに来たんです!となれば、呼ばれた理由はただ一つでしょう?あなたはこれから辺境女伯様の居城へと赴き、正式な来客として、ごく親しき朋友として、この王国で国王閣下の次に強大な権力を誇る辺境女伯様その人と面会するんです!」
「……はい?」
城へ行く?それも、正式な客として?でもって、国で二番目に偉い人と会うだと?一体なぜだ?なにがどうしてどうなったら、そんなことになる?
いきなりおろおろし始めた私を見て、ツナ様はぶるぶると頭を振った。
「驚きました。いや、本当に驚きました。あなた、自分が一体なぜ呼び出されたのか、今の今まで気づいてなかったんですね。いやあ、ここまで非常識……世事に疎い方も珍しい」
「や、でも、なんでよ!あたし、場末の牧場で働くただの牧童だよ?そのあたしがなんでそんなものすごい場所に呼ばれて、メッチャクチャ偉い人に会わなきゃなんないのさ!」
「いえ、ですから、ずっと言ってるじゃありませんか!なんであなたのような方を、わざわざこうして正式にお屋敷へ招待しなければならなかったのか、さっぱり見当がつかないと!むしろ、私の方が逆にあなたにお聞きしたいぐらいです。なにか、こうして呼び出されるような心当たりはないのですか?」
「ええっ!あたしみたいなアバズレの牧童に、そんな心当たりなんて……」
と、そこでようやく、私はしばらく前に見た、あの牧場の夢のことを思い出したのである。
「……しばらく前に、あたしの夢の牧場の中で、すごく奥方っぽい人と話はしたけど……」
「ああ、では、きっとそれですね」
「でも、ただの夢だよ?そんな頼りない話を手がかりに、本気に誰かがあたしを探しにくるなんて、普通あり得ないって!」
「いいえ、夢はただの幻ではなく、未来の予測を報じたり、遠く離れたどなたかとの連絡手段になったりなどといった有効な手段となり得ることは、神秘学でも証明されています。我が主様は、夢でお会いにあったあなたに興味を持たれ、ぜひお会いしたいと思われたのでしょう」
「そ、そうなんですかね?」
夢のような頼りないものを手がかりに人捜しをしようと思い立つなんて、やっぱり上流階級の人の考えることは分からない。
「ええ、そうだと思いますよ。しかしまさか見つけ出した当の本人がこのような方であるとは、それこそ夢にも思わなかったでしょうね」
そう言うと、ツナ様はわざとらしく鼻をひくつかせ、この上なくしぶいしかめっ面となった。
その仕草を見て――反射的にツナ様の頬を張り飛ばそうになるのをかろうじて押さえるのと同時に――私ははっと思い出した。
そういえば私、牧場仕事の途中で連れ出され、そのまま水浴びをする間もなく馬車でここまで連れてこられて……体中から三日間掃除してない牛小屋か、ドロドロに濁った沼地みたいな臭いをぷんぷんさせてんだっけ……。
「あの、その、奥方様――辺境女伯様にお会いする前には、当然体を洗うぐらいの時間あるよね?」
おそるおそるそう尋ねたのだが……ツナ様はすげなく首を横に振った。
「申し上げましたよね?この馬車は、辺境女伯様にとってごく親しき朋友にのみ差し向けられます。ごく親しき朋友とはすなわち、面倒な儀礼やエチケットなど全てすっ飛ばし、家族同然のお付き合いをなさる方という意味になります。あなたは、ご家族にお会いになる時、わざわざ身を清め、服装を改めますか?」
いや、そんなことはしないけどさ、でも、母屋に入る前には、顔や手を洗ったり、ブーツや上着についた泥を落としたりぐらいはしたぞ?
「それにほら、身繕いをしようにも、もう時間もありませんし」
「……へ?」
「前方をよくご覧になってください」
言われたとおり、窓ガラスに顔を寄せ、前方をすかし見る。
と、いつの間にか、街道の周囲に広がっていた牧場の柵はなくなり、代わりに、きれいに刈り込まれた芝生が延々と続く、小高い丘が広がっている。街道から別れ、その丘をうねうねと這い上っている小道を目で追っていくと、そのつきあたり、だだっ広い丘のてっぺんに、こぢんまりとしたお屋敷が建っている。
「見えましたか?あれが辺境女伯様の居城です。ここからですと、そうですね、後15分も走れば到着するかと。そして、もうおわかりかと思いますが、到着後すぐに辺境女伯様ご本人があなたと面会なさる予定になっています」
「マジかよ!」
驚愕のあまり思わずアバズレの地が出て、私はそう叫ぶ。
が、そんな下世話な言葉使いにも一切動じることなく、ツナ様は大真面目な様子でうなずく。
「今さらあなたに嘘をついて、一体どんな得があるというのです?」
「いや、そりゃそうだけど!」
「それよりも……」
と、ツナ様はここで、とってつけたような咳払いをすると、すましているが、どこか面白がっていることが見てとれる顔で、再び口を開いた。
「先ほどの忠告を、もう一度くり返させてください。「そんなことをしてていいんですか?」いくらごく親しき朋友とはいえ、頭から汚物入れにつっこんだかのように汚れて、ぷんぷんといやな臭いを放つ姿でお屋敷にずかずか踏み込むのは、さすがにどうかと思いますが……」
「分かってる!分かってるけど……ああ、もう、ちくしょう!」
臭いは今さら仕方ないとして、せめてほこりと汚れぐらいはどうにかしようと、必死でブーツや髪の毛をはたいてほこりを落とし、袖口で顔をぬぐって汚れを落としつつ、私は、一体なにに巻き込まれたのか、これから一体どうなるのかと、ずっと首をひねり続けていたのだった。




